雲南、見たり聞いたり感じたり

雲南が中心だった記事から、世界放浪へと拡大中

雲南の回族・サイード・シャムスッディーン3

2013-04-28 14:49:31 | Weblog
写真は大理近くの雲南駅の古くからある商人宿。この地域では人とともに馬も非常に大事にされた。

【サイジャチのメンツの立て方】
 彼はたいへん政治的感覚にすぐれ、仕事のできる人であるとともに、人格者でもあったようです。
以下、『元史』の列伝にあるサイジャチ伝からの引用です。(日本語訳がないので、私の訳で。ちなみに『元史』は中国の歴代の正史とされる『史記』から始まる歴史書二十四史のなかで編集がもっともずさんで、評判が悪い本です。)

 毒殺された初代雲南王のフゲチのあと、雲南に出鎮していた諸王の代表格に宗王トフル(脱忽魯)がいました。
(『増訂南詔野史』(注1)では1274年に雲南王となったと記されています。)

 「さて宗王は、クビライの意向で雲南にサイジャチが向かっていると知ると、左右の言に惑わされて権力を奪いに来たのだと思い、兵の準備を固めます。

 そこでサイジャチは、まず、長男のナスラディン(納速刺丁)を王の所に派遣しました。ナスラディンはいいました。
「天子(クビライ)の意向は次の通りです。雲南を守る者がいないので、雲南の諸国が背叛している。そこでサイジャチにここを安定させるようにとお命じになり、私はやってきました。
また、雲南の境界に至ってからは、すぐに武装を解いて専横することのないよう戒めております。どうか王はお一人の使者を派遣して協議させてください」

宗王はこれをきくと、部下をののしっていいました。
「どうやら、おまえたちが誤解していたようだな。」

 翌日、宗王の部下のサマン、イハチらがサイジャチの元にやってきました。彼らに対して、サイジャチは名馬を犠牲として捧げ、拝跪して恭しくするという最大級の礼の作法を持って迎え、見る者を大いに驚かせました。
 また設宴では、贈答用の金や宝の杯を並べ、酒席がお開きとなるまで、ずっと二人の接待を行ったので、使者の二人はたいへん感激しました。」
                                (つづく)
注1 『増訂南詔野史』明の楊慎編。楊慎は四川成都出身の文人で、抜群の成績で進士に合格。時の皇帝・武宗正徳帝にたびたび具申したため、平民に落とされて雲南永昌(雲南西部のミャンマーにほど近い現在の保山市付近の漢代以来の行政区)に流刑となる。その時の当時の風俗を織り込んだ詩や雲南関係の書物の編纂を多数、行った。
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雲南の回族1 ・サイード・シャムスッディーン2

2013-04-20 19:24:46 | Weblog
写真は大理国の出入り口・雲南駅(地名です)に今の残る茶馬古道。日陰と日向の境目に縦に一筋見える縦長の石をはさんで左右の道をかつては数百人の大商が馬に茶や塩などの産物を乗せ、昆明へ、さらにチベット高原をへて北京へと往来したという。おそらく元のクビライが南宋攻略に用いた道は、未開の道ではなく、そのような周辺民族が古くから利用していた道だったのだろう。
 大理はすっかり開発が進んだが、周辺の街には古きよき時代の名残を見ることができる(2005年撮影)

【雲南王・毒殺される】
 中国が南宋から元へとうつるころ、雲南では・・。

 モンゴル軍はいよいよ中国全土を支配下におさめようと、北から南宋を正面突破する軍とは別に、別働隊として南宋領をさけて西安からチベット高原東部を南下して雲南に至り、背後から南宋攻撃に出る戦略を立てていました。1252年、その難路をクビライ(以前の歴史教科書では「フビライ」と書かれていました。この時点ではまだハーン位には就いてません)は見事に指揮。雲南を支配していた大理国を1253年に降服させます。

 以後、つづく南宋攻略のためにも(南宋がモンゴル軍に滅ぼされたのは1279年)、雲南は重要な拠点となります。やがてクビライの庶子・フゲチが初代雲南王として送り込まれてきました。

