雲南、見たり聞いたり感じたり

雲南が中心だった記事から、世界放浪へと拡大中

雲南の特色料理・豆花米線②

2009-01-30 21:01:13 | Weblog
昆明の中心を南北に流れる盤龍江脇で、繁盛する徳勝橋豆花米線店。

【豆花米線でつかんだ昆明ドリーム】
 この店を経営する楊美準さんは、昆明精神(アメリカンドリームのようなものらしい・・。)の体現者として尊敬を集める昆明の有名人です。

 若いころ、3人のわが子を育てるために豆花を三輪自転車で売り歩き、1980年代にこの場所に店を構えました。店は評判を呼び、今では3つの分店を出すほどになりました。

 そこまではよくあるサクセスストーリーなのですが、ここからがすごい。その売り上げから数万元、数十万元の単位で雲南省に数多くある貧困県の子供たちに寄付し続けているというのです。この姿が、拝金主義が横行する現代において人々の胸を捉えているようです。

 店内で豆花米線を頬張っていると、いやでも目に入るのが
「豆花米線の創始者にして民間芸術家・楊美準」という大きな赤い垂れ幕と、柱ごとに飾られた派手な舞台衣装に身を包んだ女性のプロマイドと、数カ所に設置されたテレビ画面。

 その日は実際に昔の富豪の家でロケしたという、富豪でしいたげられた娘さんの京劇風の悲劇オペレッタが上映されていました。むちゃくちゃお金のかかっていそうな舞台のなかに一人、派手な服を着たおばさんがまじっているなあ、と思ったら、店内のプロマイドと同じ顔。つい最後までみてしまったら、画面に「警告、無断複製および勝手な上映を禁ず」と出て、のけぞりました。

 これを複製したりする人がいるのだろうか、と。その画面の人こそが、言わずと知れた楊さんなのでした。彼女は雲南、四川、貴州省で民間の歌舞から発展した花灯劇の愛好家という一面もお持ちなのです。じつにバイタリティにあふれた人ですね。

 帰りがけにレジの前で剥げたおじさんが楊さんのDVDを買っている姿を目撃し、深い感慨に耽ったのでした。

(いつもお読みくださり、ありがとうございます。次回は小鍋米線をご紹介します。)
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雲南の特色料理2・豆花米線①

2009-01-24 22:46:28 | Weblog
昆明名物の十傑・徳勝橋の豆花米線。平日の11時ともなると、この味を目指す人々が店の外まで並ぶ。(当然、一般のお昼の時間は12時。それほど人気の人気店なのだ。)

 米線は料理法や合わせる材料によって、豆花米線、羊肉米線、(魚+善)魚米線、涼米線、臭豆腐米線、炒米線など様々な雲南料理を形づくります。そのなかで特徴的な3つを紹介しましょう。

【豆花米線(ドウフアミーシエン)】
 1碗4元(約52円)から食べられるのが豆花米線。ゆがいた米線の上にふわりと真っ白な豆花(おぼろ豆腐)を載せ、刻んだねぎ、ピーナッツ、高菜のつけものなどをトッピングして醤油ベースのたれをかけて食べます。単純な料理なので、1碗に込められた気合が味にすぐでてしまうのもおもしろいところです。

 豆花米線の専門店で昆明っこにもっとも愛されているのが、昆明の中心を流れる盤龍江にかかる徳勝橋の脇にある美リョウ(王+京)豆花米線。いつ行っても米線を頬張る人でいっぱいです。

 中国では珍しく、外からの日差しが、ガラスのない中国風に彫刻された窓から直接入り、窓辺のテーブル一つ一つに置かれた花瓶には花がさしてあり、常に店員がマメに掃除をし続けている、という清潔でうるおいのある空間。これが1杯4元の庶民的な米線店なのです。客層はタクシーのおじさんからビジネスウーマンまで多種多様。みな幸せそうに小腹を満たしていました。

 買い方は学食風。入口脇で食券を買い、お碗を受け取るところで食券を渡すと、すばやく店員が、ゆでたての米線の上にほかほかの豆花をのせ、その上に刻みネギなどの具と様々な器に入れられたタレを少しずつかけて、あっという間にできあがり。邱北(=中国中部の文山の近く)の唐がらし、拓東の醤油と酢、湯池老醤、弥勒竹園の紅糖(馬蹄銀の形に固められた昔ながらの黒糖)、花庄の冬菜と、雲南が誇る名産品を一碗に盛り上げるこだわりは相当なもの。

