雲南、見たり聞いたり感じたり

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二度目のロンドン53  おもむきのあるソールズベリー大聖堂①

2024-10-27 14:49:30 | Weblog
写真はソールズベリー大聖堂の外観。遠くからみると、さっぱりとした古風な教会に見えるが、近づくとさまざまな彫刻に彩られていた。

【『日の名残り』の象徴にも】
さて、オールドセーラムをへた先は、まるで中世。
緑したたる世界の中央には現在のイギリスの教会建築では最も高い123メートルの石造りの塔がそびえるソールズベリー大聖堂があります。

ゴシック建築らしく、こってりとした聖人の像が彫りこまれた正面、側面には軽やかな植物が生えたようなアーチ型回廊が続いていて荘厳そのもの。広々として薄暗い聖堂内の床は、この聖堂に限った話ではないのですが、多くの方々の墓石がはめ込まれていて、踏まないように歩こうとするのが困難なほど。

まあ床なのですから当然、踏んでもいいのですが、日本で育った私の身体が自然に忌避してしまう。欧米の観光客は普通に下を気にもせずに歩いている様子をみると、死体や死後の世界の考え方がずいぶん違うのだなあ、と思わずにはいられません(参考:上田信著『死体は誰のものか』ちくま新書、2019年)

この教会は、ヨーロッパの教会には珍しく主要な建物は38年で出来上がりました。十分長い年月のようにも感じますが
(日本では伊勢神宮が「式年遷宮」という20年に一度、建て替えることを考えると38年だと2クール目の準備に入っています!)、
短期間で完成したことが特徴の一つとされています。つまり様々な時代の建築様式が混在することなく統一感をもった聖堂となっているのです。

ソールズベリー大聖堂。

 ノーベル文学賞作家カズオ・イシグロの小説『日の名残り』では主人公の執事が最初にドライブで落ち着く場所がソールズベリーです。その場面では素朴な住民が大聖堂のある景色のよさを語っています。そしてくつろいだ雰囲気の中、主人公が散歩する街のどこからでもみえる、美しい夕日と印象的な尖塔。まさに題名を象徴するかのような重要な場面です。
 イギリス人にとっても納得のあこがれの地であり、建物なのでしょう。
                          (つづく)
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二度目のロンドン52 昔は立派な街だったオールドセーラム

2024-10-20 15:32:23 | Weblog
写真はオールドセーラムの空堀。周囲は草原が広がり、たくさんの羊たちが草をはんでいた。

【オールドセーラム】
ソールズベリー駅から行く、もう一つ有名な場所にソールズベリー大聖堂があります。その前にストーンヘンジから「オールドセーラム」へ途中下車しました。

オールドセーラムの「セーラム(Sarum))」は「ソールズベリー(Salisbury)」の略語で、「昔のソールズベリー」を指します。旧市街ということです。
よく考えると「r」が「l」になっていて略語としては違和感があるなあ、と調べてみました。一番わかりやすいのが英語のウイキペディアの「オールドセーラム」の項。だいたい要約すると次のように書かれていました。

≪古英語、つまり中世ラテン語はたまた当時のノルマン語の表記がSearoburh, Searobyrig, Searesbyrigというつづられ方だった。つまり共通の部分の「Sar―」に接尾語がついた表記が「Sarum」。(※1)≫

オールドセーラムは現在のソールズベリー大聖堂の移転前に建っていた場所で、もともと紀元前400年ごろの鉄器時代以来、要塞がありました。このあたりで遠くまで見渡せる高い丘で要塞として外せない拠点だったようです。

古代ローマ人、サクソン人、ノルマン人と使用者は移り変わり、この地に大聖堂が最初に造られたのが1075〜92年に建築。初代ソールズベリー司教ハーマンが企画、後継の司教オスマンドが完成させたノルマン様式(ロマネスク様式)の教会堂でした。

1120〜30年に、3代目ソールズベリー司教にして国王ヘンリー1世の側近でもあったノルマンディー出身のロジャー・オブ・カンが増築。ヘンリー1世(1100~1135年)のために王城とともに作られました。
1226年に大聖堂が現在の地に移転したことに伴い、街は次第に寂れ、ついには廃墟となり、16世紀にはヘンリー8世が残っていた建材も売却したため、今や、土台となる石と掘り下げた溝が野原に残るだけとなりました。

いや、ほんとにびっくりするほど土台と掘られた溝しかなく街があったとは信じられない感じです。

それに移動の経緯が、いかにもいろいろありそうですね。これらの詳しいことはすべてソールズベリー大聖堂で解き明かされることになります。

オールドセーラムには、ほんのちらっと立ち寄っただけなのですが、私にしては珍しいことに、写真を見直すまでは自分がオールドセーラムに立ち寄ったことすら忘れているほどでした。それほど、なにもない不思議な場所です。

写真を見ると、オールドセーラムの街を囲んだ空堀が残されていて、そこで元気にポーズを取る私がいました。

参考:※1:https://en.wikipedia.org/wiki/Old_Sarum
https://4travel.jp/travelogue/10530528

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二度目のロンドン51 神秘の巨石ストーンヘンジ⑤

2024-10-13 14:46:18 | Weblog
写真右側がストーンヘンジビジターセンター。左側の入口にあるのが「ストーン60」と名付けられたストーンヘンジの石のレプリカ。本物同様28トンある。わざわざレプリカの石をつくり、大勢の人を集めて動かすイベントを行った写真パネルと説明がビジターセンター内には展示してあった。丸木を敷いて動かしたのでは、とか、エジプトのピラミッドの石の比較などのパネルもあった。
 この石は誰でも自由に触ったり、押したり引いたりすることができる。ちょうど少年が果敢にも紐を持ってチャレンジしていた。

