雲南、見たり聞いたり感じたり

雲南が中心だった記事から、世界放浪へと拡大中

スペインとポルトガル18 日本にゆかりのある修道院2

2021-07-31 12:17:34 | Weblog
写真はデスカルサス レアレス修道院の外観。静かなたたずまいだ。

※今回は修道院内ツアーの模様です。
【いにしえよりある巨大な壁画とルーベンスの巨大なタペストリー】
建設当時の雰囲気を残す唯一の場所として案内されたのがルネサンス様式で作られた踊り場のある階段です。壁には17世紀に描かれたフレスコ画が3面にわたって描かれています。

この踊り場を抜けると、修道女が祈りをささげていた小部屋が中庭を向いて並んでいました。窓枠にはかわいい花柄の文様が彫りこまれ、カラフルに色づけられ、女性らしさがにじむ上品で清潔な空間が広がっていました。このあたりは18世紀に改築されたということです。

小部屋に入ることはできませんが、回廊から大きなエネラルドが目立つ十字架や金細工のカップなどが並ぶ様子が見え、スペインがかつて征服した南米の産物では、と興味を覚えます。

次に続き部屋の屋内に次々と案内されました。薄暗い、窓の隠された空間です。そこにはルーベンスが下絵を描き、ブリュッセルで織られたという大きなタペストリーが何枚も壁を覆いつくしていました。
 これらのタペストリーはスペイン黄金時代「太陽の沈まない国」の王フェリペ2世の娘でありネーデルラント総督であったイサベル・クララ・エウヘニア王女の命で作られたもの。彩色もよく残り、国宝級か、と思うほど。

 ほかにもティツィアーノ、ブリューゲルなどルネサンス期の絵画が盛りだくさん。あまりにたくさんの素晴らしい絵画が無造作に並んでいるので、ひょっとしてレプリカではないかと疑ったほどです。

この修道院はスペイン王の娘が開いた修道院で以後も王家の女性たちが身を寄せていたので、寄進の品も国宝級に豪華だったのでしょう。
(つづく・次回は日本とのつながりです)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スペインとポルトガル17 日本にゆかりのある修道院1

2021-07-25 11:58:49 | Weblog
デスカルサス・レアレス修道院の受付で売られていたスカーフ。イタリア製。肩にかけると二つ折りにしても膝までくる大判(70㎝×2m)でビスコース(日本で表示するときはレーヨンと書かれるもの)で10ユーロ(1000円ほど)。軽くて暖かい。この旅行ではほぼ毎日、巻いていた。日本では、同程度のものは通常10000円ほどする。

【デスカルサス・レアレス修道院1】
 さて、サン・イシドロ教会の次に行ったのはデスカルサス・レアレス修道院です。マヨール広場を抜けた先にある石造りの重厚な建物群で、旧市街の裏手のように感じるほど、他に店などのない静かな一角にありました。

道路脇の開け放した分厚い木の扉から入ると、すぐに受付です。

解説によると15世紀末から16世紀にかけて建てられたもの。レコンキスタを完成したカルロス1世とイザベラの娘フアナ王女(かなり悲劇的な王女)の子・カール5世(スペイン王としてはカルロス1世)の子供のフアナ王女により1559年に修道院として創設された王室ゆかりの場所。
(カール5世をはさんで母親と娘に同じ名前の王女がいるのでネットでの解説がかなり混乱していました。)
いまも修道女の祈りの場としてその時間になると使われているということですが、私が行ったときは修道女には出会いませんでした。

 建物の中に入るには修道院内のツアーに申し込まなければなりません。多くはスペイン語のツアーなのですが、15分後に英語のツアーがある、というのでラッキーでした。一人6ユーロ。学生割引なし。

 内部の写真撮影は一切禁止。待合室の重苦しい空気の中、雨傘の乾燥機だけがその空間から浮いていて可笑しい。

 ツアーが始まるまで(受付前にちょっぴりあるだけですが)グッズを見ていました。質のよいスカーフが近所の土産物屋や百貨店よりずいぶんと安い値段で売っていたので、おもわず買ってしまいました。ほかにも厳選した趣味のよいものが売られていて意外と穴場です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スペインとポルトガル16 グアダルーペのマリア3 コロンブスも祈る

