雲南、見たり聞いたり感じたり

雲南が中心だった記事から、世界放浪へと拡大中

雲南の薬3 落語にも

2012-09-29 16:00:13 | Weblog

写真上は清代に塩の生産で栄えた雲南省の四川省よりの山間にある黒井(2005年撮影)。この地も清代に開発が進み、その後、現代まで開発の波より忘れ去られ、保存された。
写真下は福建省中部の山間にて(2001年撮影)。山水画のような山々と底を滔滔と流れる川には珍しい動植物がいっぱいいた。だが、この付近まで清代には中国の大都市で食い詰めた「棚民」と呼ばれる人々が訪れ、未開の地を開拓し、山菜を採ったり、畑にしてくらしはじめた。訪れた時点では、山の木を使ったキノコ栽培と100円ショップ工場の他は、人の姿はほとんどない自然の宝庫に戻っていた。

【落語・葛根湯】
 風邪の症状さえ、見極められれば、「桂枝湯」か「麻黄湯」の方が、よく効くはずなのに、私を含め、日本人は「葛根湯」が大好き、やはり、これほど好まれるのは、理屈はともかく、日本の風土と体質に合っていたのではないでしょうか。となると、体質からして日本人というのは中庸で、どっちつかずの感じが身についているのでしょうか? 

 そういえば落語に「葛根湯」という噺があります。どんな病気の人にもとりあえず、葛根湯を処方して治す、というやぶ医者の話なのですが、葛根湯が古来より、日本人に愛されていたことがよくわかります。

【日本にない「温病学」】
 ちなみに、今や中国漢方の、とくに風邪の症状では主流となっている「温病学」ですが、これは中国の明代(1368年 - 1644年)に興った学問です。

とくに清代(1644年-1912年)には温病と総称される急性伝染病が明代に引き続いて猛威をふるい、1688年から1860年までの214年間にじつに80回を越える疾病が蔓延したとか。腸チフス、コレラ、赤痢、マラリア、天然痘、はしか、ペスト・・、今なお恐ろしい病のオンパレードです。

清代というと中国は領土をチベットにまで拡張し、鉱山開発や山畑開発がさかんになることで、未開の地に大勢の人が入植、さらに、世界的な貿易ルートからの未知のウイルスの輸入もあって、いままで中国になかった病気への新たな対処が必要になりました。
 そのような中で確立された学問なのです。

 一方、そのころの日本は江戸時代。鎖国の影響なのか、中国で当時、新潮流となっていた温病学は輸入されることはありませんでした。

 そのため「(日本では)ほぼ重視されなかったので、適当な方剤が乏しい。」と現代の漢方学の本にも書かれるほど、日本では欠落した分野となってしまったのです。
 おかげで今なお、中国でウイルス系の風邪に処方されている「葱鼓湯」や「銀翹散」といった温病学系統の薬は、日本では保険適用のエキス剤がない、ということです。(『中国医学の歴史』、傅維康著、川井正久編著、東洋学術出版社、1997年)     (つづく)


*9月中旬までさかんに日本から中国のツアーに同行していた添乗員さんの話。今は、お客さんのキャンセルがすごくて、当面、全中国ツアーがなくなっちゃったけど、9月15日に各地で反日デモが起こったときに敦煌あたりを回っていたときは、全然、なんにもなかったよ、とのこと。しかも「どこから来たの?」と地元の方が聞くので「日本」とおずおずと答えると、満面の笑みで「遠いところから、よく来たね」と言われて驚いたとか。
中国は広くて、人口も日本の13倍もあるので、反応は様々なようです。

*風邪がはやっています。我が家も大流行。さっそく「葛根湯」を飲んで、治しつつあります。皆様もお気を付けください!
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休題・雲南の夏は戦争の記憶

2012-09-22 22:50:30 | Weblog
昆明の観光地・西山の道教寺院と、そこからのぞんだデン池。

【続く地震】
雲南では9月18日午前2時21分、9月7日の時と同じ昭通市彝良県でM3.2の地震がありました。同日朝7時には雲南南部のプーアル市景谷県でも地震があり、3000人近くが被災しました。これから寒くなる時期だけに、心配です。

ところでこの地震は日本ではほとんど報道されず、尖閣問題一色でした。
今回は昆明でもデモが行われました。http://www.youtube.com/watch?v=kXtaOTV1UZk
破壊行為はなかったようですが、やはりショックです。

原因はいろいろと言われていますが、もとを正すと日本の国力と政治力が落ちているところを周辺国に突かれている気がしてなりません。少なくとも教育、とくに英語は、中国の子ども(ある層以上の子弟)の方が効果を上げていると感じます。

 娘は外国に行くと
「中国の人? う、英語が、やばうまい! 日本、アブないんじゃない?」と同じ世代の子を見つけては焦ります。また、その娘は日本の公立中学に通っていますが、今秋、転入してきた中国の子が「日本の方が数学、遅れてる・・。」「え? 宿題ないの?」などと、いちいち驚くのでまいった、といっていました。単なる一面かもしれませんが。

●テレビにも●
日本に関する教育といえば、雲南でもいろいろありました。

たとえば2004年、昆明郊外の観光地・西山の尾根の杭棒に「日本鬼子」との落書きがありました。また雲南はラオスから日本軍が第2次世界大戦終盤に攻め込んだルートにあたり、大理近くの雲南駅など数カ所に日本との戦争を含んだ博物館が設置されています。行くと、若い男性の説明員が私に

「こういうことがあったんですよ」

と、写真をいいにくそうな風情で指し示すのです。こういう特別な場所に限らず、日常から日本人とわかると、なんとなく間に薄紙が挟まった感じになる人々が、庶民層よりもインテリ層や町の有力者の中に、多く存在するようにも感じていました。

例年8月になると、中国の国営テレビでは日本では、まず、放送されないような東京裁判のフィルムが流され、雲南で行われた日本軍攻撃のフィルム(誰が撮影したのでしょう?)や近年、取材したと思われる日本側(日本軍の悪行の手記を書いた人など)・中国側のお年寄りの証言などが続く特集が昼間から延々と流されます。

なかには中国のお年寄りが
「山にこもった日本軍と激戦になったとき、若い日本兵が鉄砲を持って駆け下りながら手を挙げて『オ・カ・ア・チャン』(この部分、音が合うように当て字で字幕が書かれているのが、話に凄みを与えていた)といって、死んでいった」など、生々しい話も飛び出していました

中国の映画やドラマに見られる、残酷で人間味のない日本兵(と思われる)姿よりも、上記のようなNHK特集風の、落ち着いた男性アナウンサーの語りと当時のフィルム、証言取材などをつないだ番組の方が、ずっしりと響きました。

●新聞にも●
8月16日には1980年代のヤンキーのような、長めの日の丸鉢巻きに黒づくめの格好をした右翼が靖国神社を昨日、参拝したという写真が雲南の地元新聞に掲載されました。それは、あたかも日本人の総意であるかのような誤解を招きかねない記事でした。小泉首相の靖国参拝の時も大騒ぎでした。

また、日本の原発は、きたる戦争のための原子力爆弾のためにあるのだ、という記事も4年前の8月に掲載されていました。

●学校で●
中国の教科書には日本で考えられているほどには、日本を悪辣に書いたものはないのですが、それでも日本の戦争時の悪い話を先生が授業で話すので、中国の小学校に通っている日本人と中国人のハーフの子には、社会の時間はつらい時間なのよ、と、その母親から聞きました。

我が子も幼稚園で慣れてくるとあだ名を「シャオリーベン(小日本)」と子どもや先生らからにこやかにつけられてしまい、普通に名前で呼んでもらえるように修正するのに骨を折りました。
ともかく夏は日本人としてはなんとも居心地の悪い日々なのでした。

こうしたことから、私なりに考えました。
(この先は蛇足と思ってください。)

このままでは、日本は苦難です。日本政府や一部の人々の対応のまずさはともかく、少なくとも、中国側の情報だけではなく、冷静に検証した歴史や現状、日本の貢献の情報を入れた理性的な番組を中国語で作って中国の人々の目に触れるようにし、誤解については粘り強く解く必要があるでしょう。中国の現政権に都合のいい教育を受けて大人になった人達の暴徒化は長年の日本教育の成果ともいえるのです。
日本側も、これからも情報を集めて精査し、自分の判断の足腰を鍛えることは意味があるでしょう。
というわけで、こじつけめいてはいますが、このブログでは、今後とも私がおもしろいと感じた、普遍的なものをつづっていけたら、と思います。どうぞよろしくおつきあい下さい。
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雲南の薬2

2012-09-15 17:29:10 | Weblog
 写真は雲南中西部の都市・建水の路上で雑然と乾されていた、漢方の薬材。(2006年撮影)

【葛根湯がない! 中国の漢方薬と日本の漢方薬】
 風邪を引くたびに、雲南でさまざまな風邪薬を試すものの、今ひとつ、効き目がはっきりしないまま、自力で回復していた私。
 やはり、ここは飲み慣れた「葛根湯」を飲んですっきり治したいと昆明中を探し回っても無駄骨の日々。ひとまず数包、日本から送ってもらい、しのいでいたのですが、ある時、漢方薬局にフルオーダーで処方してもらえばいいのでは、と思い立ち、ツムラの葛根湯の薬包を持って、同じ処方箋を頼んでみました。

 ところが雲南の漢方薬局数件とも「こんな古い薬は作れない」と断られてしまったのです。驚きました。葛根湯は中国漢方の古典『傷寒論』『金匵要略』に出ている最古参の漢方の一つなのですが、本場、中国(の少なくとも雲南)では消えてしまっていたのです。

なぜ、こんなことが起こるのでしょうか?
 
