雲南、見たり聞いたり感じたり

雲南が中心だった記事から、世界放浪へと拡大中

二度目のロンドン67 自然史博物館でデジャヴュ 上

2025-02-16 10:09:35 | Weblog
ロンドンの自然史博物館の柱下部の彫刻。このように動植物をあしらったさりげない彫刻物があちらこちらにある。「リバティ」百貨店の手すりの彫刻たちと雰囲気と同じだ。同じ時代の建造物なので、この手の装飾がはやっていたのだろう。
( 2度目のロンドン12 憧れのリバティへ 下 - 雲南、見たり聞いたり感じたりhttps://blog.goo.ne.jp/madoka1994/e/0fc15fd5abb1c009bca29509d8418d4f)

【無料のスタンスとボランティア精神】
ハロッズから徒歩20分ほど(約1.5キロ)の自然史博物館にも足を伸ばしました。ハイドパークの南側では何度か言及している1851年にロンドン万国博覧会が行われました。その跡地の一角を1862年に大英博物館の自然史部門を移転するために購入し、現在では独立した博物館となっています。このあたりの建物の多くは万国博覧会に通じてしまうのです。

入場料は大英博物館と同様に無料で、寄付を投入できるボックスが置かれています。

日曜日のせいか、日本のラッシュアワーのように込んでいました。日本のラッシュアワーで数十年鍛えられた身としては、なされるままに、ゆっくりと進んでいきました。入口付近を過ぎれば、巨大な博物館に吸い込まれるように、やがて人もばらけて、じっくり見ることができました。だから慌てる必要なまったくありません。たとえ人がまったくいなくてもゆっくりと進みたくなるほど見どころがいっぱい。

建物は1880年に完成したロマネスク様式の黄色みがかった石造りで、大聖堂の内部のようなクラシカルな雰囲気。ところどころに動植物をあしらった彫刻も気になるところです。


正面入り口から入ると、頭上には巨大なシルナガスクジラの骨格標本が悠然と泳ぎ、2階付近をめぐる美しい回廊を眺め渡しているかのよう。回廊は各研究室をつなぎ、現代とヴィクトリア時代をうまく交差させています。あれ? なぜ私は「研究室」とわかったのかしら?

ほぼ毎夏、日本でも放映されるBBCが子供向けに作る恐竜と冒険家風の科学者と子供が織りなすアドベンチャー番組。つい子供と一緒に見ていたのですが、そこでは定番の光景だったのです。またBBCのドキュメンタリーでもしょっちゅう登場します。

あの二階のドアから小さな恐竜が現れて、かくれんぼしていたなあ、あそこあたりで、気づかないで人が歩いていて…、なんて映像が脳内再生されるほどで、懐かしさすら覚えるのです。ロンドンは、歩けば、何かしらのロケ地に知らないうちに行ってしまうほど、映像作品の宝庫。ここもEテレ好きなら、意識せずにロケ地めぐりになることでしょう。
                        (つづく)
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二度目のロンドン ハロッズ② 宝石のような神戸牛

2025-02-09 15:40:43 | Weblog
【クマの「プーさん」の原点】
ハロッズはちょうど夏のバーゲンシーズンで日曜ともあってとても混んでいて、試着室は長蛇の列。食料品コーナーも充実していて、ひときわ目立つところには神戸牛もありました。うやうやしくガラスのドームカバーに覆われ、ひときわ目立つショーケースに入れられていて、まるで宝石のようです。

さらに地階には、こんなにあるの? と驚くほどのハロッズグッズがせいぞろい。ハロッズのビニールバックは知っていましたが、ほかにも、各種バッグや洋服やボールペン、ペンケース、手帳などの文具やアクセサリー、ファブリックリネンまで。

いずれも落ち着いた、いかにもイギリス的な色合いで、必ず「Harrods」という文字が金や茶、黒で刺繍されていたり、印字されていたりします。

人形の種類も豊富で、くま、うさぎ、ライオン、キリン、馬、などいずれもほどよい大きさのぬいぐるみが並んでいます。ふにゃっとした感じが愛らしい。作者ミルンが息子のために書いた『クマのプーさん』のモデルとなったくまのぬいぐるみはハロッズで買ったものだったとか。なるほど。いずれのぬいぐるみもクマのプーさんの挿絵から飛び出たようで、どこか温かみもあり、おしゃれでもありました。

当時は円高だったので、妥当な値段だった上にバーゲンでお安くなっていたので、娘のおみやげにハロッズのナイロン製のショルダーバックを購入しました。金文字の刺繍に金色のファスナーがアクセントとなった落ち着いたオリーブグリーンのバッグを娘はとても喜んでくれました。今も使っているのですが、バックの要となるファスナーが甘く、持っていると自然と開いてしまうのが難点。

定番ものはともかくとして、バーゲン価格になったものというのは、何かしら帯に短し、たすきに長し、なのでした。 


     
※以下、重い話です。いま、ハロッズを取り上げる場合、この問題を避けることはできないと考えたので触れます。

【ハロッズの声明】
 現在、ハロッズの公式ホームページにアクセスすると2023年9月19日のBBCの放送でアルファイド氏の従業員女性に対する性的虐待が報道された件についてと断り書きがあります。

 現在のハロッズはオーナーが変わっているとして

 「過去を覆すことはできないが、このような行為が今後決して繰り返されないようにする一方で、現在、私たちが抱いている価値観に基づき、組織として正しいことを行う決意を固めている」