 食べてみると、さすがに辛い。でも唐がらしの辛さというよりは、コショウベースの辛さが絶品のタレと絡まり、舌はしびれても辛さがとがっていないため、食べやすい。

 基本的には、さっぱりとした味わいなので、こんな伝承さえ生まれました。
「病気の老母のために息子が毎日3年間、得勝橋の豆花米線を買いつづけ、老母はその米線を喜んで食べた」という話です。(「都市時報」より)。

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雲南の発酵食・米線下

2009-01-18 20:29:31 | Weblog
個旧の市場にて。2店舗あったが、この店の米線は飛ぶように売れていた。その日の作りたてを店に持ってきているのだという。米線店は他にも同じ材料でできあがる、春巻の材料のような「アークアイ」など、数種類の品物が竹ザルの上に並んでいた。

【酸漿米線の味】
 このなかで昆明の人がもっとも愛するのは、ツルンとしたのどごしと、白米の香りと甘さが感じられる酸漿米線。昼どきに街の食堂に出かけると、できたての酸漿米線をカゴや木箱に並べ入れ、米線食堂へと運ぶ小僧さんの姿をよく見かけました。

 昆明でよく売れる米線の発酵時間は1日から1日半ほどだそうですが、蒙自の正統派は、それより短く6~20時間ほど。米本来の甘さを残すのだそうです。

 とはいえ、実際、各地で食べ比べてみても、発酵した味、たとえばすっぱい風味などは全くありませんでした。できあがった酸漿米線の一部を種に、また新しい米に混ぜ入れて発酵させる、ということですが、どちらかというと、日本のうどんのように一晩「寝かせる」程度の「発酵」のようです。

*先日(1月10日)、TBSテレビ「世界ふしぎ発見」でブータン国を特集していましたが、彼らが食べる手作りそばは自家製。水で溶いたそば粉をぐぐっとスパゲティを手作りするような成型器に押し入れてつぶし出していました。米とそばの違いはあっても「干漿米線」と造り方は同じです。

 今や雲南では米線を個人宅でつくることはまれで、市場で毎日、つくりたての新鮮な米線を買っています。市場の一隅で細々とつくる姿もよく見かけました。日本のラーメンのように大工場で一括生産ではないのです。

 それだけに品質もバラバラで、年一回、行われる省の検査でも不合格品が混じることがありました。
(80年代前半には、米を水に浸す時間をより長くするなどして、米の含有量の少ない米線がつくられた。食べるとぶつぶつと千切れ、味もよくないので、米線の評判はがた落ちだったという。)
 2009年1月の検査では菜種油などと並んで、米線も100%合格品となりました。記念すべき年です。
 
 ちなみに6世紀前半、北魏の賈思勰(かしきょう)が編纂した「斉民要術」には米を水で溶いたものを竹筒にいれて、その下部から押し出す製法があります。(その後、油を張った鍋で揚げる)これについては今後、調べる価値がありそうです。
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雲南の発酵食・米線・上

2009-01-11 22:35:44 | Weblog
写真は蒙自の「橋香園過橋米線城」内の過橋米線博物館に展示されていたパネル。雲南伝統米線の作り方が端的に表されている。パネル展示が多いとはいえ、夕食どきでたくさんのお客さんが食べにきているというのに、併設の館内には警備のお兄さんが一人たたずむだけの寂しい状況だった。パネルをちゃんと本にすればよいのに、と思うほど内容は立派なもの。

ようやく米線(ミーシエン)のつくりかたまできました。
【雲南の米線(ミーシエン)は発酵食品】
 雲南で米線(ミーシエン)料理を頼むと、たいてい
「ツーダ? シーダ?」と、聞かれます。ツーもシーも思いっきり、歯の隙間に思いっきり息をこすりつけるようなすごい音なので、もしや怒っているのか、とドキドキしますが、
「粗的? 細的?(太麺か、細麺か)」と言っていただけなのでした。ちなみにだまっていると細麺がでてくることが多かったです。

 上記の2つの違いは単に太さが違うだけではなく、製法も違います。いわゆる「太麺」は白米を発酵させた後に潰して作られる雲南の伝統的な「酸漿米線」。「細麺」は白米を発酵させずに、すぐに粉にして機械で押して潰し、摩擦熱で糊化して成型した「干漿米線」です。それを晒し干しにした「干米線」は携帯と貯蔵に便利なもので、広東の米粉(ビーフン)にもやや似ています。

 このタイプには、白米だけではなく、黒米、そば、ほうれん草を混ぜ入れたものなどの変わり種も見られます。米線は昔から中国全土の米の収穫地では作られていましたが、発酵させてつくられる「酸漿米線」は、じつは雲南でしか味わえない特産品なのです。