2021-07-17 10:49:28 | Weblog
写真はメキシコシティ近郊のテぺヤクの丘に建つグアダルーペ寺院。1531年12月9日にインディオの人の前に聖母が現れ、この地に聖堂を建立するように告げたという。以後、メキシコの人々の心に深く根差している。
 2018年4月4日にBS2でマーロンブランド主演の映画『革命児サパタ』(1952年)を観ていたら、トップシーンでいきなりグアダルーペのマリアの絵を描いた旗を掲げた民衆が畑の中を行進する映像から始まっての銃撃戦で、くぎ付けになった。調べるとグアダルーペのマリアはメキシコ独立革命のシンボルともなっていた。サパタの軍はこの像を帽子につけていたそうだ。

【コロンブスとグアダルーペのマリア】
グアダルーペのマリアの考察ついでに、もう一つ、グアダルーペで調べると、出てくるのが島の名前です。

1492年、新大陸を「発見」したコロンブスはその後、同大陸への4度にわたる航海で、カリブ海に浮かぶいくつもの島に上陸します。その2度目の航海中の1943年11月に上陸したカリブ海の島々の一つにグアダルーペと名付けました。現在はフランス領で、グアドループと呼ばれていますが、綴りは同じ「Guadeloupe」。

コロンブスはたくさんの「発見」した島に名前を付けていますが、その多くは宗教的な名前でした。この島の名前も、まさにその流れにあります。グアダルーペのマリアは航海の神様でもあったのです。

ローマのグレゴリウス一世の命を受けて、セビリヤ出身のイシドロがローマからセビリアへ像を移送するとき大嵐に襲われました。その時、この像の庇護によって救われたという伝説があって、以来、船乗りの信仰が篤い聖像となりました。

 コロンブスも「新大陸」を発見した行きは幸運に恵まれて順風満帆でしたが、帰りの航海中の1493年2月13日夜に、これまでにない大嵐に見舞われ、最後を覚悟するほどの状況に陥りました。その時にまず祈ったのがグアダルーペのマリアです。
 航海から帰ったら
「(コロンブスが)この聖母マリアへ巡礼に赴いて、聖母に5リプラの大ろうそくを献じる者をくじで選び出すよう、そしてその選ばれし者が巡礼の誓を果たせるようにと一同が祈願することを命じた。」≪林屋永吉訳『コロンブス航海誌』(岩波文庫)≫

 そして、くじを引き当てたのがコロンブスでした。

 第一回の航海から帰った半年後に出航した第2回目の航海において、はじめて現地の人を見つけた島に「サンタ・マリア・デ・グアタルーペ」と名付けたのです。1493年11月4日のことでした。

 中国の媽祖といい、航海の神様は女性が多いですね。おそらく船乗りが男の世界ということの裏返しなのでしょう。

参考資料
林屋永吉訳『コロンブス航海誌』(岩波文庫)1977年
青木康征著『コロンブス 大航海時代の起業家』(中公新書)1989年
グアドループ - Wikipedia
https://world-note.com/christopher-columbus/
グアダルーペ (スペイン) - Wikipedia
(「サンイシドロ教会」編 おわり)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スペインとポルトガル15  サン・イシドロ教会(グアダルーペのマリア2)

2021-07-11 11:39:40 | Weblog

写真上の金色の輝きを放つなかに収まっているのがサンイシドロ教会のマリア像の一つ。写真下がメキシコシティのグアダルーペ教会に安置されているグアダルーペのマリア像。
サンイシドロ教会で前回、地元の高齢な女性が祈っていたマリア像のある一角は他とあまりに雰囲気が違っていて写真には収められなかった。それこそ、地味でメキシコで見た像に似ていたと感じたのだが。

※外国で名所めぐりをすると教会に行く機会が増えます。今回は日本で教会にほとんど行ったことがない私が感じた素朴な疑問から。

【グアダルーペのマリア】
 なぜマドリードのイシドロ教会とメキシコで見たグアダルーペのマリアに似ている、と思うのかを真面目に考えてみました。

ウィキペディアのグアダルーペ(スペイン)の項を見ると、

「もともとグアダルーペのマリアは、『ルカの福音書』の著者とされるルカが彫った彫像でその像はルカとともに埋葬された。4世紀に掘り起こし、コンスタンティノープルに移送。それをローマのグレゴリウス一世が礼拝堂を作って納め、ローマにペストが流行したときにはその像にも祈った。そしてペストの大流行が治まったのちに、セビリアの大司教レアンドロにこの彫像を送った。その時移送を行ったのが、修道士イシドロだった。」

