日本の富士山よろしく麗江の開けた場所ならどこからでも見られる玉龍雪山。麗江古城より撮影(2004年6月撮影。)最高峰は5596メートル。麗江の街は標高2,400メートルなので、雪を頂いて澄み渡った山が聳え立つ姿は本当に美しい。近年、ケーブルカーで標高4,506メートルまではわりと簡単に登ることができる。ごく最近ではそのような厳しい場所にスキー場もつくられた。標高なれしていない日本人は高山病に要注意だ。私の知り合いは高山病になり、周辺を見渡すどころではなかったという。
【日本人を形容する最高表現】
中国の文化大革命後、はじめて中国人がみた日本映画が高倉健主演の『君よ憤怒の河を渡れ』だったと過日の追悼ニュースにありました。じつは日本映画初どころか文化大革命後初の外国映画第一作だったのです。
このインパクトは今の私たちには想像のできないほど大きなものだったことでしょう。そもそも過去の人間社会が積み上げた文化を否定し、新たな毛沢東の革命へと導く文化を創造する一面を持つ文化大革命。この「文化の革命」が、おもしろみがなく、ぞっとするものだということは、中国で販売されている文化大革命中につくられた映画を一本でも見ればわかるはずです。京劇俳優のように目をぎょろりとさせ、簡素な農民服を身につけ身体全体から粘りけのある妙な緊張感を発するもの、しみじみとした情愛よりも、革命を賞賛する壁新聞づくりを賞賛するものなど、物語のメリハリより、教科書的な描写が目立つ、時間だけが長く感じる映画群なのです。
そんななか、警察官に追われる逃亡者、なんの脈絡もなくドンパチ、派手なアクション、突然襲いかかる熊、ヘリコプターでのド派手な脱出劇など刺激的で息もつかせぬ展開を見たら、もう、コロリ。そして誰もが知る大ヒットに。その後も高倉健の映画は上映され続け、人々の心にカッコイイ俳優として、しっかりと焼き付いたのでした。
この作品がえん罪を晴らす話だったことも、えん罪による死亡が多発していた文革の記憶が染みついていた人には身に染みる話だったのかもしれません。
いまから20年前の上海の街角で、上海ならどこにでもある小龍包の店で、たまたま日本の男性とツーショットで小龍包を食べていると、一人の中国人がニコニコ顔で近づいてきました。
「いま、日本語を勉強しています。ちょっといいですか?」
もちろん、と応えると、四角い下駄のような顔をした男性を見て
「あなたはタカクラケンにそっくりですね」
思わず、茶を吹き出す男性。
そして私を見るなり
「あなたはヤマグチモモエにそっくりですね」
もちろん、日本人が喜ぶであろうと想定した褒め言葉なことは理解できるのですが、現状認識のあまりのゆるさに苦笑するしかなかったのでした。
雲南大学の学生と話していたときも、高倉健の話がでました。ちょうど雲南で映画撮影中だったのですから、この話の流れは自然です。その人にとって「高倉健」は、姓が「高」名が「倉健」だったのでした。中国には漢字一文字の名字のほうが普通ですから、高倉健は、中国人と地続きの発想だったのでしょう。このように考えている中国人はじつは多いのです。
中国でも高倉健永眠のニュースは大きく報道され、いつもは鉄面皮の政府の報道官も目を若干、潤ませながら追悼の辞を述べていましたが、これほど、真実、愛された日本人がいたことを、誇りに思うと同時に、その期待を裏切らなかった生き様は、今後も永遠に語り継がれることになるでしょう。
(おわり)
【日本人を形容する最高表現】
中国の文化大革命後、はじめて中国人がみた日本映画が高倉健主演の『君よ憤怒の河を渡れ』だったと過日の追悼ニュースにありました。じつは日本映画初どころか文化大革命後初の外国映画第一作だったのです。
このインパクトは今の私たちには想像のできないほど大きなものだったことでしょう。そもそも過去の人間社会が積み上げた文化を否定し、新たな毛沢東の革命へと導く文化を創造する一面を持つ文化大革命。この「文化の革命」が、おもしろみがなく、ぞっとするものだということは、中国で販売されている文化大革命中につくられた映画を一本でも見ればわかるはずです。京劇俳優のように目をぎょろりとさせ、簡素な農民服を身につけ身体全体から粘りけのある妙な緊張感を発するもの、しみじみとした情愛よりも、革命を賞賛する壁新聞づくりを賞賛するものなど、物語のメリハリより、教科書的な描写が目立つ、時間だけが長く感じる映画群なのです。
そんななか、警察官に追われる逃亡者、なんの脈絡もなくドンパチ、派手なアクション、突然襲いかかる熊、ヘリコプターでのド派手な脱出劇など刺激的で息もつかせぬ展開を見たら、もう、コロリ。そして誰もが知る大ヒットに。その後も高倉健の映画は上映され続け、人々の心にカッコイイ俳優として、しっかりと焼き付いたのでした。
この作品がえん罪を晴らす話だったことも、えん罪による死亡が多発していた文革の記憶が染みついていた人には身に染みる話だったのかもしれません。
いまから20年前の上海の街角で、上海ならどこにでもある小龍包の店で、たまたま日本の男性とツーショットで小龍包を食べていると、一人の中国人がニコニコ顔で近づいてきました。
「いま、日本語を勉強しています。ちょっといいですか?」
もちろん、と応えると、四角い下駄のような顔をした男性を見て
「あなたはタカクラケンにそっくりですね」
思わず、茶を吹き出す男性。
そして私を見るなり
「あなたはヤマグチモモエにそっくりですね」
もちろん、日本人が喜ぶであろうと想定した褒め言葉なことは理解できるのですが、現状認識のあまりのゆるさに苦笑するしかなかったのでした。
雲南大学の学生と話していたときも、高倉健の話がでました。ちょうど雲南で映画撮影中だったのですから、この話の流れは自然です。その人にとって「高倉健」は、姓が「高」名が「倉健」だったのでした。中国には漢字一文字の名字のほうが普通ですから、高倉健は、中国人と地続きの発想だったのでしょう。このように考えている中国人はじつは多いのです。
中国でも高倉健永眠のニュースは大きく報道され、いつもは鉄面皮の政府の報道官も目を若干、潤ませながら追悼の辞を述べていましたが、これほど、真実、愛された日本人がいたことを、誇りに思うと同時に、その期待を裏切らなかった生き様は、今後も永遠に語り継がれることになるでしょう。
(おわり)