 との声明で締めくくられています。

 ショッピングサイトである公式ホームページのアクセスしやすいところにこの文言を掲げたハロッズからは、覚悟を感じます。社会の雰囲気が掲げさせたのかもしれませんが。私も今回、ぬいぐるみの種類を見たいというだけでアクセスしてこの件を知ったので、とまどい、驚きました。

 ただBBCの報道は、ジャニーズ問題と同様、加害者本人が故人となってからでした。アルファイド氏が亡くなったのが2023年8月30日なのです。

 支援する側と社会があきらめないこと。今日(2025年2月9日付け)の東京新聞のALS支援の記事にあったことばなのですが、巨大な壁に対する方法は同じで、これを灯に進むしかないのでしょう。

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二度目のロンドン65 ハロッズ① まるでテーマパーク

2025-02-02 11:55:36 | Weblog
ロンドンの老舗高級百貨店ハロッズの中央エレベータホールの最上階。写真では切れてしまったが、天井画は、深い紺地に金の太陽やら光線が立体的に貼り付けれたエジプト文明らしい太陽信仰的な造形となっており、全体を圧している。

【古代エジプトに染まる】
地下鉄ナイツブリッジ駅近くにあるロンドンの老舗百貨店ハロッズ。エジプト人がオーナーだったことは知っていましたが、実際に行くと予想以上にエジプト色が強くかった。

まるでテーマパークです。

中央エレベータからに向かうと、ツタンカーメンの黄金のマスクらしき、金に青の色彩の入ったモニュメントが上層階から見下ろし、その胴体はスフィンクスというお姿が目に飛び込みます。
 
その周囲はまるで王家の谷かピラミッドの内部のような石造りを模倣し、雰囲気よくオレンジの間接照明に照らされた壁画や柱の数々。この雰囲気が下層階から上層階まで途切れなく続くのです。

 世界的ファッションブランドがずらりとならぶ売り場も容赦なくエジプト文明とコラボ。なかなかの迫力で、壁からも目が離せません。


 ハロッズの歴史は近代ロンドンの歴史でもあります。もとは食品雑貨店。1834年にはハロッド氏が紅茶に特別な興味を示して今日のハロッズの元となる店を開業。
 さらに2年後のロンドン万国博覧会をにらんで、1849年に現在の場所に店を移し、徐々に百貨店としての頭角を現していったそう。そうして王室御用達にもなったのでした(現在は御用達ではない。ウィキペディア「ハロッズ」およびハロッズのホームページより)

 だから、紅茶は特別においしいし、ハイドパークのなかでもロンドン万博の遺跡のような建物のオンパレードのような場所に近かった、というわけです。
エジプト色が強いのは1985年から2010年までエジプト出身のファイド兄弟が所有していたため。(現在はカタールの政府系投資ファンドであるカタール・ホールディングスが所有。)
 ちなみにアル・ファイド氏の長男ドディーの名はある一定以上の年齢の方はご記憶にあることでしょう。1998年の自動車事故でダイアナ元妃とともにお亡くなりになりました。その事件をきっかけに王室とは亀裂が入り、以来、王室御用達を拒んだ経緯が今も尾を引いているのです。

 それにしても2020年夏にハロッズを訪れたときはカタール系の所有だったとは! 大英博物館の目玉の一つがピラミッドからの出土物なのでエジプト文明はイギリスとのなじみがよく、ある意味、広義のイギリス的といえなくもないのかも。ちょっと苦しいけど。
(つづく)
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二度目のロンドン64 袖振り合うも他生の縁

2025-01-26 14:10:27 | Weblog
ハイドパーク南側にあるエリザベスゲートを出て、少し南にいくと、地下鉄ナイツブリッジ駅があり、ハロッズがすぐそばにある。その間を埋めるかのように続くスロン・ストリートとその路地裏には高級ブランドショップから小さなパブやショップまでが密に軒を連ねる。のどやかさの漂うノッティングヒルとは違った景色が広がっていた。
写真は、その路地裏にあるパブにて。

【隣人との軽やかなコミュニケーション】
当ブログの二度目のロンドン58でも少し触れましたが(https://blog.goo.ne.jp/madoka1994/e/f73a914a8cbbc90c644cefb69035104b)ビクトリア公園から148番バスで帰宅しようとしたときのこと。なぜか、途中で道が片側封鎖の憂き目にあい、あらぬ方向で降ろされてしまいました。そして別のバスに集団で乗り換えました。

いつものことなのか慌てる客は一人もおらず。後ろの席のコロンビア出身のおばさんとジャマイカ出身のおじさんの世間話が聞こえてきて楽しい時間を過ごせました。

内容は「どこ出身なの?」という会話なのですが
(別のバスに乗ったときも、乗り合わせた隣同士で「Where are you from?」とやっていたので、そういうお国柄なのか?)
その会話の弾み方がすごい。
ファミリーヒストリーをお互いに話しはじめ、最後には意気投合。まるでセッションのようなリズムでした。

音楽ってこうやって生まれるのかもしれないな、などと思いつつ、数日後に行ったノッティングヒルズのポートベロー道路沿いに繰り広げられるフェステバル北側の最終地。音楽会場に、なんと、あのバスでお目にかかったジャマイカのおじさんがいたのです。ほんもののミュージシャンで、たゆたうようなレゲエを披露していました。

音楽の生まれる街! ちょっと雰囲気的には吉祥寺などの中央線界隈の匂いがします。



 そこからバスで南下。ケンジントン宮殿脇のヴィクトリア時代の風情の薫るブティック通りを横目でみて、ハロッズ周辺の入り組んだ路地裏に行きました。

パブが立ち並ぶ一角でフライドポテトとコロッケと牛肉のワイン煮と黒ビールを注文。シェアハウス近くのいつものパブより、値段も高く、メニューも張り込んだわりには、ぼやけた味で、ビールで流し込む感じとなりました。

