写真はシーサンパンナの中心都市景洪から96キロ南下したところにあるシーサンパンナモンルン森林植物園。1958年に中国社会科学院植物学の蔡希陶教授が心血を注いで約3000種の植物を採集して、メコン川の中洲に植えて作り上げた。かつて、その地で暮らしたタイ族のモニュメントと思われるものが、静かに熱帯植物に覆われていた。これら旺盛な生命力から生み出される物産が、中国からの侵略を守る礎となったと思うと感慨ぶかい。
ちなみにこの植物園は、癌に効果のある藥や、昨年、ノーベル医学賞を受賞した屠呦呦(トゥ・ヨウヨウ)ら特別チームがマラリヤの特効薬を探して植物採集した地ともなっている。
(彼女はマラリヤ特効薬のキク科ヨモギ属の青蒿(Artemisia annua)からアーテミシニンの抽出に成功し、1972年に論文発表を行ったことが今回の受賞となった。が、いろいろと問題が。
1972年と言えば文革の真っ最中。一人の意志で研究できるはずもなく、上司の命令でチームで研究が進められていた。学会発表は外国人に接触するというので、肩書きもなく、政治的地位も低い女性の彼女がまとめて発表したのが、海外で認知されたのが実情のようで、国内の研究者ではいろいろとくすぶるものがある。各種内部文書で当時から批判文書が流されていた。実情は私にはわからない。)
【象を贈らなかったために、滅びた環王】
唐の初期、現在のカンボジアにあった環王国(※1)も象で戦闘を行っていました。戦象の規模は1000頭というのですから、相当なもの。さらに象に踏ませる処刑があった、というのですから、象の存在感が絶大だった国だったのでしょう。
(「王衛兵五千,戦乗象,藤為鎧,竹為弓矢,率象千、馬四百,分前後。不設刑,有罪者使象践之」『新唐書』巻222下、列伝147下、南蠻下より)
この国は唐の貞観年間(627-649)になると唐の第2代皇帝の太宗(李世民)に飼い慣らした象をはじめ、オウム、犀、珍しい織物など珍宝を含めて献上し続けます。
太宗は、北は突厥、東は高句麗、西は高昌と次々に侵略、滅亡に追いやる当時、最強の征服者だったので献上品で国が保てるのなら、という切実な思いがあったに違いありません。
その贈り物が功を奏したのか、環王の使者が献上の際の言葉づかいがうやうやしくない、との理由で臣下が
「不遜なので罪にしましょう」
と戦争を焚きつけても、他国を侵略しまくっている太宗が、この国に関しては「いいではないか」と不問に付したのでした。
しかし時がたつと弛緩するもの。百数十年後の唐の元和初年(806年)、初めて献上がなかったということで唐に戦争を仕掛けられ、3万の兵が斬られ、59人の王子が捕虜とされ、戦象などを奪われたのでした。
(「元和初不朝献,安南都護張舟執其偽驩、愛州都統,斬三万級,虜王子五十九,獲戦象、舠、鎧」『新唐書』巻222下、列伝147下、南蠻下より)
いかに象をはじめとする献上品が国を守るために重要だったのかがわかります。しかし100年以上も律儀に貢納し続けたのに、外交は厳しい・・。
(つづく)
※1環王は、かつての林邑。林邑も戦闘には象を用いた。南宋が元嘉22年(西暦445年)に林邑に侵攻したとき、象浦(福建省)で象兵とともに応戦。宋軍が獅子型の模型を設置すると、象は驚いて潰走した。この闘いで林邑国は滅びた。(宋書巻76列伝第36宗慤)
