雲南、見たり聞いたり感じたり

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暴れる象と芸象21 象にまつわる風習

2016-07-29 11:18:29 | Weblog


写真上は景洪のタイ族民族村でみた婚礼式の踊り。黄色い衣装の男性が叩いているのが象脚鼓だ。そして象脚鼓をたたく男性のズボンの模様にも象があしらわれていた。写真下は景洪の料理屋に飾られていた布地。刺繍の模様も象だった。とにかく模様といえば象、というほど様々なところに表れている。

【遺産分けの象鼻式】
飼育者の過酷な状況とは別に、やはり素直に人間に人気のある象のこと。生活に密着した用語としても使われているので最後にご紹介しましょう。

おもしろいのが「象鼻式」。財産を分けるときに年配者から順に多く分与されていき、年少者は少なくなる方式のこと。象の鼻が漏斗のように先すぼまりな形になっていることから名付けられたのでしょう。

具体的には1950年代のシーサンパンナの勐海県勐混区の場合、長男が財産の3分の2、弟は3分の1、他家に婿となった男子にいたっては、財産分与はゼロとなっていました。女性も分与されますがこの場合、父母を養う娘や入り婿をとった女性などが対象となっていました。

(《中国少数民族社会歴史調査資料叢刊》修訂編輯委員会編『傣族社会歴史調査』修訂本、民族出版社、2009年)

【お祭りにかかせない象脚鼓】
また太鼓の名前にも象が登場しています。
「象脚鼓」は孟定の水傣に使われる太鼓で、形が象の足のようだから。

胴が木、鼓の皮は牛皮、大小あり、と書かれた文献だけ読むと、日本でも見慣れた太鼓の形のように思えたのですが、そうではなく、象の胴体部分からの脚を一本持ってきたような、長細くて、胴の上辺にふくらみがあり、下の部分もやや円が大きくなった不思議な形をした太鼓です。

傣族というと孔雀の舞が有名ですが、この太鼓を持って、一人ないしは二人で踊る「象脚鼓舞」も男性の踊りとして地元では知られています。お祭りの時には欠かせない舞です。


 象の大きさ、勇壮さから生まれた為政者の誇るべき財産であり、最高の他国への献上品でもあり、優秀な戦闘機でもあり、信仰の対象でもあった象。奥の深さに象の章が長くなりました。お読みくださってありがとうございました。
(この章 おわり)
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暴れる象と芸象20・象を世話する人々3 

2016-07-22 09:44:44 | Weblog
写真は景洪市からほど近い西双版納貝葉文化村。「貝葉」はタイ族をふくめたタイの人々が椰子の葉に経文をタイ文字で記した伝統的なもの。
森と湖に囲まれた美しいタイ族の村の保存を目的に作られた村だ。
この文化村が作られたところはかつて「琵琶鬼」村といわれたが、それは志の高い村長が琵琶鬼とされた人々を受け入れたためだ。文化程度が高い村なのである。

【琵琶鬼の固定化】
そこでタイ族の慣習を調べていくと、民間故事を集めた本に出てきました。

琵琶は、中国語で「ピーパー」と発音します。「ピー」はタイ語で良くも悪くもひっくるめた「精霊」を意味します。
「琵琶鬼」は古くからあるタイ族の習俗で、気が触れて、夢の中でもうわごとをしゃべり、噛みついたりする人のこと。多くは熱を持つことからはじまる、とあります。つまり、マラリアなどの熱帯病や狂犬病などのようです。

深刻なのは、本当に症状の出た人が「琵琶鬼」と呼ばれるだけには終わらずに、一緒に暮らす家族、親族、親交の深かった人すべてが「琵琶鬼」と認定され、ムラを追い出され、持ち物から家屋のすべてを焼かれてしまったということです。
今のように治す技術がない場合は、病気の封じ込めをするという意味では合理的ではありますが、残酷な認定です。

こうして逐われ、生き延びた人々が集まり、タイ族社会で「鬼寨」が生まれました。

さらに残酷なのは、ひとたび認定を受けると、他村への行き来や結婚なども厳しくなるという合理性では語れない差別を伴うようになったことでした。(《中央民族大学報》2011年第二期)

当然ながら、この悪習は1950年代から中国政府がやめさせようと指導し続けました。にもかかわらず、タイ族社会に根深く残り、特効薬が発見された現代でも琵琶鬼を巡る事件が起きています。

以下はシーサンパンナの検察志の判例の一部です。

1998年、曼なにがし村で長期に一人暮らしだった婦人が「琵琶鬼」となった。同村および近在の村の人々は彼女に噛まれるなど何度も被害を受け、とうとう近くの上の村で噛まれた者から死者が出た。堪忍袋の緒が切れた上の村の数十名の人が曼なにがし村に殴り込んで、彼女およびその周辺の人々を殺してしまった。
(『少数民族地区習俗与法律的調停:以雲南省金平苗族瑶族傣族自治県為中心的案例研究』方慧著 社会科学出版社、2006年。-実際の文には村名が出ているが、インターネット公開の性質上、伏せました:筆者)

また、今でも現地の人はあのムラは「琵琶鬼」村だから、とその出身者を差別する意識もあるそうです。ただ、村の中には村長が心の清い人で、行き場をなくした人を気の毒に思い、村へ迎え入れた、という誇り高い立派な村もあります。かえって村の結束が高まり、関係の良くなった村もあるそうです。

象を世話する人々にはこのような歴史もあったのです。それだけ、象の世話は難しい、命がけの仕事だったともいえるでしょう。
ただ命をかける人の身分は最低なのに、その困難な職務と統括する大臣の地位は最高位に近い、というのも、社会的圧力で都合よく身分を固定化された要因と思えるのです。
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暴れる象と芸象19・象を世話する人々2

2016-07-15 10:53:45 | Weblog

写真上はモンフンの村にある金ぴかの景恩塔。文化大革命時の1969年に完全に破壊されたが、1985年に再建された。もとはタイ暦141年(西暦779年、唐)ほか3度修復された記録があるので、それ以前より建っていた。現在、タイ国で学んだ住職がいる。
写真下はモンフンの日曜マーケットの一角。次々とトラクターで人々がやってきて活気にあふれていた。

【象の世話係と「琵琶鬼」】
シーサンパンナの首都・景洪の各寨(ムラ)の来歴を見ると、曼列(モンリエ)は勐混(モンフン)よりきた象奴のムラ、曼養(モンヤン)は領主のための象を飼養するムラ、とあります。

モンフンは現代においても各地から人々が集い、大きな市場が建つことで有名なところ、金ぴかの大寺院があることでも知られる地です。そこから移り住む象奴、つまり象の奴隷(世話係?)として行くムラ、とはいったいどういうところなのでしょう。

まず、かつて、シーサンパンナのタイ族社会では細分化された身分が固定され、通常、ムラを自由意志で引っ越すことはできませんでした。

ところがひとたび「琵琶鬼」に認定されてしまうと、土地を奪われ、家屋を焼かれ、強制的にムラを立ち退かされるのです。

そして、
「曼列では引っ越して来た人々にムラで養う象の世話係をさせることができる、だから琵琶鬼はこの寨に越してくるが、今に至るまで土地は分けられていない」(『傣族社会歴史調査(西双版納之四)』、民族出版社、2009年)

そうして、このムラの等級は下から2番目という奴隷村、と1950年代に中国政府の調査官が称したムラとなっていました。

つまり、象奴は「琵琶鬼」と密接に関係があることがわかります。

この「琵琶鬼」とはなんでしょう。

ごく普通にインターネットを引くと、日本の『今昔物語』にでてくる「玄象の琵琶」の話に行き着きます。村上天皇の御代、名器の琵琶が紛失し、天皇は嘆いていた。その琵琶を楽器の名手・源博雅が取り戻した、という話で、鬼から琵琶を取り戻した、もしくは魂をもった琵琶の話として、夢枕獏の「陰陽師」にも取り上げられるエピソードです。

元ネタは中国・六朝時代の『捜神記』という怪奇話を集めた本で、やはり「琵琶鬼」という魂を持った楽器の琵琶として出てきます。

風流な話ですが、シーサンパンナの琵琶鬼は文脈からしても違うことは明らかです。
(つづく)
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暴れる象と芸象18・象を世話する人々1