でも場所がいいのか、雰囲気がいいのかお客さんでほぼ満席です。店内も古くからのパブのしつらえが残っていて雰囲気は重厚。犬連れで散歩中に立ち寄った方も複数いました。

ワンちゃんかわいいな、と、目を細めていたら、隣に座って食事をされていた常連らしきおばさまが、私に向かって軽やかに

「エンジョイ!」

と声をかけて立ち去っていきました。

びっくりしました。
一陣の風が通り過ぎていくようなさわやかさ。こういう心遣いは、沁みます。

見ず知らずのお隣さんに気軽に声をかけるフレンドリーさとあたたかな気遣い。島国にたくさんの民族の攻防があったからこそ生まれた文化なのでしょうか? いや、昔の日本もそうだった? 
 ともかく、ごく普通の人々のこういうなにげないふるまいに気品を感じました。
(つづく)
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二度目のロンドン63 ウェストエンドでミュージカル

2025-01-19 12:29:49 | Weblog

平日午後2時半にミュージカル「屋根の上のバイオリン弾き」を見に行きました。日本ではミュージカルの舞台は数回、見た程度で、どちらかというと歌舞伎などが好きなのですが、やはり本場のものは本場で見てみたい。

ウエストエンドの片隅、チャリングクロス駅のほど近く、すぐ横にはテムズ河が流れ、歩行者専用のハンガーフォード橋がかかるいかにもロンドン、という場所にありました。プレイハウス劇場(THE PLAYHOUSE)です。

ここでは初演より演出を替えての再演をかけることが多いらしく、現在は映画にもなった「キャバレー」が上演されています。これが特別なのではなく、ウェストエンドでかかっている舞台は「オペラ座の怪人」「レ・ミゼラブル」「マンマ・ミーア」など一度は映画でもみたものがほとんど。シェイクスピア劇も何度も何度も再演され、黒澤明監督が演出すると「マクベス」が「蜘蛛巣城」という、戦国時代の武将の話になるように、演出の妙を楽しむのも舞台のだいご味なのでしょう。

有名ミュージカルなら英語がわからなくても、筋が追える安心感があります。といっても、わかっているのは家人で、私の知識はユダヤ人一家のなにかの話、昔、森繁久彌さんが長らく演じていたミュージカル、という程度。
開場とともに入ると二階席の、滑り落ちそうな階段上の席でした。始まる前から客席は薄暗く、足元がおぼつかなかったのですが、開演前のピリピリとした緊張は伝わってきました。

いざはじまると、姉妹たちと頑固で愛情あふれる父、やさしくしっかり者の母、と土台がしっかりしていたので、英語はほどほどでもすっと世界に入っていくことができました。

かつて日本のミュージカルで感じた気恥ずかしさや、無理な発声がなく、動作も自然で納得できました。小さな劇場とはいえ、かなり舞台からは遠かったのですが、没入感があったのは、役者と演出の妙でしょうか?

ただ、私と同じように観光客らしき人が、元々は私の後方の席だったのに、途中から私の前の空いている席に移動してきて、とても見ずらくなってしまったのは残念。日本でも、こういうことはたまにありそうですが、落ち着きのなさがすごすぎた!

舞台はガーディアン紙で最高の5つ星の評価だったそう。舞台もほのかな明かりで私ごのみ(目にやさしい)。劇場はというと値段がちょっとお高くなるアッパー席はガラガラ。一方でお値段お安めの席はほぼ満席。つまり私の前に来た人は、安い席から高い席に、勝手に移動した、というわけです。

あと演者の声をマイク越しではなく、地声で聞けたらなおうれしい。小さい劇場でも、難しいのでしょうか?
帰りはテムズ河沿いに歩いてビクトリア公園へ。ロンドンは緑深い公園がそこら中にあって、散歩したくなるのです。

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二度目のロンドン62  まぼろしのワゴン

2025-01-12 14:32:50 | Weblog
ソーホー地区にある「辻利茶舗」。日本の抹茶は世界でも人気。そのさきがけの店ともいえる。2016年4月に同地に開業し、2019年時点でも賑わっていた。現在は、ロンドンに2店舗ある。
 ちなみに「辻利」はもともと京都の宇治の創業だが、全国にのれんわけが進み、それぞれが別会社として経営されている。こちらの店舗は北九州市小倉市の抹茶専門店。上海、シンガポール、カナダ、インドネシアなど和カフェをベースに世界展開を図っている。
参考:https://www.tsujiri.co.uk/location
   https://kokura.keizai.biz/headline/1555

【言葉いらずで好きなものを】
 1990年8月末に降り立ったロンドンで
 添乗員さんが

「ロンドンでおいしいもの、ってここよ」

といって、連れて行ってくれたのが、ソーホーにある飲茶(ヤムチャ)の店でした。
 薄暗がりの広々とした店内にたくさんの円卓が並び、ほぼ満席。我々もその一角を占め、頻繁に店内を中国人ウエートレスの運ぶステンレスのワゴンがまわっています。テーブルの近くにきたときに、ちらりと見ては、気に入ったお皿を指さすだけで、どんどん食べたいものが食べられる。しかもアツアツ、ホカホカ。
 気分は爆上がりでした。

 はじめての自腹の海外で、大学生だった私は、ヨーロッパの、首都のロンドンで中華料理、という取り合わせに目を白黒させ、そのおいしさとエキゾチックな雰囲気に酔い知れました。添乗員さんにひたすら感謝した、50日にも及ぶヨーロッパ旅行最後の日の晩餐でした。