 また米の種類は近年では、白米には粘りけが少なく、長細いインディカ米が主流です。粘りけが少ない方が吸水性もよく、加工もしやすいからだそうです。


●蒙自の「橋香園過橋米線城」内の過橋米線博物館でパネル展示されていた米線(ミーシエン)の造り方
(気力のある方はお読みください)

【伝統的な米線・酸漿米線(=粗米線)】
①米を24時間水に浸してから、粉にし(昔は石臼を使っていた)、そのどろどろした状態のまま清潔な布袋に入れて、吊して発酵させる。
②布袋のまま、上に大石を載せて圧力をかけ、脱水する(24時間)
③脱水処理したものを木桶に入れ、木の棒でつついて砕いた後、丸い球状にまるめて、グラグラの鍋に入れて70%ぐらいの蒸し具合で取り出す。
④再び砕いて円柱状に揉む。これを蒙自のイ族の人は「対娘」と呼ぶ。
⑤圧搾機に入れて細長い米線へと絞り出す。これを鍋に入れ3分間前後煮る。
⑥冷たい水に浸して洗い、製品となる。

【雲南での新顔(じつは中国ではスタンダード・干米線】
雲南では近年、機械化されて作られたもので、上記の文章中の通り。細米線となる。

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閑話休題・1920年代の日本婦人

2009-01-04 21:50:44 | Weblog
写真は蒙自の名所・南湖の畔にたつ、かつてギリシャ人の経営したホテル。1938年の日本との戦争時には北京大学などが一時期、この建物に疎開して西南連合大学を置いていた。現在、その場所にギリシャ人の説明はないが、中国で尊敬されている文学者で北京大学の先生をしていた聞一多が住んでいた場所、というプレートが残されている。

【閑話休題・戦前のビジネススクールにて】
 まったく話はそれますが、東亜同文書院の学生たちの旅行日誌がおもしろくてハマっています。(以前にも書きましたが、この学院は1901年に上海にビジネススクールとして日本人によって開校され、卒業生は商社に勤めるなど、主に中国方面の仕事で活躍しました。卒業年度に必ず中国各地を旅行し、調査日記を残しているのです。)
 私の大学時代はまさにバブル時期で、私を含めた多くの学生が詰めの甘い計画のまま、旅に出て各地で迷惑をかけたりしていますが、昔からあったのだなあ、という感じです。

 たとえば旅で出会う社会人の助言が、耳になかなか届かない。マンガチックなほどです。
 1928年に昆明在住の日本人の雲南領事が「土匪(盗賊)にあったら、荷物は欲しがるだけあげなさい。命あっての物種なのだから」と、親切にさとしているというのに、彼らときたら「土匪ごときに頭を下げろというのか。我々は日本男児だ。」とかえって領事を軽蔑する始末。案の定、昆明から出るとすぐにピストルを持った人に脅されたり、蹴られたりとさんざんな目にあうのです。

 また、こんなところにも日本人が住んでいたのか、と思うような箇所も。
 学生たちがデン越鉄道で北上し、蒙自県で宿を取ったときのこと。ギリシャ人が経営するホテルに泊まると、その奥さんは日本人で島原の出だったとか。その日の食事は久々に日本食が食べられた、と感激しています。

 現在、蒙自の中心である、南湖のほとりにしゃれたクリーム色のフランス風洋館があり、観光名所の一つとなっています。
 今は、中国人が経営する西洋料理店となっていますが、こここそ、かつてギリシャ人が経営していた有名なホテルなのです。『紅河旅游』という本には、
「カルロスというギリシャ人が、フランス領事館前に小間物店を開いていた。1911年の辛亥革命の影響で蒙自でも西欧的なものへの焼き打ち事件が起こり、彼らの店も焼かれた(一説では自分で焼いたという)。その後、フランス政府の後押しで多額の賠償金をせしめ、ホテルを開いた。」とこの場所を説明しています。35年間、経営していたそうなので、ちょうど、「東亜」の学生たちが泊まったころ、彼のホテルだったことになります。

 当時、この地にどれぐらいのギリシャ人がいて、ホテルを経営していたのかはわかりませんが、彼の奥さんが日本人だった可能性はけっこう高いのではないでしょうか。とすると、この地のコスモポリタンぶりは私の想像をはるかに超えて、プチ・魔都・上海状態だったのかも知れません。

*一つの食品の項だけで長くなっております。飽きずにおつきあい下さる方々、本当にありがとうございます。独特の風味を持つ米線の製法に次回からうつりたいと思っています。今後とも、よろしくお願いします。
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