雲南、見たり聞いたり感じたり

雲南が中心だった記事から、世界放浪へと拡大中

暴れる象と芸象7 殷・周代は?

2016-04-24 11:22:44 | Weblog
写真は建水の陽明門の上で中国将棋に興じる人々。街では板の上や、路上に白墨で線を引いた簡単なものでまで、楽しげに将棋を指す人をよく見かけた。麻雀は男女混合だが、中国将棋はなぜか100%男性だった。(雲南建水にて撮影。)

【殷の人が操る象】
『呂氏春秋』のほか、『墨子』三辯編にもこの象の楽曲ことが記録されています。ただ、『墨子』の方は成王の前の王の、殷を倒した周の武王が命じて作った曲とされています。

(武王勝殷殺紂,環天下自立以為王,事成功立,無大後患,因先王之楽,又自作楽,命曰《象》。周成王因先王之楽,又自作楽,命曰《騶虞》)

いずれにせよ春秋戦国時代の末までの700年もの間、殷の時代に「象」の曲が王命で作られた、という話が伝承されていたわけです。

楽曲のほかに、青銅器に「象尊」という象の形をした器があり、黄河流域地域で何点も出土しています。(陝西省宝鶏市茹家庄などhttp://baike.baidu.com/subview/278690/19663557.htm)

これらのことから、殷・周代を通じ象は楽曲や青銅器となるほど、神秘的な強さを持つ、身近に恐怖すら感じるような動物と尊ばれていたことがわかります。

【中国将棋の「象」は?】
象が対戦することを考えていたら、中国の将棋の駒に「象」がいたことを思い出しました。中国将棋の駒は「将(帥)・士(仕)・象(相)・車・馬・炮・卒(兵)」の7種類あり、象(相)は、盤面の真ん中にある「河」は渡れません。馬は渡れます。これは、実際に動物の馬は船で河を渡れ、象は渡れないため、と理解されています(※1注)

ただ、調べると象の駒が歴史上現れるのは宋の時代から。火薬が発明されて「炮」が増え、同じ頃に仕(士)、象(相)が増えたそうです。(※2注)

そもそも将棋のルールはインドから伝わったと言われているので、その影響があるのかもしれません。歴史的には中原の人が象を使って戦闘をすることはなくなっていましたから。

また、ご存じのかたもいるでしょうが、中国では将棋は「象棋」と書きます。が、これは象の駒で戦闘をするからではなく、牌に象牙を使っていたから、とも、日月星辰の現「象」をあらわしたから、とも言われています。

このように、だれがいつ、作ったものかはっきりとしないのですが、国際名人戦もあるほど、中国ではさかんなゲーム。雲南の路上で、また店先で将棋を指す年配の男性は数多くいました。彼らが今でも、「象」を掌中にして戦っているかと思うと、不思議な気がします。
(つづく)

参考文献
【英】伊懋可著 梅雪芹他訳『大象的退却 一部中国環境史』(江蘇人民出版社、2014年)

※1 維基百科「相(中国象棋)」https://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8_(%E4%B8%AD%E5%9C%8B%E8%B1%A1%E6%A3%8B、
百度「象(象棋棋士)」http://baike.baidu.com/subview/27456/5084562.htm
所司和晴 シャンチー(中国将棋)入門コーナーhttp://www7b.biglobe.ne.jp/~shg/80496703/
※2 百度「中国象棋」http://baike.baidu.com/subview/13701/19590285.htm)

*九州の被災された方、お悔やみ申し上げます。この地震の被害をテレビで見るに付け、東北の震災は地震、津波、原発の3つの複合災害なのだ、だからこそ復興も一筋縄ではいかないのだ、と、今更ながら気づきます。九州がそうならないよう、全力で取り組む必要が、いまはあるかと思います。

 この日本のみならず、最近、とみに世界各地で次々と起こる地震に地下資源の掘り起こしすぎで圧力が変化したのでは? と素人なりに考えております。どうなのでしょう?

*次週、ひょっとすると、更新ができないかもしれません。春は疲れやすい季節、みなさま、お身体を大切にお過ごしください。
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暴れる象と芸象6  かつて象は中原にもいた

2016-04-17 11:49:38 | Weblog
写真は昆明動物園の象。地面が赤いので象も大地の色に染まっている。

【その歴史・淮南で野象数百頭が大暴走】
まず、象の生息地について考えてみましょう。

氷河期にまでさかのぼると日本でもナウマン象の骨が多数見つかるほど、大陸各地に生息していましたが、中国文明が形をなした殷の時代ごろは現在につながるアジア象もいまよりはるか北の方でも見かけました。(上田信『トラが語る中国史』山川出版社 2002年)

当時は黄河流域にも森があり、気候も温暖だったといわれています。

その後、寒冷化したとはいえ魏晋南北朝期の552年には長江と淮河の間に位置する淮南で野象数百頭が民家を壊した、という記事の他、象が都市に紛れ込む記事がたびたび登場します。
(「中国史の中のゾウ」http://d.hatena.ne.jp/indow/20071201%23p1)

これらの象は古くから戦闘にも使われていたようです。

秦の始皇帝の時代(秦始皇8年・紀元前239年)に完成した『呂氏春秋・古楽編』には

「成王立ち、殷の民反す。王、周公に之を践伐するを命ず。商の人、象を服して、東夷にて虐を為す。周公ついに師をもってこれを逐い、江南に至る。すなわち“三象”を為し、もってその徳を嘉す。」
(成王立,殷民反,王命周公践伐之。商人服象,為虐于東夷。周公遂以師逐之,至于江南。乃為“三象”,以嘉其徳。)

との記述があります。

内容は紀元前1046年ごろ、新興国の周が強国・殷に勝ち、統治し始めた頃。殷を倒した武王が死去し、まだ幼少の成王が王位に就くや殷の民が反乱をおこしたため、周の成王が周公に鎮圧を命じます。

そのとき商(殷の呼称)の人々が戦闘に象を用いたというのです。

「虐」という文字から象のもつ圧倒的な戦闘力に人々がなすすべもなかった状況が伝わってきます。

ただ、周公は鎮圧に成功して江南に至りました。この勝利を祝して楽曲「三象」が作られた、という話です。

東夷の場所ですが、当時も江南は長江の下流域のことらしいので、東夷はそのあたりより北の地域となります。長江より北で殷の人が象で戦闘を行っていたことになります。象を扱う技術があったのでしょう。

(つづく)
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閑話休題・『貨幣の条件』 ~タカラガイよりみた人の営み

2016-04-07 13:22:41 | Weblog

【これもまた、雲南の本なり】
雲南の博物館で、よく展示されている「貯貝器」。事務的な名前とは裏腹に、人や虎のような動物を狩る人のオブジェなどが猛々しくやはり青銅で装飾された蓋と、直径60センチほどの筒状の胴体も持つ美術的価値の高い青銅器が目を引きます。

なぜ、この美術品にそのような名前が付いているのかというと、そこにタカラガイが納められていたからなのです。

雲南で日本の江戸時代のころまで使われていたお金というと、タカラガイでした。マルコポーロの『東方見聞録』や中国の『明実録』などの史料でもたどることができるたしかな事実です。つまり貯貝器は金庫だったのです。

また北京よりはるか北方の漢代の貴族の墓を掘り起こすと、死者の胸や頭の付近に、タカラガイが置かれていることがあります。呪術的な意味を持たせていたのです。

ほかにも中国の少数民族の衣装には、かつてタカラガイが豪華に縫い付けられたものが多数ありました。装飾的な美しさと財宝としての価値があったのです。
 
一方、日本では竹取物語の昔から「コヤスガイ(子安貝)」とも呼ばれ、日本各地でさまざまな呼称をあたえられていた貝ですが、日本でお金として使われることはありませんでした。なぜならば横の海で獲れるものだから。

【初めてタカラガイが主役に】
タイ、チベット、中国と日本などタカラガイのある場所(あるかな、と思って行ってなかった場合は、本には出ていない)をフィールドワークし、文献を解読して貨幣の原点と存在意義にせまった書籍がこの春、筑摩書房から出ました。
 
私も雲南、タイなどいくつかタカラガイをたずねる旅に同行しました。たいていの場合、貝は副えもので、飾られていてもあまり注目されていない印象があります。それらを紡いで主人公に据えた珍しい切り口の書だと思います。

雲南の歴史や地理にがっつりと触れているので、ご参考までに。


上田 信著『貨幣の条件 タカラガイの文明史』 筑摩選書 1800円+税

●書評 出ました!●

読売新聞(2016年3月6日付け)
雑誌「てんとう虫」4月号(2016年4月1日発行) 
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