それから四半世紀ぶりにソーホー地区を再訪しました。

土曜の夕方のチャイナタウンは、もうすごい人です。さまざまな人種が入り乱れるなか、当時のうすーい記憶を頼りに店を探したのですが、やはりわからず。唯一ワゴンサービスをしている、という「新世界大酒家New World Chinese Restaurant」は、つい最近、閉場した、と張り紙があり、工事中(現在、ウェブで調べると、やはり閉店していました。)

 そこで、ワゴンサービスはないけれど、2018年にミシュランガイドに掲載され、トリップアドバイザーなどのステッカーが誇らしげに貼ってある「Beijing Dumpling」(意味:北京・小麦粉の皮で包んだもの)で蒸し物などを食べました。かなりの賑わいで小籠包などが飛ぶように売れていました。

ワゴンサービスは、横浜中華街では健在ですが、「回転ずし」ですら回転せずにタッチパネルで注文が主流の現在では、もはや古き良き、なのでしょう。コロナ禍も経て、少しでも人の手を経ないマナーおよびフードロスの観点からも消えゆく伝統なのかもしれません。
                        (つづく)

※年が明けまして、はじめての更新です。今年もよろしくおねがいします。
私の周りでも、ここ数十年、まったく平熱だった人までもがインフルエンザなど、呼吸器系疾患にかかっています。どうぞ、お気をつけてお過ごしください。かかってしまった方は、医療機関にかかると治りが早いように思います。お大事にされてください。(医療なしでがんばると、たいへんです。)


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二度目のロンドン61 紅茶天国

2024-12-22 15:47:52 | Weblog
写真はロンドンのトワイニング店、かと長らく思っていたが、この記事を書くにあたって調べると「TWG」という別の紅茶店だった。

【紅茶天国】
イギリス、といえば紅茶の国。『不思議の国のアリス』でもしょっちゅうティーパーティーが開かれています。そもそもイギリスが中国に戦争をしかけたアヘン戦争のきっかけは「紅茶」でした。
そのような歴史をもつ国なので、ロンドンには世界的に名の通った紅茶専門店が集中しています。

ロンドンにはじめて行ったときには、ツアーの添乗員さんに、たしかフォートナム&メイスン(Fortnum & Mason )に導かれ、古風な出窓のある空間でさくさくアツアツのスコーンにたっぷりとクリームとジャムをお供に、アフタヌーンティーを楽しみました。ホイップクリームが苦手な私がするすると食べられることに驚いたものです。

さて、今回。ナショナルギャラリー前のトラファルガー広場近くには立派なガラス張りの紅茶専門店「TWG」がありました。トワイニング(TWININNGS)の本店なのかしら? 周囲に漂う高雅な香りに導かれ、高級ブティックのように敷居の高そうな、ピシッとした黒めの服装の従業員の目線に怖気づかないように足を踏み入れると、まるで紅茶博物館。
 世界各地の紅茶が、天井までそびえたっています。茶葉が見えるようにビーカーに入っていたり、おしゃれなお茶缶に入っていたり、はたまた日本でもおなじみのお歳暮にそのまま使えそうな色とりどりのティーバックで箱付めされていたり。

セイロンティーもあれば雲南ティーもありました。

しかも雲南ではなじみがあっても、中国規模となるとちゃんとしたお茶専門店でしかお目にかかれない、雲南ティーの茶葉を固めて直径25センチほどの円盤状や四角い盾のように固めた「雲南七子餅茶」までありました。立派な額には入ってはいましたが、ちゃんと売り物として。(これは正確にはプーアル茶です。それほど幅広い品ぞろえなのです)

ただ値段はお高めで、手が出ませんでした。そしてトワイニングと長らく思っていたお店。今回、この記事を書くにあたり、改めて調べると、トワイニング本店はテムズ河方面にあり、この店はシンガポールの「TWG」という別会社でした。ロンドンのこの店舗は2018年5月にオープンしたもので、2008年創業のシンガポールの紅茶専門店です。
(参考 https://ameblo.jp/sucre163/entry-12376179895.html。
高島屋でも販売されていました。)

ともかくロンドンでは紅茶専門店が各所にあるのでその後も、見つけると入っては買っていました。有名店の個包装タイプのティーパックは、なぜかクイーンズウェイ周辺のスーパーマーケットではお目にかかれず。多くは茶葉をスプーンで量って入れるタイプでした。日本では緑茶やほうじ茶を急須で入れている私にとっては、たしかに紅茶をポットで入れる方が普及しているのは、納得です。

【ミルクティーならハロッズ】
私の好みはミルクティー。そして面倒くさがりのためティーパックが好き。さらに貧乏性なのか一つのティーパックで一日中、入れ続けてしまう。

そんな私が一番、気に入ったのはハロッズ(Harrods)でした。

 数種類、購入したのですが、いずれも何杯入れても味わいにぶれがでず、ふくらみのある香りが続きます。とくにハロッズ定番のイングリッシュブレックファスト(№14)は、ミルクティーとして最高の味で、大事に大事に日本に帰ってからも飲んでいました。

そして日本でも探し求めました。すぐに手に入ると簡単に考えていたのです。でもトワイニングやフォートナム&メイスンは日本でも売っているのに日本ではたとえ、紅茶の品揃えのいい高級食料品店で探したとしてもハロッズはみつからないのです。Amazonなどでは、イギリスから直接、買う並行輸入品はあるものの、やっぱり送料などを考えると・・。

今、日本で入手できないので、最後のハロッズ№14の個包装1つを宝物として密閉容器に保存したままです。飲みたいけど、もったいなくて飲めない。お気に入りが見つかるというのは、ある意味、煩悩です。