 そこで、まず中国の主な中国医学の大学で使われる教科書や参考書などを当たってみたところ、風邪薬の処方に「葛根湯」が取り上げられていないことが判明しました。
 取り上げている教科書がないわけではないのですが、その数は少なく、あってもメインの漢方の扱いではないのです
(たとえば全国中医学院二版教材『中医内科学』、上海中医学院(=上海中医薬大学)主編、上海科学技術出版社、2012年5月 には8つある風邪薬の処方のうちの一つとしてささやかな扱いで表記されている。)

 まず、日本の留学生にも評判がよく、中国で風邪を引いた、というとたいてい処方されるのが、タンポポやネギ、(金)銀花などを症状に応じてメインに処方した「葱鼓湯」や「銀翹散」。中国から帰ってくる留学生や勤め人が「中国の友人によいとすすめられた」と、なぜか私へのおみやげに持参することの多い薬の一つです。

 これらを持参する友人は、日本にない薬で、風邪に効くから、と、深く考えずに買ってくるのですが、調べてみると、「ゾクゾク」しないで、いきなり、喉が痛くなったり、咳が強くなる風邪、つまりインフルエンザやペストなどとウイルス系に効果のある、中国医学の中で一大ジャンルとして取り扱われている「温病学」系統の薬でした。

 もう一つ、風邪のタイプとして日本でもおなじみの「ゾクゾク」と悪寒が走ることからはじまる風邪があります。この症状によく効くのが『傷寒論』に出てくる、いわゆる「傷寒」系統の処方。
 この流れの基本としてインフルエンザの初期や鼻づまりにきく「麻黄湯」と風邪の軽い初期と病後の回復によいとされる「桂枝湯」が二大漢方として君臨しています。そして、われらが葛根湯はというと、「傷寒」系の中で、麻黄湯と桂枝湯の中間に位置する漢方だったのでした。

 なるほど、いつも愛用しているツムラ葛根湯顆粒の成分を見てみると、葛根湯は、麻黄湯のメイン処方である「麻黄」と桂枝湯のメインの処方である「桂皮」に、「葛根」を加えたものだとわかりました。

 つまり、医者の見立てさえしっかりしていれば、悪寒型の風邪には「桂枝湯」か「麻黄湯」の方が、ピンポイントで効く可能性が高い、ということになります。   (つづく)
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雲南の薬1

2012-09-09 11:23:40 | Weblog

雲南中西部の建水の町にて(2006年8月撮影)。写真上が建水のシンボル、明の時代に建造されたというかつて建水の城郭の東門であった朝陽(楼)門。ちなみに南、北、西の門は清の時代の初期である順治年間の1647年に戦火で破壊されている。北京の天安門より古い建造物である。
分厚い門の通路内では、強い日差しをさけてマージャンをする人、ものを売る人などでごったがえしていた。
 写真下は、そこで売られていた胃腸薬(?)。

【雲南白薬】
 漢方系製薬会社では「雲南白薬」が雲南では有名です。人気なのはサロンパスのような消炎作用のある膏肓や血止め薬。胃腸薬も、日本の留学生に人気がありました。

 また、雲南中南部の建水の街を歩いた時、建水の歴史的建造物である朝陽門の中で手編みの籐のかごの中に油紙に丁寧に包まれた、粉漢方を売るおばあさんに出会ったことがありました。道にちょこんと座っているので、私が興味を示すと、効能をとうとうと述べはじめます。

 売られているものは、お手製の漢方。日常、使うような胃腸薬だったり、血止めだったり。私もためしに買ってみました。胃腸薬、とのことですが、あまり味のしない、ちょっとだけ胡椒のような舌をしびれさせるものと、稲藁をまぶしたようなフワフワした粉薬でした。私には効いたのか効かなかったのか。ただ、でも、その薬、地元の方にはよく売れていました。
      (つづく)