 当時の雲南は血気盛んな多数の民族・部族が割拠しており、さらにクビライに滅ぼされたとはいえ、実質的に権限を持ち続けた大理国や、部下であるはずのモンゴル軍の中からさえも、隙さえあれば首をかききろうとする輩がひしめくという厳しい状況。また、南宋だけではなく、カンボジアやベトナムへの侵略も仕掛けていました。
 そんな中、若いフゲチは着任4年目の1271年に元帥宝和丁に毒殺されてしまいます。

 この不安定な状況に、事態を重く見た大ハーン・クビライが直々に声をかけ全幅の信頼を置いて雲南に派遣したのが、先週、ご紹介した賽典赤・贍思丁(サイード・シャムスッディーン)でした。

 チンギス・ハーンに自軍1000騎を率いて投降後、チンギス死後も歴代ハーンに重用され続け、中央部の大型行政区の高官を歴任し、実績と威望もある一級行政官。その彼も指名時は64才となっていました。おそらく、雲南に骨を埋めるつもりで任地に赴いたに違いありません。ブハラ(現ウズベキスタン)当時からの部下や一族郎党引き連れて、1274年(至元11年)、設置されたばかりの雲南行省平章政事として着任したのでした。

(現代まで連綿と尊敬され続ける、彼の豊かなエピソードは次号で。)

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雲南の回族1・サイード・シャムスッディーンⅠ

2013-04-14 14:21:51 | Weblog
写真は大理近くのかつての交通の要衝・雲南駅にいた馬。(2005年撮影。)。モンゴル帝国以前よりモンゴル高原と中央アジア、雲南へと、マージナルな人々は馬で縦横無尽に移動していた。

【昆明の礎】
(私のブログで)長くながーく続いてしまった昆明の水の道。ともかく昆明の北・山の上の松華坝ダムから盤龍江をへて南の滇池まで一本の水の道でつながっていることがおわかりになったことでしょう。

この、松華坝ダムにしても、周囲の川をつないで滇池へと流す水路も、その間の灌漑用の取水堰も、主要なものはじつは元の最初期に雲南を治めた、ある一人の有能な官僚のわずか5年以内の指示のもとでつくられたものが原型となっているのです。

その人は、色目人(シキモクジン)と元の時代に呼ばれた一人。高校世界史の教科書に
「元の朝廷で有能な色目人が多数、重用された」と書かれていたため、当時は
「色目を使うなんて、いやな感じだなあ」と、本来の「元の統治下、さまざまな『目』の人、青色や緑色の目の人が多かった西域に住む人々」という意味を完全に無視してゲンナリしていました。妄想はふくらんで、「モンゴル帝国の階級で一番はモンゴル人、2番目に色目人、漢民族はその下の支配される階級に置かれた」と読むと、さらに支配階級=悪者と単純化され、イロメの妄想とともに、すごく脂ぎって、太った、二重あごの男の人を勝手に想像していたのですが、この人の業績を見ると、高校生だった私を殴り飛ばしたくなります。

 名は賽典赤・贍思丁(1211-1279)。中国音だとシャイデンチ・シャンスディン。なんとも分かりにくい読みは、ペルシャ語の音読のため。ペルシャ名はサイード・アジャル・ブハーリー。
 チンギスハーンの中央アジア遠征の時に1000騎を率い、豹と白鶴をみやげに投降したペルシャ貴族で、イスラム教の開祖・ムハンマドの後裔を称する名家の出身。中央アジアの中心都市の一つ・ブハラ(現ウズベキスタン)で生まれ育ちました。
 チンギスハーンにペルシャ語の「貴族(高貴なサイイド〈聖裔〉)」を意味する「シャムスッディーン」と呼ばれ、尊敬を受けたことから以後、本名ではなく、通称を用いるようになったとのこと(『元史・列伝・賽典赤・贍思丁』より)。