【ビジターセンターのおみやげもの】
ストーンサークルを見学したころに雨もやみ、霧もすっかり晴れました。すると近くには高速道路がありました。人里離れた、孤高の遺跡ではなかったのか、と拍子抜けしてしまいました。
(ロンドンからイングランド南西部までを貫くA303という道路で、悪天候でない日には渋滞が激しい道路なのだとか。)

そう思った人がイギリスにいたらしく、現在の高速道は歩道にして、高速道自体はストーンヘンジの地下にトンネルを掘って抜けさせる計画が進行中。それもなんだか、とは思いますが、すでに国の許可は下りています。

当然ながら、この道路建設は物議をかもしていて、世界遺産入りを審査する
ユネスコが

「この計画が進めば、ストーンヘンジは危機遺産入りとなる」

と警告を発する事態となっています。https://artnewsjapan.com/article/1618)

そして行きはストーンヘンジセンターから小型バスで遺跡へと進んだのですが、帰りはセンターまで歩いてみました。徒歩20分(約1.5キロ)でした。無料のバスなので乗って損はないのですが、天気が良い日は歩いてもよい距離です。

 さて、センター内を左に進むとストーンヘンジの博物館がありました。プラス料金はいりません。
 なかは落ち着いた木造の建物で遺物の置き方などもおしゃれで、きれい。ストーンサークルの全貌の模型や、現在までに出来上がった経緯の説明パネルやストーンヘンジを360度の画角で見られる施設などもあり、英語がわからなくてもある程度は理解できます。
 夏至や冬至の日の太陽の動きの再現は、本をいくら見てもわからないことが一目でわかり、見ごたえ十分。
 屋外には新石器時代人の家屋の再現などもあり、博物館としての見ごたえは十分あります。

でも、もったいないことにそれらを見る人はほとんどおらず、人が集うのはもっぱらレストランでした。みな、寒いのでしょう。温かいコーヒーを飲みたいのです。

 私も、すっかり濡れてしまったので新しいスウェットパンツを買いました。綿100%。黒地に左前サイドの大きく白抜きで「STONEHENGE EST 3,000 BC」と書かれて、なかなかおしゃれ。即決で買った観光みやげにしては、ものがよく、あたたかく、今も重宝しています。               
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二度目のロンドン50 神秘の巨石ストーンヘンジ④

2024-10-06 13:27:26 | Weblog
写真は直立した石の上部にある接合部の突起。ここに横たわるように棚石が乗る。棚となる石には凹型の溝が彫られていて、突起とかみ合うことで安定した形となる。これをウン千年前に造っていたのだ。何トンもの巨石を使って。ただ、長い年月でそれが崩れた部分もあり、この目の前の石のように形を現したものもあるのだ。
 この構造は30メートルの円周となっていてサーセン石サークルとも呼ばれている。

【科学の知識がてんこもり】
 じつはストーンヘンジはたんに巨石が円形に置かれているだけではなく、人によってはエジプトのピラミッドをしのぐ「古代遺跡の中で最高傑作」という声もあるほど(※)緻密な計算に基づいて形作られた遺跡なのです。

 今なお、どうやって巨石を運び、どうやってそれを持ちあげ、くみ上げたのか論議が続いています。何しろ石の重さは一つ4トン。それを重機のない時代に4~7メートルほどの直立石の上に持ち上げた。
 それだけでも驚きなのに巨石を組み合わせる部分にはぴたりと嵌まるように石の凹凸が彫られていたり、冬至や夏至の方角を正確に軸として、月の周期などが正確に読み取れる宇宙カレンダーとなっていたりとストーンヘンジの本を読めば読むほど科学的な思想にあふれていて、不思議さが増してきます。

 そのような中で「真北の石」に特別な意味があるのか、せめて名前は? と疑問に思っていくつか本を読んだのですが、私の力ではどうにもわかりませんでした。

 ストーンヘンジには名前のついた石がいくつもあります。そんななかのステーションストーンと呼ばれる周囲を囲う目立つ石があります。これはその一つかなあ、という気はするのですが、空間把握の苦手な私には、見たものを図面へ落とし込むことができませんでした。地図を見て行動するのは得意なのですが、ストーンヘンジは中世の時代から、数えるたびに個数が変わる不思議な石、と書かれたこともあるように砕けた石や地面からちょっと顔を出した石などがバラバラとあるので、それも図面の読み解きを困難にしているのかもしれません。
 そもそもストーンヘンジは何期かに分けて建築されているので、目的もいくつかの方向に錯綜し、ますます石の配置は複雑化しています。周囲の穴から人骨が発掘されることから墓だった説もあるようですし。
 でも、たとえ特別な石ではなかったとしても、諏訪神社も季節によって祀る神社は変わり、境内の圧を感じるポイントが季節で違うことを私も実感しています。そして人体で考えると凝りのツボの位置も日によって微妙に変わるのです(たとえば頭のつむじ付近にある万能のツボ「百会(ひゃくえ)」ですらも日によって少し右側、少し左側にずれる、というのは鍼灸施術の本にも出ています。長年、コリに悩まされている私にとってはすごく納得できるのです。)
 つまり、何らかのパワースポットであるストーンヘンジでは、たまたまその日の真北の石に、地球のツボ的なものが出た、と考えてもいいのかな。

※志村史夫著『古代世界の超技術〔改訂新版〕』(2023年12月、講談社)
                    (つづく)
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