*おととい(9月7日)、雲南北部の昭通市で大地震がありました。昭通には、行ったことはありませんが、混迷の飛行場には、「昭通の工業団地にぜひ、お越しください」とかかれた看板が掲げられていたり、こんにゃくで町おこしをしたりと、戦略的なところです。気性の荒い人が多いのか、よく刃傷沙汰や詐欺などの事件のことが地元の新聞をにぎわせている場所でもありました。
 昨年の雲南での地震では早期の復旧ができた、と一月後には復興宣言が出されていましたが、今回はそれよりも規模が大きいようなので、心配です。
 じつは最近、雲南では毎年のように、大地震が起きています。たいてい、山岳地帯で少数民族の多い地域です。雲南の北部を地図で見るとヒマラヤ山脈の造山活動でぐぐ、と西に寄せられ、6000メートル級の山々が南北に連なる深い皺が刻まれているのがわかります。だから、地元のみに知られた温泉地というのもけっこうあります。
 昆明の人に地震の話をしたとき「雲南の地方は大変だね。日本も大変だね。地震が怖いのなら、地震のない昆明に住めばいいのに」などと言われたことがありますが、その昆明だって、1900年代初頭に大規模な地震が起きたことがあるのです。でも、建造物は素人目で見ても、日本のものより、弱そうです。ふつうに建っているだけで、どんどん、屋根がはがれおちたり、地面に穴があいたりするのですから。
 だれもが思っていることでしょうが、雲南に限らず、都市化が急速に進むなかで地震に備えた建造物を増やす必要が中国にもあるのだと思います。


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雲南の病院8

2012-09-01 09:32:47 | Weblog
写真は昆明にあった漢方薬局+診察室の一つ。左から薬房、皮膚科、化(学)検(査)室と並んでいる。このような簡単な場所で輸血や栄養剤の点滴まで行うところも。朝、白衣をたなびかせて煙草を吸う漢方先生方の力の抜け具合はなかなかのものだった(2006年夏撮影。)2010年に昆明を訪れた時も、あらゆる場所で漢方先生の白衣風景は健在だった。

【町医者風】
身近な診療所として親しまれていた町医者風の一間長屋のような漢方薬局も、病院とならぶ重要な医療機関でした。

 昆明の西山地区にはビルの一階を通りに面して小さく区切った漢方薬局がずらりと並ぶ通りがあり、毎朝、薄く汚れた白衣を着た薬剤師先生方が通りでたばこを吸って、さりげなくアピールや呼び込みをしていました。日本では見たことのない光景に、当初、強烈な印象を受けたのですが、次第に当たり前と思うようになっていきました。慣れ、とは恐ろしいものです。人気のある薬局には、お年寄りの患者がずいぶんと通っていましたが、子どもの姿はありませんでした。

その漢方先生は、午前が過ぎると、お昼の時間から夕方までは他の昆明市民と同様、昼寝をしたり、トランプをしたりして過ごします。それも白衣のまま。だから白衣はなんとなく、薄汚れていました。

娘が病気だと、迷わず大病院に駆け込む私ですが、自分が冬に、湿った重い咳が抜けなかったときは、まずは大病院ではなく、近くの漢方薬局に行きました。

敷居をくぐると、すぐに煙草のヤニで黒くなった指をした、ヒゲを生やした老先生が問診。つまり、立ったままカウンターで私の症状を書き取り、私の爪と舌を見た後、五種類ぐらいの漢方系の薬草とグラム数を書いた紙を渡してくれました。

それを持って、同じ敷地内にある細かな薬棚が並んだところに行くと、その通りに処方して渡してくれるのです。

診察代が薬代に含まれているのか、娘の行った病院のように大げさな検査をしないためなのか、ともかく割安な値段でした。

この処方された薬は、ツムラの漢方薬のように粉状で湯に入れて飲むだけのものでしたが、乾燥させた根などをそのまま、ごそっと束にされて厚紙にくるんで、渡されている人もいました。私には扱えそうもありませんが、煎じて飲むと、人によっては、とても効用があるそうです。

また、その場合の水は浄水ではなく、なるべく天然のもの、最低でも水道水がよいとのこと。ミネラル分などの雑味があるほうが体により効くのだそうです。

現在、日本ではツムラのように有効成分を純粋に抽出した漢方薬が主流ですが、水にしろ、煎じ薬にしろ、少し、余分なものが混ざっているほうが、じつはよく効くのだ、という日本の漢方学者の研究書もあります。(大塚敬節『東洋医学とともに』創元社、1960年)  奥が深いです。 (つづく)

*夏休みに、初めてアメリカに行ってきました。日中、40度を軽く超えるロサンゼルスのチャイナタウンにも雑貨店に混じって小さくて倉庫のような漢方薬局は健在。独特の漢方の草いきれのような香りのなかで、常連のおばあさん方は、生薬である木の根などのかさばるものをごそっと黄色い分厚い紙に包んでもらっていました。
 お店をのぞいたら「何がほしいの?」と広東語と中国語で聞かれました。やはり買いにくるのはロサンゼルスでも中国語を操る人たちなのでしょう。
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