雲南、見たり聞いたり感じたり

雲南が中心だった記事から、世界放浪へと拡大中

雲南の書記と副書記10 中央からの見えざる手

2017-05-28 14:54:28 | Weblog
写真は、西安の噴水広場。2004年時は毎日、お祭りのようにレーザー光線に音楽に噴水が夜8時に行われていた。これは、雲南各地でも年を追うごとに増えていった景色である。これらは西安、武漢といった西部の大都市から徐々にはじまり、雲南へと同じ形のものが取り入れられていった。
 日本より巨大に中国での西部大開発の順番にも、政治力が見えてくる。

【湖北の人】
どろどろがいろいろ続いてうんざりしますが、あと、ちょっと。政界の話はどうしても生ぐささがつきまとってしまいます。

姿をくらまし、貴州省へ突如、去ってしまった副書記に代わって、12月に着任したのが湖北省の省都・武漢市からやってきた阮成発でした。

湖北省出身の漢族で、武漢大を出て法学博士号も取得している人物です。湖北省や武漢市書記をつとめた後、すぐに雲南の省副書記になり、同時に雲南省の副省長、代理省長といった役職も引き受けます。

今までの流れだと、突如の辞任などの場合は、省の生え抜きから順繰りに上がるはずなのに、中国西部のくくりの中からやってくるあたりからすると、前副書記の鐘勉が辞めるのは突然ではなく、中央政府からの勧告でもあったというのが真実なのでは、と感じます。

歴史の流れを検証すると見えてくる流れ、なのかもしれません。だとすると、雲隠れした、という中国のマスコミの報道は間違っている、ということになります。

阮成発はやり手ではあるけれども、ちょっと曰く付きの人でした。

というのも、武漢市書記(日本でいう市長)の時に武漢市の大型建設を推進し、その数なんと5500カ所に昇りました。2011年就任からわずか3年間でのプロジェクト数です。

そのため2013年10月に市民は「満城挖」(城【武漢市の中のこと】は掘り起こされた穴で満ちる)とその惨状を叫び、

「阮成発は恥知らず!」
との抗議が殺到。
それに対し、阮は
「抗議はおそれない。なぜなら2011年6月に武漢に3回もおそった大雨で全城が水浸しになり、6月18日には88カ所で浸水被害を起こしたからだ」
と話し、その後、地下鉄建設、渋滞の緩和策、ETCの設置などを次々と完成させました。

それらがほぼ、完成に近づいたころに雲南の副書記となったのです。
(つづく)
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雲南の書記と副書記9 四川から雲南副書記、失踪して貴州副書記へ

2017-05-20 15:01:51 | Weblog
写真はシーサンパンナ・景洪の道路の歩道で水浴びをする子ども。一月に撮影したものだが、亜熱帯気候なので昼間は十分にたらいで水浴びできる。ただし、湿度は低いので夜は冷える。今梅雨前の日本の暑さと同じ感じである。

【西部を流浪する副書記】
さらにへんな事件が雲南でも。

2015年4月より雲南省の党副書記に就いた鐘勉という人がいました。彼は四川出身で、四川財経学院卒。2007年からは四川省の委員秘書長、常任委員、四川省人民政府副省長などを経て、雲南の副書記となった人物でした。時期としては、四川関係の白の嫌疑から逃れようとしたとも見えます。

その彼が2016年10月24日から雲南省の副書記の身分で雲南省の怒江リス族自治州の扶貧調査に出かけ、そのまま雲南側での露出が一切なくなり、消息不明とまで言われるようになりました。ちょうど同月9日に白恩培が執行猶予つきの死刑・終身監禁の判決を受けた直後です。

同年12月17日にその鐘勉が突如、公の場に姿を現しました。それは雲南ではなく、雲南と四川双方の隣にある貴州省。ここの省常任委委員会会議に出席し、副省長の右側という場所に座っていました。これは中国の解釈では雲南省に帰らず貴州に移ったことを意味するのだそうです。

その6日後の同月23日の雲南省常任委員の中には彼の姿はありませんでした。そして2017年1月5日には貴州省副省長の8人の中の1人で、省の序列3番の位置に明記されました。

いかに、中央政府からの波紋が四川から雲南におよび、貴州にまで到達したかが分かる、なんともおどろおどろしい話です。

また、中国では席順がそのまま、実際の権力の位置を示す、というのは重要なところです。中国との外交場面では、立ち位置は日本以上に注意を払わなければならないのです。

ともかく権力の移り変わりに翻弄されて、副書記のまま命を長らえるのもたいへんなこともあるようです。
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雲南の書記と副書記8 罪をおった雲南省党書記の類似点

2017-05-06 10:59:04 | Weblog

写真は寧(草かんむり+下側に浪)彝族自治県のおばあさん。中国的には彝族の人なのだが、このあたりは女系で有名なモソ族の村。おばあさんの帽子は、日射しの強いこの村にいると、ほしくなるほど実用的に思えた。
 雲南の人々の生活とはあまりにかけ離れた政争が起こっているのが雲南省の行政トップの世界のようだ。

【突然、暴露される巨額賄賂】
2002年9月にオーストラリアに亡命した高厳の後に雲南省の党書記になった令狐安は山西省出身で北京工業学院を出た後、雲南で省委員会副書記などを経てから、雲南の行政のトップにたどり着きました。

 そこで無事に職務期間が過ぎ、次の雲南省党書記としてやってきたのが、例の死刑を言い渡された白恩培でした。彼は雲南省党書記に就くまでは、雲南とはまったく縁がありませんでした。

彼は1946年に陝西省に生まれ、西北工業大学を経て、革命の聖地といわれる陝西省延安の油脂・たばこ工場長に。1980年代には延安地区の共産党幹部を歴任し、中央委員会委員候補に選出され、内蒙古、青海省の党書記を経て、雲南省党書記に。完全に中国共産党の将来を狙える位置にいる人でした。

出身地といい、経歴といい、生まれた時代といい、驚くほど高厳と似ています。
延安、理系の経歴、1942年と1946年の生まれ。

白恩培の罪状が約2億5000万元(約38億元)相当の巨額賄賂を受けた罪ですが、その罪が暴かれたきっかけが、元重慶市長・薄熙来連なりで無期懲役を受けた四川省党書記の周永康の罪を暴くべく、あらゆる取り調べがあり、2015年1月に周永康が党籍とあらゆる公職を解かれた頃、2015年3月4日の全国政治協商会議小組会で香港宣威集団董事長(代表取締役)が
「白恩培は家に37億元、外に2億元持っている」と話したことがきっかけでした。

(香港雑誌『明報』より)
突然、白恩培に罪状が飛び火したみたいでへんですね。
(つづく)

※さくらそうの本の執筆が押しているため、来週の更新はお休みします。権威主義なのか、お役所的機構のせいなのか、日本もいろいろとたいへんです・・・。
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