雲南、見たり聞いたり感じたり

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暴れる象と芸象16 象をけちって滅んだ王国

2016-06-24 18:22:24 | Weblog
写真はシーサンパンナの中心都市景洪から96キロ南下したところにあるシーサンパンナモンルン森林植物園。1958年に中国社会科学院植物学の蔡希陶教授が心血を注いで約3000種の植物を採集して、メコン川の中洲に植えて作り上げた。かつて、その地で暮らしたタイ族のモニュメントと思われるものが、静かに熱帯植物に覆われていた。これら旺盛な生命力から生み出される物産が、中国からの侵略を守る礎となったと思うと感慨ぶかい。

ちなみにこの植物園は、癌に効果のある藥や、昨年、ノーベル医学賞を受賞した屠呦呦(トゥ・ヨウヨウ)ら特別チームがマラリヤの特効薬を探して植物採集した地ともなっている。
(彼女はマラリヤ特効薬のキク科ヨモギ属の青蒿(Artemisia annua)からアーテミシニンの抽出に成功し、1972年に論文発表を行ったことが今回の受賞となった。が、いろいろと問題が。
1972年と言えば文革の真っ最中。一人の意志で研究できるはずもなく、上司の命令でチームで研究が進められていた。学会発表は外国人に接触するというので、肩書きもなく、政治的地位も低い女性の彼女がまとめて発表したのが、海外で認知されたのが実情のようで、国内の研究者ではいろいろとくすぶるものがある。各種内部文書で当時から批判文書が流されていた。実情は私にはわからない。)


【象を贈らなかったために、滅びた環王】
唐の初期、現在のカンボジアにあった環王国(※1)も象で戦闘を行っていました。戦象の規模は1000頭というのですから、相当なもの。さらに象に踏ませる処刑があった、というのですから、象の存在感が絶大だった国だったのでしょう。
(「王衛兵五千,戦乗象,藤為鎧,竹為弓矢,率象千、馬四百,分前後。不設刑,有罪者使象践之」『新唐書』巻222下、列伝147下、南蠻下より)

この国は唐の貞観年間(627-649)になると唐の第2代皇帝の太宗(李世民)に飼い慣らした象をはじめ、オウム、犀、珍しい織物など珍宝を含めて献上し続けます。

太宗は、北は突厥、東は高句麗、西は高昌と次々に侵略、滅亡に追いやる当時、最強の征服者だったので献上品で国が保てるのなら、という切実な思いがあったに違いありません。

その贈り物が功を奏したのか、環王の使者が献上の際の言葉づかいがうやうやしくない、との理由で臣下が

「不遜なので罪にしましょう」

と戦争を焚きつけても、他国を侵略しまくっている太宗が、この国に関しては「いいではないか」と不問に付したのでした。

しかし時がたつと弛緩するもの。百数十年後の唐の元和初年(806年)、初めて献上がなかったということで唐に戦争を仕掛けられ、3万の兵が斬られ、59人の王子が捕虜とされ、戦象などを奪われたのでした。
(「元和初不朝献,安南都護張舟執其偽驩、愛州都統,斬三万級,虜王子五十九,獲戦象、舠、鎧」『新唐書』巻222下、列伝147下、南蠻下より)

いかに象をはじめとする献上品が国を守るために重要だったのかがわかります。しかし100年以上も律儀に貢納し続けたのに、外交は厳しい・・。
(つづく)



※1環王は、かつての林邑。林邑も戦闘には象を用いた。南宋が元嘉22年(西暦445年)に林邑に侵攻したとき、象浦(福建省)で象兵とともに応戦。宋軍が獅子型の模型を設置すると、象は驚いて潰走した。この闘いで林邑国は滅びた。(宋書巻76列伝第36宗慤)
元嘉二十二年,伐林邑,慤自奮請行。義恭舉慤有膽勇,乃除振武將軍,為安西參軍蕭景憲軍副,隨交州刺史檀和之圍區粟城。林邑遣將范毗沙達來救區粟,和之遣偏軍拒之,為賊所敗。又遣慤,慤乃分軍為數道,偃旗潛進,討破之,拔區粟,入象浦林邑王范陽邁。傾國來拒,以具裝被象,前後無際,士卒不能當。慤曰:「吾聞師子威服百獸。」乃製其形,與象相禦,象果驚奔,眾因潰散,遂克林邑。


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暴れる象と芸象15 贈り物の効能

2016-06-17 15:44:36 | Weblog
写真は昆明動物園の孔雀。動物園に限らず、雲南各地のテーマパークでは放し飼いされたきれいな羽の孔雀たちが群れていた。

【贈り物を切らさず国を安定させる呉】
 巨象のほか呉からの贈り物は、三国志「呉書」に出ているだけでも、

雀頭香といった高価な香料、
大貝(紫の文様のある白い貝)、
明珠(大きな真珠)、
象牙、犀の角、
孔雀、翡翠(青い鳥)、闘鴨(けんかさせるための鴨)、長鳴鳥など

 呉国の特産品のオンパレード。
 なかには捕虜となった魏兵を「贈る」といったケースもありますが、ともかく珍奇な生き物系の「貢ぎ物戦術」は呉の外交戦略の最重要な柱だったことがうかがわれます。

これ以前より漢王朝に贈り物をまめに贈っていました。

孫権の兄の孫策が漢の朝廷から錫命という名誉ある勲章のようなものを最初に授けられた理由もこれ。
正史の『三国志』(物語の三国志演義とは違い、歴史書のほう)には
「孫策が遠方の地にありながらおこたりなく贈り物を奉じてくることから」(漢以策遠脩職貢)と書かれているのです。
 漢王朝とそれを操る魏が驚くほど、インパクトのある質と量の贈り物をしていたことがわかります。

