雲南、見たり聞いたり感じたり

雲南が中心だった記事から、世界放浪へと拡大中

昆明の飲み水16

2013-03-31 15:49:24 | Weblog

写真は昆明滇池国家旅遊度假区の今後の計画を記した看板。昆明の主要な観光施設である雲南民族村前に大きく設置されていた。

【昆明滇池国家旅遊度假区】
 さて、盤龍江の下流まで見学する途中、滇池の近くで見つけたのが上記の看板だ。
その内容は昆明滇池国家旅遊度假区は1992年に国家によって指定された日本でいうところの国民休暇村12カ所のうちの一つ、というものだ。この地区にホテル、別荘、ゴルフ場、湖の浴場、雲南民族村、高原体育訓練施設、動植物鑑賞区など9施設が1992年に計画され、2010年にそれらはほぼ、完成していた。

(ちなみに国家旅遊度假区とは中国で外国人に中国の旅行を促す目的で、国が初めて1992年に制定した地区を指します。滇池の他には上海の余山、無錫と蘇州の太湖、福建の武夷山、ビ洲島、海南島の亜龍湾など、後に世界遺産に登録された場所が多いです。登録されていないところはその後の環境破壊が激しすぎたところと考えていいでしょう。滇池もそういう場所の一つ、というわけなのです。)

 じっさいに滇池を西山に向かって歩くと見えてくる一流国営企業の保養所の数々。2004年に見たときには中国銀行などが滇池周辺に美しい庭と宿泊施設を持っていて優雅だなあ、と感心したものだ。これで池と空気がきれいなら申し分ないのだが・・。おそらく1992年は保養所としても魅力的なところだったのだろう。

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昆明の飲み水15

2013-03-24 15:05:38 | Weblog
写真は昆明の中心街からやや南方にある買い物街を流れる玉帯河。都会と田舎が同居したような不思議な風情を醸していた。(2005年撮影。)

【きれいな水を流せば、途中の汚物もきれいになるのか?(反語文:いやない。)】
さて、2004年8月28日から9月20日までの25日間、松華坝ダムから盤龍江へ、そこから支流の玉帯河、篆塘河、大観河をへて、滇池へと放流するプロジェクトが開始された。このプロジェクトが開始されると市民から苦情が寄せられるようになった。
たとえば玉帯河。ここは昔ながらの彫刻が施された白い石橋がかかり、なんとも風情があるのだが、街中にある上、流れもほとんどないため、日頃は真っ黒な水たまり状態となって異臭すら漂っていた。ここを水が通過するのだから、滇池の水質に悪影響を及ぼすことは必定だと、だれもが考えた。
だが、市政府だけは違っていた。連日3万から5万立方メートルの水が25日間も流れ続けるので、汚水の希釈率は0.7%となり、水質に影響はない、とのこと。むしろ、滇池の水質改善に寄与するはず、というのだ。
実際に流れる様子を新聞記者は「黒い舌のようなものが河を走る様子に驚く人もいたことでしょう。でも、大丈夫。あと24日間、このプロジェクトは続くから問題ないですよ」と玉虫色のリポートでごまかしていた。
だれもが、滇池の水質改善を願っているはずなのに、やっていることのポイントがずれてしまうのは、国の特徴なのだろうか? このプロジェクトになんからの利権が絡んでいるのか、とつい、勘ぐってしまう。
日本からは、筑波大学や群馬県高崎市に本部のある利根川の水質浄化活動をしているNPO法人ジャパン・ウオーター・ガード(JWG)などが、滇池の水質浄化に協力するなど、積極的な関わりも見られるが、すでに日本のマスコミでも最近、さんざん報じているように、悪化へのベクトルは進行中なのであった。
(次回は滇池の今後のプロジェクトについて)

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昆明の飲み水14

2013-03-16 12:24:27 | Weblog

写真上は、昆明よりをはさんで南に位置する昆陽市・鄭和公園の頂に建つ鄭和像。全長6メートルはあろうかという巨大な石像だ。写真下は像のある鄭和公園から眺められる景色。昆陽の町並みとその先に滇池(2005年3月撮影)。
 公園の中心部には鄭和が父のために建立した父を讃える文を刻んだ石碑とその墓が静かに安置されている。街中には「鄭和故居」と書かれた建物もあった。

 鄭和が仕えた永楽帝の死後、鄭和が宦官という低い身分だったこともあり、金食い虫のばかげた事業だと、鄭和と大航海に関するものはほとんど歴史的に抹殺されてしまったので貴重な場所ともいえる。
 ちなみに鄭和はイスラム教を信仰する回族。イスラム商人のネットワークもたくみに活用していたのでは、ともいわれている。いまでもこのあたりは、雲南で一番回族が多く暮らす場所である。

【都市全体を水洗する?】
もう一つ、昆明市政府が行った驚くべき方法があった。日本ではこのような方法がとられたことはないのではないか。
以前、昆明を訪れた司馬遼太郎は、次のようなことを書いていた。
「ヨーロッパの人々が世界一周を成し遂げる以前に、明の宦官・鄭和が永楽帝の命令を受けて中国からアフリカまでの航海を成し遂げている。鄭和が海から遠い昆明付近出身なのが不思議だったが、昆明に来て、その理由がわかった。」と。

 昆明には滇池をはじめ巨大な湖沼群がある。鄭和は滇池であり、かつ中国で2番目の水深をもつ撫仙湖の近くの街で幼少期を過ごしていた。その後、彼は幼少期に捕縛され、明朝の宦官とされ、ついには1405年から33年の間に300隻もの大艦隊を率いてアフリカまでの航海を7回も成し遂げる数奇の運命をたどることとなる。

 また、その彼の過ごした頃の昆明は水の「まち」だった。
 明より遡ること100年前の元代初期、モンゴル帝国から派遣された昆明の統治者は、運河や灌漑設備、水流調節装置などの整備に並々ならぬ力を注いで、昆明周辺の多くの湖沼をつなぎ、遠くベトナムまでの水路を確保してしまった。こうして昆明は内陸にもかかわらず、水運の発達した街へと変貌をとげた。その時の都市大改造が今なお、生きているのである。

 まず、今まで歩いた盤龍江から滇池は一本道でつながっている。これは自然の賜だが、そこに付随して運河が都市のすみずみまで網の目のように張り巡らされ、今や暗渠となった場所こそあれ、それらはすべて今なお、滇池につながっているという。

 そこで、なんと上流の松華坝ダムから鉄砲水のように水を放ち、川の汚れを水洗トイレのように滇池に流してしまう、という方法が考案され、実施されたのだ。
雨期に松華坝ダムの水が十分に溜まったので、その洪水防止の意味もあった。
(つづく)
*いつもお読みくださり、ありがとうございます。先週は日本の中世からの水運をささえた瀬戸内海の塩飽水軍の活躍した地に行ってきました。村上水軍は知っているけど塩飽って? という方もいらっしゃるでしょう。今年4月から10月まで瀬戸内国際芸術祭で、瀬戸内海の島々に行きやすくなりますので、ぜひどうぞ。かつて人が島からあふれるほど、暮らし、活気にあふれていたという本島などに行かれてみるのもおもしろいですよ。このあたりの方々は、本当に話し好きで人当たりが良いのにびっくり! 歴史的に東南アジアから中国、日本の北側まで多くの往来があり、磨かれていった伝統が残っているのでしょうか?
 鄭和も、幼少に過ごした地に、いろいろと影響を受けて大事業の礎となったことでしょう。
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昆明の飲み水13

2013-03-03 16:23:00 | Weblog

写真上は金太塘排灌所全景と出水口(官渡区六甲郷星海辯事所馬橋村・2010年夏撮影。以下同)。もともと金太塘は1950年代の毛沢東が発動した「大躍進」の時に「囲海造田」という嵐のような政治運動の一環で人々が土袋を次々に滇池に運び埋め立てた地の一つ。この排灌所は盤龍江の水を川藻に浮かぶ藻やゴミなどをただ濾過して排水し農業用水として灌漑するために作られた施設である。
 現在はこの寂しい場所をホテルという名の宿泊所にしている。

 ちなみに2009年に同所を見た人は、川の水は真っ黒で時折、白いアワすら浮んでいたという。
(関注滇池http://blog.clzg.cn/blog-30484-79149.html)。
 ただ2010年初頭から第7下水処理場が稼働し、さらに2011年秋に第8下水処理場が稼働すると、理論上では水質が最低の劣5類だったものが4類にまで改善されて滇池に注ぐようになるとのこと(「中国低炭素経済網」2011年10月25日、昆明市滇池管理局http://dgj.km.gov.cn/structure/news/gg/content_252927_1.htm・http://dgj.km.gov.cn/structure/news/gg/content_251973_1.htm)。
 とはいえ4類ではまだ工業用水にも使えない。また、明らかな水質改善は報告されていない。