2016-07-08 18:45:16 | Weblog
写真はタイ族が暮らす景洪市からほど近いマンクイ村。タイ族が好む工芸品や刺繍の工場など近代的設備と農村の風景が広がっていた。売り場はあるのに売り子はおらず、寺がタイ風に金ぴかな不思議な調和のある村だった。

【象の飼育統括大臣の地位の高さ】
シーサンパンナの歴史書『泐史』には、傣暦542年(宋淳熙7年、西暦1180年)パーマ王が周囲の国々を平定し、周囲より推戴される形で初代のシーサンパンナ王となったときの記念品リストがあります。

人民844万人、白象9000頭、馬97000匹、様々な宝石を埋め込んだ塔(嵌宝石塔)7座・・・。

このようにタイ族にとって象は国力を量る重要な指標でもあったのです。しかも労働力としての象ではなく、王の権威づけとしての白象で頭数が表されていることから、一般の象を含めた象の頭数の多さを連想させます。

1953年に中華人民共和国政府がシーサンパンナのタイ族の調査した資料を見ると、中国の支配が及ぶ以前のタイ族の社会が見えてきます。(※1)

ここでは王のもとに家臣団、その下に彼らに仕える人々がいて、仕事の内容はインドのカースト制の影響があるのか100以上もの職種に分かれていました。水くみ、料理人、傘を差す係、矛や槍持ち、王の葬式時の泣く係などの専業労働があるなかで、象の世話係もありました。

しかも、象の飼育のための専業のムラさえあったのです。複数箇所に点在する象の飼育ムラの統括者は、家臣団の最高位である裁判所を司る官職に次ぐ2番目という高位でした。その名は「召竜納掌」。

ちなみに馬の飼育を統括する官職は上から20番目。

このことから象の飼育がいかに国の根幹にかかわっていたかがわかります。戦争、祭りの権威づけ、他国への贈答物として国の命運を左右する最重要なものだったためでしょう。
(つづく)
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暴れる象と芸象17

2016-07-03 09:14:44 | Weblog
昆明の中心部にある昆明動物園でも象の芸が行われていた。その入場シーン。芸は過激なものではなく、足を上げたり、ものをつかんだりする、おだやかなものだった。動物園の飼育員の象の担当者は、いろいろと芸も仕込まなければならないのだろう。

【贈らなかったために滅んだ国】
唐の初期、現在のカンボジアにあった環王国(※1)も象で戦闘を行っていました。戦象の規模は1000頭というのですから、相当なもの。さらに象に踏ませる処刑があった、というのですから、象の存在感が絶大だった国だったのでしょう。

(「王衛兵五千,戦乗象,藤為鎧,竹為弓矢,率象千、馬四百,分前後。不設刑,有罪者使象践之」『新唐書』巻222下、列伝147下、南蠻下より)

この国は唐の貞観年間(627-649)になると唐の第2代皇帝の太宗(李世民)に飼い慣らした象をはじめ、オウム、犀、珍しい織物など珍宝を含めて献上し続けます。
 太宗は、北は突厥、東は高句麗、西は高昌と次々に侵略、滅亡に追いやる当時、最強の征服者だったので献上品で国が保てるのなら、という切実な思いがあったに違いありません。

その贈り物が功を奏したのか、環王の使者が献上の際の言葉づかいがうやうやしくない、との理由で臣下が

「不遜なので罪にしましょう」

と戦争を焚きつけても、他国を侵略しまくっている太宗が、この国に関しては「いいではないか」と不問に付したのでした。

しかし時がたつと弛緩するもの。
百数十年後の唐の元和初年(806年)、初めて献上がなかったということで唐に戦争を仕掛けられ、3万の兵が斬られ、59人の王子が捕虜とされ、戦象などを奪われたのでした。

(「元和初不朝献,安南都護張舟執其偽驩、愛州都統,斬三万級,虜王子五十九,獲戦象、舠、鎧」『新唐書』巻222下、列伝147下、南蠻下より)

いかに象をはじめとする献上品が国を守るために重要だったのかがわかります。しかし100年以上も律儀に貢納し続けたのに、外交は厳しい・・。

(つづく)
●次回は、貢納する国は、象をどのように扱っていたかについて、の予定。

※象のことを調べた文章が少ないので、予想に反して長めの章になっております。もう少しだけ、おつきあいくだされば幸いです。
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