黄初元年(222年)秋9月の魏の文帝が呉の孫権に贈った文には
「君が臣下に名を連ねて以来、珍宝を貢納する使者は道々にあふれた」(自君策名已來,貢獻盈路)ともあるほどです。

 魏の曹操が死去した年、魏の文帝(曹丕)が、孔雀や象牙など呉の珍宝を取りそろえて贈るように言ってきたとき、呉の大臣らは理不尽すぎる要求として「これ以上、贈る必要はない」と反対するなか、孫権は「江南の人民を守るため」「魏帝の求めてくるものは、われわれには瓦石(がらくた)にすぎない」といって、すべて取りそろえて贈っています。

 ある意味、物の豊かな国ならではの戦略ともいえますが、魏は要求し、呉は応える緊張した関係のなか、いかには双方の国の一般通念として、貢納物の授受が国にとって重要な意義を持っていたかがよくわかります。
(次回は象が贈ることができなかった国の悲劇について)
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暴れる象と芸象14 《三国志》の巨象

2016-06-10 16:22:58 | Weblog


写真は子供向け書籍の『おてんば娘はな子の七転び八起き』(綾野まさる作・ハート出版、2007年)。写真下はこの書籍の中表紙だが、偶然にもにはな子にパンを与える私の写真が使用されていた。

 はな子にパンをあげる日常的なイベントに参加したときのものだ。手のひらにくすぐったい感触を残し、やわらかい鼻でパンをとった象のはな子さんは、おだやかな印象だった。それでも私の子供は「こわい~」と泣いて近づけなかった。

 この、先月26日に東京の井の頭公園で息を引き取ったはな子はタイ出身のアジア象で、中国で古来、生息していた種類の象である。
はな子は国から国への貢納品ではなく、日本の一般の人々が戦後、国会や都庁にプラカードを持って嘆願した結果、報道各社が心当たりに話をつけて、その願いに呼応したタイの実業家が私財を投じて贈られた特別の象であった。


【曹操の息子、象の量り方を考える】
まず有名なのが三国時代。呉の孫権は魏の曹操に「巨象」を贈っています。

「“(曹冲)生五、六歳,智意所及,有若成人之智。時孫権曽致巨象」(《三国志•魏書•武文世王公伝》)」

上は曹操の息子の曹沖が神童であることを物語るエピソードなのですが、ここに「巨象」が出ております。

内容は、曹沖が5,6歳の時に、呉の孫権から巨大な象が贈られてきました。
曹操が群臣にその重さを尋ねましたが誰も、その量り方を答えられません。

そんな時に幼い曹沖が
「大きな船に象を載せて、船縁の水の跡にしるしをつけて、それから象を下ろした後にそのあとのところに沈むまで物を載せれば、重さが量れよ」と答え、曹操をたいそう喜ばせたというのです。

曹沖は196年生まれなので象が贈られたのは200年ごろ。

建安5(200)年といえば孫権の兄の孫策が急逝してその跡目を継いだ年です。まだ平定した地域ものちの呉国の全域には遠く及ばず、勢力も不安定な時期だったので、漢王朝のお墨付きがぜひとも欲しい時期でした。
 
 同年に曹操は、漢の皇帝に上表して孫権を討虜将軍に任じ、会稽太守の職務を兼任させています。巨象の贈り物が効いたのかもしれません。
(三国志・呉書・呉主伝第2)
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暴れる象と芸象13 「パンダ外交」ならぬ「象外交」の効能

2016-06-03 09:36:19 | Weblog
写真はベトナムの言葉で「象耳魚」(エレファント・イア・ーフィッシュ:カー・タイ・トウーン)と呼ばれるマンジュウダイ科の魚の姿揚げ。さっぱりとした味。深みはない。ベトナム南部のメコン川クルーズでミトーやカントーツアーの定番料理となっている。
生きている姿は本当に灰色で象の耳のような形をだ。良く名付けたものである。日本では鯛なのに・・。黒潮に乗ってやってくる日本の高知では、刺身、揚げ物、塩焼きにして食べられている。

【パガン国から元に白象】
さて、元とパガン王国との激戦は続き、ついには至元24年(1287)2月にパガン国は降伏。元に定期的に朝貢することを受け入れます。

その10年後の大徳元年(1297)2月に元朝が封じた傀儡政権がミャンマーの王となり、銀の印章を授かったお礼として、銀2500両、絹1000匹、米10000石とともに元朝に送られたのが飼い慣らした象20頭でした。

さらに2年後の大徳3年3月にはミャンマー王は息子を元に派遣し、

「金歯国に略奪され、貢ぎ物を送る余裕がまったくありません」

と訴えさせました。

すると効果てきめん。元の帝は憐れをもよおし、貢納品を削減して、象だけとし、さらに返礼の品として衣を送りました。

翌年4月には窮地の時に貢納品を減らしてくれた礼の意味があるのでしょう。
白象(菩薩の化身と言われて大事にされている珍しい象:筆者注)を元朝に贈りました。
(『元史』列伝第九十七・外夷三より)

これらのことから象は当時、ミャンマー外交の切り札、今でいうと中国の「パンダ外交」、いやそれ以上の役割を果たしていたことがわかります。なにより贈り物を要求する側が他の物はいいから、象だけよこせ、と執着しているのですのですから。

それほどまでに必要とされた象は、どう使われていたのでしょうか。

      (つづく)
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