                          (つづく)

※今年も早いもので年末となりました。一年間、お読みくださり、ありがとうございました。激動、激変の時代に気持ちが浮き立ちそうになりますが、そういうときこそ、ゆったりとした時のはざまや身近に目をこらしたいものです。
みなさまにとって、よいお年をお迎えください。
 来年は1月12日の更新の予定です。

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二度目のロンドン60 たっぷりゆったりナショナルギャラリー②

2024-12-15 11:16:06 | Weblog
写真はナショナルギャラリーの前のトラファルガー広場にそびえ立つネルソン像を上部にいただくネルソン記念柱。

【ひそやかなるフェルメール】
静かで小さく暗い部屋に、フェルメールの絵画が2点、置かれていました(16号室)。《ヴァージナル前に座る若い女性》と《ヴァージナル前に立つ女》でした。日本でフェルメール作品を見るには、たいてい人の頭の向こうを仰ぎみる感じなので実に贅沢な空間です。その人気のなさに軽い驚きすらありました(国立西洋美術館のフェルメール作品は真贋論争があるので、ひとまず除外。)

 この部屋が小さく、しかも迷路の袋小路のような場所にあるので、気付きにくいからかもしれません。もしかすると、そおっと見てほしい、という、ナショナルギャラリーの意図が反映されているのかもしれません。

ほかにも充実したオランダ絵画には目を見張りました。オランダで各所めぐって、ようやく見られたいろいろな時代、傾向の絵が一同にぎゅっと集まっている感じです。レンブラントは本国よりレベルが上の作品かも、とおもうほどの迫真の絵の数々。実際にそうかといわれるとわかりませんが、展示されているだけでも18作品以上。たたみかけるような展示枚数に圧倒されるのです。

【エキセントリックな筆致が迫る】
またヤン・ヴァン・アイク、ルーベンスなどなど。
ゴッホの絵はオランダ絵画の間ではなく43号室にありました。「ファン・ゴッホの椅子」「ひまわり」など、荒々しいタッチをじっくり鑑賞できます。
 ガラスでおおわれている、ということもないので、絵に没入できるのです。筆のタッチが直接、迫ってくる感じ。ゴッホの椅子の絵や森の力強いタッチ、カニの荒々しさなどみていると、私が高校の美術の時間に描いていたタッチに似ている、なんて錯覚も。少し、落ち着かず普通ではない、エキセントリックな感じ。とにかく間近に感じられて、想像がふくらみます。

 質、量ともにすごいコレクション。効率よく見て回るガイド情報もネットにあふれていますが、気の向くままに散歩して、虚心坦懐にみてまわるのも楽しい美術館です。

外に出ると、雨はすっかりやんでいて、青空にネルソン提督の下の噴水周りや日本橋三越のライオン像のモデルとなったライオン像に憩う人々でにぎわっていました。
          (つづく)
※次回はナショナルギャラリー周辺です。
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二度目のロンドン59 たっぷりゆったりナショナルギャラリー①

2024-12-08 11:46:20 | Weblog
ナショナルギャラリーにて。美術の教科書に出てくる名画と、その解説板がずらりと並んでいた。

【行かなきゃ損のコレクション】
ロンドンは一年中、雨が多いとあって、どしゃぶりの中、トラファルガー広場に降り立つと、すでにカラフルな雨具の人でいっぱいでした。まるで雨などないかのように雨具なしで歩く人もいるのは、ロンドンっ子あるある?

広場の中心にそびえ立つネルソン提督の記念碑から東が高い丘、西が下町と街の色合いがくっきりと分かれている印象です。その東側にあるすり鉢状に広がりを見せる急な階段を登ったところがナショナルギャラリー(国立美術館)。ギャラリーは東側の富裕層が住むウェストエンドのヘリにあたっているのです。

開館時間の10時ぴったりに荷物検査を済ませると、広びろとした天井に明るい照明があたるなか、整然と絵画が並ぶ展示空間が始まりました。

これだけ名画だらけの有名な美術館(2300点以上。分館含めると3000点)なのに、大英博物館と同じく入場無料。寄付を受け付ける箱が入口各所に置かれているだけの奥ゆかしさ。チケットを払うゲートがまったくない。あらためてイギリスの寄付文化に敬意を表したくなります。ロンドンのあらゆる場所で感じるこの文化。ロンドンオリンピックがボランティア主体で成功したのは、このお国柄のおかげだと、納得です。

コレクションは1800年代前半から1930年代までに寄贈、もしくは買い集めたものが多くを占めています。

イタリアのルネサンス期の宗教画が多く、ミケランジェロの描きかけの素描、レオナルド・ダヴィンチの油彩や素描も当たり前のように壁にかかっています。

部屋をまたぐと時代は飛んで、モネの「スイレンの池」(41号室)。この池に橋が描かれた風景画の前ではカメラを構える人が順番まちをしていました。さほど大きくもなく、派手さもない一枚なのですが、こってりした人物がどこにもいない、繊細な色調の、やさしくふんわりとした絵画に、欧米の人も惹かれるのだなあ、と実感。私もお気に入りの一枚となりました。いまは、スマホの待ち受け画面となっています。

絵画は部屋ごとに年代別に並んでいるのですが、名品ぞろいすぎて、一つの絵に没入してしまい、次の絵画にうつると、テーマが全然違っていて、気持ちがあちこちに飛んでしまうという気持ちのハレーションがおきてしまい、なかなかたいへんでした。
                            (つづく)
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二度目のロンドン58 ポートベローのサマーフェス(ノッティングヒルのフリーマーケット)2

2024-12-01 11:57:32 | Weblog
写真は、アックラム・ビレッジ・マーケットのパエリア。6枚の大きなパエリア鍋に、少しずつ具材の異なったパエリアがぐつぐつと煮込まれていた。プロパンのガスボンベまで鮮やかな赤色をしていて、祭りと一体化していた。

【国際ストリートフード】
 ポートベロー通りをさらに進むと、南欧や中東やアフリカからの人たちによる屋台市が出現しました。トマトベースでぐつぐつ煮込み中のパエリアから、中東系の各種サラダ、ビーガン料理、アフリカ系のにぎやかな色のついた木製の小物などなど。

「アックラム・ビレッジ・マーケット(Acklam Village Market) インターナショナル・ストリート・フード」(国際屋台めし)と銘打たれていて、飛び入り参加も可能なライブパフォーマンスも繰り広げられています。

まるで日本の昔なつかしい神社のお祭りのような既視感。大人たちにまじって中学生くらいの子たちが、近所の祭りの縁日を楽しんでいる様子でわきあいあいと買い食いに興じていました。

さきほどのフリマとはずいぶんと雰囲気は違いますが、同じ通りなのです。ぎゅっと詰まった感じも、ロンドンの一面なのでしょう。

 そういえば、このあたりのバスに乗ると、アフリカ系の方々をよく見ました。同じアフリカ系の人とたまたま隣りに座ったという二人の会話が、抑揚ある発音とリズムとうねりがあって何かの歌のよう。

「どこからきたの?」
「今日も渋滞しているね」
 というなんてことない会話なのですが、BBC放送で流れるイギリス英語とはだいぶ違っていました。ミュージシャンなのかもしれません。

 ロンドンは、どの地域でも高級住宅街と公共住宅エリアが道一本隔てて近接した街づくりとなっているそうなので、お祭りも重層的なのかもしれません。いまや日本も国際的になっているので、神社の屋台もそうなっていくのかもしれません。

ちなみに、この国際屋台村の先にも、古着などのマーケットは続いていました。ポートベローマーケットはロンドン最大、というのはこの距離もあるのでしょう。

【ポートベローマーケットの歴史】
 ポートベローのマーケットは、1865年から続いていて、すでに160年の歴史があるそう。 ちょうどポートベロー通りがノッティングヒルとパディントンの大規模新興住宅地開発地区を結ぶ通りとして、農村から変貌をしていき、1864年に通りの北端に鉄道が通り、ラドブロークグローブ駅が開業した同年、ポートベロー農場が修道女たちに売却されました。
そのようにして出来上がった通りで、イの一番に始まったのがポートベローマーケットなんですね。
参考:Portobello Road - Wikipedia

※現在の状況をネットで見ると、土曜日は「アートマーケット」として、若者が描く絵画も含めた骨董市を開いているようです。日曜日に現在、行われているかは確認してからお出かけください。
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二度目のロンドン57 ポートベローのサマーフェス(ノッティングヒルのフリーマーケット)1

2024-11-24 14:47:52 | Weblog
写真はノッティングヒルの高級住宅地の人だけが入れる共有庭園に貼られていたポートベローサマーフェステバルについての張り紙。大勢の人が訪れることを警戒して「あなたの安全のために抜き打ちで荷物検査を行うことがあります」と書かれている。祭りのにぎわいと治安とのバランスは高級住宅地ならより一層、悩ましい問題なのだろう。

【ポートベロー通りのマーケット】

「二度目のイギリス⑦」の回で触れていたhttps://blog.goo.ne.jp/madoka1994/e/c850579c776c2263ddaa186d73212631でポスターにあったノッティングヒルの青空マーケットに行きました。

 ガイドブックによると、ロンドン各所で行われている青空マーケットのなかでも最大クラス。とくに骨董市が立つ土曜日は2000以上の店がひしめき合い、身動きが取れないほど、とのこと。でも今回でかけたのは通常の土曜日ではなく、ポスターにあった2019年7月21日の日曜日の「ポートベローサマーフェスティバル2019」です。

 10時半ごろに家のあるベイズウオーターからノッティングヒルエリアを目指して歩きます。どこまで行っても静かな日曜の朝です。あれ、おかしいな、と惑いつつ地下鉄ノッティングヒルゲート駅まできたとたんに雰囲気がいっぺん、同じ方向に向かう人々でいっぱいになりました。

 いずれもわくわくした足取りで、確信に満ちています。駅から10分ほどの距離をその人たちに付いていくと、にぎやかなマーケットが見えてきました。

 街区の中心から周辺へと同心円状に描かれた道路の一つであるポートベロー(Portobello Road)通りに沿って小さな露店が約1キロにわたってひしめき合っています。道がもともともっている歴史的な風貌とよくマッチしていて、予想通りおしゃれな雰囲気です。家にあった古本から、使い込まれたさまざまな洋食器、絵はがきに古着、手作りのアクセサリーなどなど。店先を見ていると、出店者の好みがくっきりと見えてきて楽しい。

【透かし模様だった!】

洋食器を並べた台をじっくりと見て

「これ、さわっていい?」

と台の後ろに立つ、抜けるように白い肌にクリンクリンの豊かな金髪の若い女性たずねると

「どうぞ。この食器はおばさんが使っていたの。ずいぶん前のものらしいわ。」

と、一つひとつ丁寧に説明してくれました。この日曜日は近所の人たちのガラクタ市的性格だとポスターに書かれていた通りでした。

 家から持ち運んだだけ、といわんばかりに、どの品も、もうちょっと磨きこめばいいのに、と心配になるほどの状態。触れると手にほこりはつくし、優雅な模様のへこみには長い年月による黒ずみが入り込んで模様を色付けしています。
 白地に細かく植物紋の透かしが入った上品な平皿が気に入りました。皿をひっくり返すと「Wedgwood」の文字。ブランド品です。でも本来なら、より豪華にみせていたであろう縁に描かれた銀色は、ところどころ剥げ落ちていました。

 値段交渉するまでもなく

「2ポンドでどう?」

 というので、即決。娘のみやげにしました。

 帰国後、買ったお皿を丁寧に洗剤に付けて洗ったら、あら不思議。灰色の植物文様と思っていたものは、透明の透かし彫りに変身。



もともと高級住宅地にある立地なので、近所の人が主体のマーケットは、なかなかに掘り出し物があふれていました。

※参考
Events — Portobello Road Market

                              (つづく)
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二度目のロンドン56 おもむきのあるソールズベリー大聖堂④

2024-11-17 14:55:08 | Weblog
【世界最古の現役時計】
もう一つの目玉が現役で時を刻む世界最古の機械式時計です。1386年に製作され、いつの間にか放置されました。復活したのは20世紀になってから。

1928年に「時計学」マニアのT. R. ロビンソンに発見され、1956年に修理されて再稼働しました。高さ1.24m、 幅は 1.29 m、奥行は 1.06 mと大きなもの。現代人が思い描く、時計盤があって、時間が即座にわかるものというものではなく、、時間が来たら鐘がなる、という仕組みのものです。

だから、大聖堂の片隅にあるこの時計の前に来た人は、たいてい、ふわーっとみて写真をとって、それから首をかしげて、スーッと立ち去る、という動き方が続いていて、廊下でぼーっとみていて、ちょっとおかしかったです。

http://asait.world.coocan.jp/kuiper_belt/time/salisbury_cathedral_clock.htm


【どの角度からも大聖堂が見えて迷うことなし】
大聖堂が現在の地に移転するとともに街も徐々にここに移転しただけあって、大聖堂の周りは中世から抜けでたような街並みが続いています。そして寒い私を暖めてくれる服も売っていました。
 山用品のコーナーには、セールの札が下がっていて、必要に迫られて深く吟味せずにくしゃくしゃのジャンバーを買って帰ったのですが、これがすぐれものでした。イギリスで購入した服は、いずれも日本に帰ってからちょっとおしゃれで、品があって、素材もよく、たいへん重宝しております。

安く買ったものほどその傾向が強く、元値が高くてうんと値下げされていても、そもそも高い製品の服は、いまではタンスのこやしに。普段使いのものがいいようです。

製品はメイドイン「チャイナ」が圧倒的に多かったのですが、デザインや目利きのこだわりがどんな格安製品にも平等に働いているのでしょう。

このようにステキなお店がかわいらしい風情で並んでいました。街には水路が多く、いずれもゆったりと流れています。緑はあくまで濃く、湿度もたっぷりでとても趣きがある街。どこを歩いても聖堂が見下ろしているので、迷うこともありません。そして聖堂から10分も歩くとソールズベリー駅。歩いて楽しい散歩の街でした。

【ロンドンから交通至便】
これだけいろいろ楽しんで夕方に電車に乗ると夕飯にはロンドンに戻れるという距離感もまた魅力的です。でも、いつか『日の名残り』の主人公のように、この街に泊まって、もっとゆっくりと時を過ごしてみたい。
 そんな魅力にあふれていました。
(ソールズベリーの章、おわり)
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二度目のロンドン55 おもむきのあるソールズベリー大聖堂③

2024-11-10 16:20:56 | Weblog
写真はソールズベリー大聖堂にあるマグナカルタが置かれた小部屋。大英図書館で「原本」をみた知人は、ソールズベリー大聖堂にあるのはレプリカか、それに準じたものだと勘違いしていた。


【4つの原本】
ソールズベリー大聖堂の目玉の一つが、「マグナカルタ」の原本の展示です。現在、4つの原本があるなかでもっとも保存状態がいいもの、とのこと。

現物を見ながら口々に「これがマグナカルタね」と興奮気味に話している金髪の方々を見たので、つい私も「これが世界に存在している唯一の原本なんだ」と感激していたのですが、よく考えると原本が4つ、というのは、不思議です。

調べてみるとマグナカルタはラテン語の「文書」で、1215年、1216、1217、1225年の4回にわたって、少しずつ内容が変更されながら写本されイングランド各州に配布されました。そのうちの1215年のものを「原本」と呼び、当時、13種の「原文」をつくって国中に送ったなか、現存するのが4つだけになったということでした。一つはここ、もう一つがリンカン大聖堂、あとの二つが大英図書館(一つはカンタベリ大聖堂にあったものを収蔵)にあります。

参考文献 朝治啓三:講演:デイヴィッド・カーペンター「マグナ・カルタ―その歴史的意義,新視角,新史料」及び,セミナー「ヘンリ世治世 1216-1272年」―翻訳と解釈 file:///C:/Users/madok/Downloads/KU-1100-20190318-02.pdf
關西大學『文學論集』第68巻第号

※つい最近まで30度以上の気温が連呼されていたのに、いまや10度以下、場所によってはもっと低い気温になる今日この頃。一昔前の日中18度なら「ちょうどいい」か「ちょっと涼しい」くらいだったはずなのに、35度以上に耐えていた身体にとっては、急に20度ほどの気温差でびっくり。
 以前とは違う激変気候に身体は気づいていたのに、頭が気づかず風邪を引いてしまいました。
 症状は一瞬39度をかすめ、以降は平熱になるも、咳が出て、声が出ない。これがしつこい。
みなさまも、あたたかくしてお過ごしください。
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二度目のロンドン54 おもむきのあるソールズベリー大聖堂②