盤龍江の河口にて。
タヌキ藻などがういている。
【さびしい生態公園】
 河口はやはり、灰色の水と緑の藻が浮き、アオコの発生により緑の絵の具を溶かし込んだようなすさまじい光景になっていた。臭いも強烈。河口近くにはさびれた排水灌漑施設が稼働し、職員が出入りしていた。ただ施設を通過した水の出口を見ても藻は浮いていて水質の改善は見られない。稼働もしているのかどうかすら、よくわからない。

 そして午後3時の昼下がり(中国全土が北京時間なので昆明の朝は真っ暗、午後7時を過ぎてもまだ明るい、ということがあるのです。)、河口横には近所の裁縫好きのおばあさんと歌好きなおじいさん、それと管理人がぽつんといるだけの、わざとらしいほど、見事に植栽された生態公園なるものが出来上がっていた。木には栄養剤のチューブがぶらさがり、赤土の上に緑の芝生が置かれていた。時間によっては地元の人々の憩いの場となるのだろう。


写真上は2009年12月30日に2500万元をかけて80種類の水生植物を植えるなどして完成させた滇池湿地公園。木々には黄色い栄養剤がぶらさがっている。写真下は湿地公園脇を通る盤龍江河口。

 湿地公園は昆明市中心部へと一本で行ける湖賓東路の建設、盤龍江河口に立派な別荘のような邸宅地区や小学校などを建てる滇池周辺地区の大規模開発の一環として造られた。おかげでかつての漁村は、災害もないのに徹底的に破壊され、除かれてしまった。

【タヌキ藻で水質浄化?】
ちなみにアオコは、栄養豊富なリンが池の底にたまり、酸素が不足してくると、植物性プランクトンのミクロキスティスが大発生したもののこと。動物性プランクトン以外に食べるものがいないので、条件がそろえば増え続ける。
 そして増えすぎて死滅すると濃い緑色のインク状になって池の隅にたまる。すると強烈な鼻につくようなにおいになって生活に影響する。これらの発生を抑えるには、

①水の流れをつくる、②池の底に酸素を増やす、③水生植物を利用して窒素やリンを減少させる、
 の3つの方法があるのだそうだ。
 滇池は水たまりのような状態なので水の流れはほとんどない。水の流れをつくるにしても面積297.9平方キロメートルもの広さをどうすればいいのか。つまり①の解決法は難しい。

②は酸素を増やすポンプの設置ということになるだろうが、これも広さに対して難しい。
 そのため、昆明市政府は③を熱心に行っている。具体的には滇池に生える水草をひたすら人海戦術で回収し、トラックにゴミとして詰め込んで行く、もしくは近くの農村に持って行って堆肥に使ってもらう、というものだ。

 2011年4月29日の地元紙・春城晩報で、水に浮かぶタヌキ藻を昆明市官渡区の13の河川に2万㎡植栽したと報道された。タヌキ藻の寿命は520年とか。これらはアルカリ、リンの富栄養物質を栄養源とするので、水質の浄化に役立つばかりか、増えてきたところで、計画では年間100万トンを回収するとアルカリ1500トン、リン430トン、さらに鉛、銀などの重金属物質の回収もできるという。

この方法は格安な上、効果も確実、さらに回収した藻を発酵させるとタンパク質を含んでいるので、動物の飼料や有機や無機の肥料、保健品、各種薬品や飼料添加剤を作ることができる、と書かれていた。

そして、実際に人々が小さな平船に乗って、せっせとタヌキ藻を回収しているのであった。
最後の数行の回収した藻を再利用して人が食べるものに使っては元も子もないはずなのだが、水質改善だけに頭がいってしまっているのか、まったく考慮されていないのが悩ましい。実際、近くの漁村の肥料として大量にトラックで送られた、という農民の感謝の笑顔とともに記事が載せられているものもあった。

日本でも無農薬有機野菜の中には、様々なもの由来の食物残渣を堆肥として使ったために、へんな味のトマトができた、などという話を、笑いながら当の農家の方に話されて困ったことがあったが、有機堆肥はよくよく考えないといけない。

日本でもかつて湖の浄化が喫緊の課題の時、様々な方法が検討されたが、③は手間も時間もかかるし、回収した藻の持って行きどころがないという問題もあってあまり熱心に取り組まれることはなかった。
それを昆明では主軸に据えているのであった。 
(つづく)
*今週は長文ですみません。来週は更新をお休みします。
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