元嘉二十二年,伐林邑,慤自奮請行。義恭舉慤有膽勇,乃除振武將軍,為安西參軍蕭景憲軍副,隨交州刺史檀和之圍區粟城。林邑遣將范毗沙達來救區粟,和之遣偏軍拒之,為賊所敗。又遣慤,慤乃分軍為數道,偃旗潛進,討破之,拔區粟,入象浦林邑王范陽邁。傾國來拒,以具裝被象,前後無際,士卒不能當。慤曰:「吾聞師子威服百獸。」乃製其形,與象相禦,象果驚奔,眾因潰散,遂克林邑。
ちなみにこの植物園は、癌に効果のある藥や、昨年、ノーベル医学賞を受賞した屠呦呦(トゥ・ヨウヨウ)ら特別チームがマラリヤの特効薬を探して植物採集した地ともなっている。
(彼女はマラリヤ特効薬のキク科ヨモギ属の青蒿(Artemisia annua)からアーテミシニンの抽出に成功し、1972年に論文発表を行ったことが今回の受賞となった。が、いろいろと問題が。
1972年と言えば文革の真っ最中。一人の意志で研究できるはずもなく、上司の命令でチームで研究が進められていた。学会発表は外国人に接触するというので、肩書きもなく、政治的地位も低い女性の彼女がまとめて発表したのが、海外で認知されたのが実情のようで、国内の研究者ではいろいろとくすぶるものがある。各種内部文書で当時から批判文書が流されていた。実情は私にはわからない。)
【象を贈らなかったために、滅びた環王】
唐の初期、現在のカンボジアにあった環王国(※1)も象で戦闘を行っていました。戦象の規模は1000頭というのですから、相当なもの。さらに象に踏ませる処刑があった、というのですから、象の存在感が絶大だった国だったのでしょう。
(「王衛兵五千,戦乗象,藤為鎧,竹為弓矢,率象千、馬四百,分前後。不設刑,有罪者使象践之」『新唐書』巻222下、列伝147下、南蠻下より)
この国は唐の貞観年間(627-649)になると唐の第2代皇帝の太宗(李世民)に飼い慣らした象をはじめ、オウム、犀、珍しい織物など珍宝を含めて献上し続けます。
太宗は、北は突厥、東は高句麗、西は高昌と次々に侵略、滅亡に追いやる当時、最強の征服者だったので献上品で国が保てるのなら、という切実な思いがあったに違いありません。
その贈り物が功を奏したのか、環王の使者が献上の際の言葉づかいがうやうやしくない、との理由で臣下が
「不遜なので罪にしましょう」
と戦争を焚きつけても、他国を侵略しまくっている太宗が、この国に関しては「いいではないか」と不問に付したのでした。
しかし時がたつと弛緩するもの。百数十年後の唐の元和初年(806年)、初めて献上がなかったということで唐に戦争を仕掛けられ、3万の兵が斬られ、59人の王子が捕虜とされ、戦象などを奪われたのでした。
(「元和初不朝献,安南都護張舟執其偽驩、愛州都統,斬三万級,虜王子五十九,獲戦象、舠、鎧」『新唐書』巻222下、列伝147下、南蠻下より)
いかに象をはじめとする献上品が国を守るために重要だったのかがわかります。しかし100年以上も律儀に貢納し続けたのに、外交は厳しい・・。
(つづく)
※1環王は、かつての林邑。林邑も戦闘には象を用いた。南宋が元嘉22年(西暦445年)に林邑に侵攻したとき、象浦(福建省)で象兵とともに応戦。宋軍が獅子型の模型を設置すると、象は驚いて潰走した。この闘いで林邑国は滅びた。(宋書巻76列伝第36宗慤)
元嘉二十二年,伐林邑,慤自奮請行。義恭舉慤有膽勇,乃除振武將軍,為安西參軍蕭景憲軍副,隨交州刺史檀和之圍區粟城。林邑遣將范毗沙達來救區粟,和之遣偏軍拒之,為賊所敗。又遣慤,慤乃分軍為數道,偃旗潛進,討破之,拔區粟,入象浦林邑王范陽邁。傾國來拒,以具裝被象,前後無際,士卒不能當。慤曰:「吾聞師子威服百獸。」乃製其形,與象相禦,象果驚奔,眾因潰散,遂克林邑。