 このエピソードから、元軍に投降したときに本来の名を捨て、一族(1000騎)を守るために生きることを選んだのかな、などと、またも妄想をたくましくするのですが、その根拠となりそうな文献はペルシャ語なので、ちょっと私には手が出ません。
 
 さて、チンギスハーンの死後も各皇帝に重用され、山西地方の行政官を歴任し、次に燕京(今の北京)で断事官、第4代のモンケ・ハーンの時は北中国全土を管轄する燕京等処行尚書省の中の北京周辺の行政の最高責任者である燕京総官となり、多くの「恵政」を施したと「元史」では伝えています。

 さらにモンケの南宋遠征の時には兵站を担当し、物資を切らすことがなかったとか。
モンケの死後、フビライ・ハンの幕下でも重用され、ついに中統2年(1261年)、50才の時に宰相クラスの中書平章政事に昇進。至元元年(1264年)に南宋との最前線ではる陝西・四川等処行書省平章政事となり、中国西部の行政の最高責任者となり、南宋の将軍や各地の反乱をよく鎮め、すぐれた行政手腕を発揮したそうです。

 じつに有能ゆえの輝かしい経歴、ハーンの信頼も厚かった彼が、雲南に派遣され、じつにさまざまな雲南の治水、学問、寺院、都市計画など、今に残る業績を残したことは、雲南にとってじつに幸運な出来事だったのではないかと思うのです。それについては次回に。   (つづく)
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雲南の飲み水17

2013-04-06 14:29:21 | Weblog

写真上は昆明故城の施設。写真下はその「昆明故城」の概況を記した看板。(2010年夏撮影)

【買い物斡旋アミューズメントパーク】
さらに新たに2010年には「昆明故城」という施設が出来上がっていた。
注意したいのはネーミング。昆明城はたしかに1800年以上前より存在していた。だがこの「故城」はまったくの別物なのだ。場所は本物の「古城」跡が現昆明の中心街付近にあるのに対して、この施設は滇池の縁である雲南民族村の隣にあり、経営は雲南民族村が行っている。入場料こそかからないが、たんなるアミューズメントパークなのである。

 掲げられた看板によると面積は2万㎡、中国の時代劇などに出てくるような昔風の明清時代の建物らしい軒先が続き、そこにレストランや休憩施設、カラオケ、ショッピング街などを誘致したい、とのこと。特徴的なのは、そこに民間工芸や民族手工芸品、民間芸人街をつくる、という点ぐらい。

 用地取得は2004年10月。2007年12月に竣工し、2010年2月に開城したはずなのだが(人々が行き交ううれしげな光景が2月の地元紙の新聞を賑わせていた)2010年夏の時点では入居もチラホラ、人通りもチラホラ、という寂しい状況だった。私はインターネットで開城時期を確認するまで、建設中の立ち入り禁止地域だと思ったほどだ。見回すと、開城して半年たつというのに並びの案内板には㎡あたりの月貸し料金や駐車料金が大きく記載され、「財富熱線」と大書きされた横に電話番号があった。

 じつはこのような「故城」という名の施設は雲南にも多くの場所に、さらに中国各地にずいぶんとつくられている。高速バスで移動中などに「○○故城まであと○キロ」などという標識を見ると、最初のうちは「こんなところに昔の城が残されているのか。帰りに寄りたいな」などと真面目におもっていたほどである。だが、たいてい看板を注意深く観察すると浙江省や香港系の財閥が建設したものであることがわかった。

 どれもこれも、日本でもよくみる「イオン・レイクタウン」や巨大アウトレット施設のようなショップ街で、外観は日光江戸村風な場所という、コンセプトになっている。あまりにも似たような施設が多すぎるため、いまや中国の人々は、このような施設に飽きてしまった、という気もする。現在、中国から日本に観光客がくると、日本の旅行社は木更津などの巨大アウトレットに連れて行こうとするが、じつは中国の人にとっては建物こそ中国風ではないとはいえ、見慣れた光景なのではないだろうか。
                 (この章おわり)
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