2024-11-03 15:21:12 | Weblog
ソールズベリー大聖堂では、不思議な彫刻がそこかしこに見られる。リアリティあふれる苦悶の表情を浮かべる男は何者? 少なくとも彫刻家の身近にモデルはいただろう。それが何を模していたのか…。

【大聖堂のお引越し】
ソールズベリー大聖堂には、聖堂の歴史が丁寧に解説されたパネルが展示されていました。それを読むと、「オールドセーラム」にあった大聖堂がこの地に移転した理由の一つには王と教会との対立があったようです。展示をヒントに歴史を調べるとおおよそは以下の通り。

プランタジネット朝のジョン王(在位1199年~1216年)はフランスとの戦に負け続け、さらに1209年には教皇から破門され(1213年には教皇からの要求を呑む形で破門を解かれる)弱り目に祟り目状態。さらに戦費調達を貴族らに強いたことから、貴族らが自らの権利を守るために1215年につくった「マグナカルタ(大憲章)」を受け入れる事態となりました
(国王の権利に制限を設けたことなどを定めた文書。のちに英国憲法のもっとも基本的な部分を担うものとなり、アメリカ合衆国憲法にも影響を与えました。私の個人的な思い出としては高校で世界史を学んだ時、意味はわからないけど印象的な単語の筆頭格でした)

そのころのオールドセーラムの司教リチャード・プーアは大聖堂の拡張を願ったものの、王は許可せず。そこで王を飛び越して教皇からの許可を取り付けて、ジョン王の次のヘンリー3世の時代に、プーア自身の領地に大聖堂を建てて移転したのです
(1220年より新大聖堂の基礎工事、開始。1226年に旧大聖堂は正式に解散。)

それにともなって、住民も新しい大聖堂のほうへと移動し、今日までソールズベリーの街として続いています。

もう一つの移転理由は、オールドセーラムが不便だったから。風が強く、深い井戸を掘らないと水も入手できない。さらに丘の上にある要塞なので街の拡張もできない。

「(オールドセーラムの」発掘調査で多数の井戸が発見されましたが(ノルマン砦内の井戸を含む)、それらが非常に深かったため、川から上って水を運ぶよりも使用が面倒であったことが示唆されています。」

Baldwin, R. (1774). A Description of that Admirable Structure, the Cathedral Church of Salisbury. London, GB. Retrieved 3 January 2015 – via Archive.org. SUBTITLE With the 
Chapels, Monuments, Grave-Stones, and their Inscriptions. To which is prefixed, an Account of Old Sarum(英語wikipedia「old sarum」より)

との発掘調査も。

そのほかにも、ウェストミンスター寺院(1245年~14世紀末)やリンカン大聖堂(1185年以降~1311年)などが同じ時期に再建設されているので、大聖堂建設ラッシュの時代だったともいえます。司教の力が強く、王の権限が制限されたことで、建設できるほどに安定した時代となったわけです。
                             (つづく)

参考資料:
朝治啓三:講演:デイヴィッド・カーペンター「マグナ・カルタ―その歴史的意義,新視角,新史料」及び,セミナー「ヘンリ世治世 1216-1272年」―翻訳と解釈 file:///C:/Users/madok/Downloads/KU-1100-20190318-02.pdf
關西大學『文學論集』第68巻第号

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二度目のロンドン53  おもむきのあるソールズベリー大聖堂①

2024-10-27 14:49:30 | Weblog
写真はソールズベリー大聖堂の外観。遠くからみると、さっぱりとした古風な教会に見えるが、近づくとさまざまな彫刻に彩られていた。

【『日の名残り』の象徴にも】
さて、オールドセーラムをへた先は、まるで中世。
緑したたる世界の中央には現在のイギリスの教会建築では最も高い123メートルの石造りの塔がそびえるソールズベリー大聖堂があります。

ゴシック建築らしく、こってりとした聖人の像が彫りこまれた正面、側面には軽やかな植物が生えたようなアーチ型回廊が続いていて荘厳そのもの。広々として薄暗い聖堂内の床は、この聖堂に限った話ではないのですが、多くの方々の墓石がはめ込まれていて、踏まないように歩こうとするのが困難なほど。

まあ床なのですから当然、踏んでもいいのですが、日本で育った私の身体が自然に忌避してしまう。欧米の観光客は普通に下を気にもせずに歩いている様子をみると、死体や死後の世界の考え方がずいぶん違うのだなあ、と思わずにはいられません(参考:上田信著『死体は誰のものか』ちくま新書、2019年)

この教会は、ヨーロッパの教会には珍しく主要な建物は38年で出来上がりました。十分長い年月のようにも感じますが
(日本では伊勢神宮が「式年遷宮」という20年に一度、建て替えることを考えると38年だと2クール目の準備に入っています!)、
短期間で完成したことが特徴の一つとされています。つまり様々な時代の建築様式が混在することなく統一感をもった聖堂となっているのです。

ソールズベリー大聖堂。

 ノーベル文学賞作家カズオ・イシグロの小説『日の名残り』では主人公の執事が最初にドライブで落ち着く場所がソールズベリーです。その場面では素朴な住民が大聖堂のある景色のよさを語っています。そしてくつろいだ雰囲気の中、主人公が散歩する街のどこからでもみえる、美しい夕日と印象的な尖塔。まさに題名を象徴するかのような重要な場面です。
 イギリス人にとっても納得のあこがれの地であり、建物なのでしょう。
                          (つづく)
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