その後、その像は数奇な運命をたどります。

「セビリアが714年にイスラム教徒に侵攻され、聖職者らがこの像も持って北へ逃げた。途中、エストレマドゥーラ州の川岸に埋めた。グアダルーペとは『隠された川』を意味する。
 時が経ち、14世紀前半ごろに羊飼いがお告げを聞いて掘り起こすと、この像が現れた。それを祀る修道院が建てられ、一時は町の名前もグアダルーペと名付けられた。」

 この解説を読むと、もともと彫像には「グアダルーペの聖母」という名前はついていなかったこと、またこの像を2度も「掘り起こして発見」していることに気づきます。

 掘り起こす話は眉につばを付ける必要がありそう。その部分の真偽はともかく「グアダルーペのマリア」をイシドロがローマからセビリアに運んだくだりは動かしようがなさそうです。

「それで教会に祀られていたんだ」と合点しそうになって、さらに調べると、同じイシドロでも違う人だとわかりました。

セビリアに運んだイシドロは560年ごろに生まれたセビリア生まれの神学者。ウィキペディアでは「イシドールス」(スペイン語: San Isidoro de Sevilla、ラテン語: Isidorus Hispalensis )という名で登録されています。この話に出てくるセビリアの大司教のレアンドロはイシドロのお兄さん。一方でマドリードのイシドロ教会に祀られているのは1070年にマドリードの生まれた農夫でした。

 またサン・イシドロ教会のホームページを見ると、私がメキシコでみたグアダルーペのマリアにそっくり、と思った像は17,8世紀に作られたマリア像らしく、その写真の下には「天国には大きなしるしが現れました。太陽をまとった女性、足の下に月があり、頭には12個の星の冠があります。」App.12.1
と書かれています。

上記の文言はまさにメキシコで見た像と一致します。この姿は「無原罪のマリア」と呼ばれる、一般的な図像の姿なのだそう。つまり、スペインで祀られるマリア像の形態の一つがメキシコであがめられるようになったということなのでしょう。

イシドロの妻も祀られていて、その名もマリア、そしてキリストの母・マリア。ともかく、この教会にはマリア像がほかにもたくさんあって、大切にされていました。
(つづく)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スペインとポルトガル14 褐色のマドンナ・グアダルーペのマリア1

2021-07-04 10:26:52 | Weblog
写真はサン・イシドロ教会。正式名はサンイシドロの王立大学教会。教会の入口には学校の課外授業なのか、たくさんの学生がたむろしていた。
≪最後にマドリードの中心部にある大航海時代関連の施設の見学を。

【サン・イシドロ教会】
 まずはサン・イシドロ教会。17世紀前半にイエズス会が最初にスペインに建てた教会です(日本で最初にキリスト教を布教した人として学校の教科書に登場するフランシスコ・ザビエルはイエズス会の創立者の一人です。インパクトのある肖像画で覚えておられる方も多いでしょう)。
 18世紀後半にスペインからイエズス会が追放された後にはマドリードの守護聖人であるイシドロを祀る教会に改められました。

 早朝、石畳の冷たさが立ち上る中、そそり立つ石造りの分厚い教会はいかにも冷え冷えとしてみえました。ところが入口をくぐると脇に学校か幼稚園が併設されていて、かわいらしい子供たちのお遊戯の声が聞こえてきます。街のボランティア活動を記した壁新聞も貼られていて、街のなんでも相談所という雰囲気が漂っていました。ミサの時間以外は誰でも無料で入ることができると書かれているのもうれしい。

さて聖堂に入ると、やはり想像通り建物は威圧感に満ち、荘厳。ちょうど創立400年に当たるということで、建物内の多くの区域がきれいに改修されていました。ただ、奥まった一部屋は、改修されないまま。中世以来の壁に直接、赤と緑の彩色がほどこされ、その前にろうそくが灯り、その壁の前では地元の高齢の婦人が跪いて、熱心にお祈りをしていました。

そこに安置されていたのはマリア像でした。肌の色は白ではなく、やや褐色。なんだかメキシコで見た、褐色の肌のしたグアダルーペのマリアのようにも見えます。グアダルーペのマリアとは、メキシコシティの丘に1531年に現れた聖母マリアとして、メキシコで最も敬愛されているシンボルです。

 褐色の肌はメキシコの人を現すのかとその時は思ったのですがマドリードにも同じような像があると驚きました。足元には月を踏み、星のきらめきの入ったような青い衣をまとっているところもそっくりです。

この二つの像が似ているのは、あながち偶然ではないかもしれません。
(つづく)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする