写真はシャングリラから麗江に向かう道にて。観光道路は次々と立派になるが、それらの間の一般道路は急峻な崖をただ削って、平らにならしただけのところが多く、大雨ともなると、大岩が斜面を滑り落ち、道をふさいだり、削った山肌に十分な草木が生えず、そのまま崩れてしまい、通れなくなる道が各所にあった。一度、寸断されると、数時間から1日はそのまま動けない。なかには、街の校長先生のような人が指揮して、山をさらに削って、一方通行の道をあっという間に作り上げ、通行料を徴収して交通整理をする関所のようなものを作り上げたところもあった。とこかく先に動けるので、それでも助かった思いがした。その柔軟性と関所はじめて物語を見る思いで、心楽しくもあった。
あっという間に通常の三倍の値段で水を売る人が現れる場所もあった。
【名門出のジャーナリストの少数民族出身者】
丹増は1946年12月、チベット族の生まれで、チベット自治区の山間の那曲地区比如県の出身。中国共産党がチベット自治区へ侵攻し、「奴隷解放」をしたころ。
その言葉に感化されて地元を離れ、1960年7月に陝西省咸陽市にある西蔵学校で学び、1965年、北京の少数民族出身者の最高峰・中央民族学院の新聞訓練班選抜学生になりました。
ところが入学の翌年に文革が起きたため、彼はラサの西蔵日報記者に配属されます。そして文革中に選抜で上海の名門、復旦大学を出ました。
1983年には西蔵自治区の文化庁長官、85年からは同自治区の委員副書記に、そして2002年4月に雲南省には省委員副書記に着任しました。雲南にきたのは、このときが初めてとのことです。
つまりチベット自治区の少数民族の出自で最終学歴は名門・復旦大学を出たジャーナリスト。これは希有な経歴です。
彼の役目はこの経歴からしても、ひたすら文化面にありました。
着任するとすぐに中国でも、そして日本でも知られる謝晋監督(『芙蓉鎮』『乳泉村の子』など)に電話をかけ、「雲南の独特の風景といった撮影条件をつかって、世界一流の映画撮影基地にしたい」といって口説き、麗江束河古鎮映画撮影基地の落成式の時には、謝晋監督は上海から麗江にやってきて落成式に立ちあいました。
これだけでも、雲南市民は、自分たちのために有名人を連れてきてくれた、と感激します。しかも記事になりやすい題材です。
ちなみに上記の村では、その後、チャン・イーモウ監督が高倉健を主演として「単騎、千里を走る」(中国・2005年12月/日本・2006年1月公開)を撮影しています。
この村は多くの撮影に使われ、そのために日本からの麗江ツアーでもかかせないスポットとして行かれた方も多いところです。
(つづく)
あっという間に通常の三倍の値段で水を売る人が現れる場所もあった。
【名門出のジャーナリストの少数民族出身者】
丹増は1946年12月、チベット族の生まれで、チベット自治区の山間の那曲地区比如県の出身。中国共産党がチベット自治区へ侵攻し、「奴隷解放」をしたころ。
その言葉に感化されて地元を離れ、1960年7月に陝西省咸陽市にある西蔵学校で学び、1965年、北京の少数民族出身者の最高峰・中央民族学院の新聞訓練班選抜学生になりました。
ところが入学の翌年に文革が起きたため、彼はラサの西蔵日報記者に配属されます。そして文革中に選抜で上海の名門、復旦大学を出ました。
1983年には西蔵自治区の文化庁長官、85年からは同自治区の委員副書記に、そして2002年4月に雲南省には省委員副書記に着任しました。雲南にきたのは、このときが初めてとのことです。
つまりチベット自治区の少数民族の出自で最終学歴は名門・復旦大学を出たジャーナリスト。これは希有な経歴です。
彼の役目はこの経歴からしても、ひたすら文化面にありました。
着任するとすぐに中国でも、そして日本でも知られる謝晋監督(『芙蓉鎮』『乳泉村の子』など)に電話をかけ、「雲南の独特の風景といった撮影条件をつかって、世界一流の映画撮影基地にしたい」といって口説き、麗江束河古鎮映画撮影基地の落成式の時には、謝晋監督は上海から麗江にやってきて落成式に立ちあいました。
これだけでも、雲南市民は、自分たちのために有名人を連れてきてくれた、と感激します。しかも記事になりやすい題材です。
ちなみに上記の村では、その後、チャン・イーモウ監督が高倉健を主演として「単騎、千里を走る」(中国・2005年12月/日本・2006年1月公開)を撮影しています。
この村は多くの撮影に使われ、そのために日本からの麗江ツアーでもかかせないスポットとして行かれた方も多いところです。
(つづく)