雲南、見たり聞いたり感じたり

雲南が中心だった記事から、世界放浪へと拡大中

宜良ダックを探して⑧

2011-08-27 20:49:58 | Weblog

写真は上から広東料理名物・子豚の丸焼き(新橋の新橋亭・新館にて。2010年撮影)と下左は北京ダックとともにピン(餅)といわれる小麦粉クレープに巻く中身の定番・ネギの細切りと甘めの味噌。下右はそれらを巻いて一つにまとめたもの。(写真下は香港・鹿鳴春にて。2011年撮影。)子豚の丸焼きが出されると、どんなビジネスシーンでも円卓を囲む人々は自然と興奮しはじめ、目を輝かせる。じっくりと炭火で焼いた皮の薄切りは北京ダックのようにピンで巻いて食べる。肉は切り分けてそのまま食べたり、一度、厨房に戻されて、別の料理へと変化して出される。クセがなく、美味。

【子豚の丸焼きとタンドール】
 太ったアヒルを使う理由がわかった次は焼き方です。これは満漢全席にかかせない、明の皇帝たちも好んだという広東の「子豚の丸焼き」から来ているというのが通説です。他に狩猟民族である満州族が肉を炙って食べる料理法になじんでいるため、宮廷で採用された、ともいわれています。

 さらに、焼くための調理窯・タンドールは、インドや中央アジアでナンを焼くための窯が伝来したものからきているとか。また、雲南にはないのですが、普通、北京ダックといえば、うすいクレープのような「餅(ピン)」に薄切りのダック肉などを包みますが、これ、よく考えると餃子風です。北京の小麦粉文化の派生といえるでしょう。こうした各地の料理法の集大成で、北京ダックが生まれました。

 まとめると、明の首都が南京から北京に遷都したときに南京の料理法の一つとして北京に伝わった、さらに清時代、最も版図を広げた乾隆帝が南方を視察した際、お気に入りの料理として北京に持ちこまれ、以後、北京でも新たな製法を吸収し、改良されつつ定着した、と考えられます。

 さて、清末の西太后(1861年~1908年)のメニューにも烤鴨は載っていて北京料理として定着したことがわかります。その頃には市井にも広まり、光緒28年(1902年・2回前の回を参照ください。)以後、雲南にももたらされたというわけです。

 ちなみに雲南ではダックを「餅(ピン)」に包みません。ごはんかビールがお供です。その理由は雲南が小麦粉文化圏ではないから、ともいえそうですが、劉文が始めた初期のメニューから製法は変わっていないので、そもそも光緒時代の北京ダックには、まだピンで包む習慣はなく、その古い型のまま雲南で温存されたのではないでしょうか。

【2つの釜のタイプ】
 さて、宮中の「烤鴨」が、市中に伝来したときに焼き方が二つに分かれました。一つは、タンドールの釜にフタをして真っ暗な中で焼く「便宜坊」(明の永楽14年・1416年創業の北京ダック専門店)型(暗火掛炉)、もう一つが日本でおなじみの北京ダックの老舗「全聚徳」型(明火掛炉)。こちらは釜ではなく、横穴式の大きな洞窟のような掛け棚で人が横に立って火を見ながら焼くものです。

 ここで劉文が身につけた技術は「便宜坊」型。タンドールの釜で焼くタイプでした。その釜が雲南での主流となり、今や街では巨大な卵型ロケットのようなダック釜があふれるようになったのです。日本でも、最近、北京ダックをメニューに取り入れている店には、この釜が置かれていることが多いようです。

(つづく)
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宜良ダックを探して⑦

2011-08-21 17:07:28 | Weblog
写真は、宜良のアヒル農場。上林苑のアヒルは詰め込みではない、もっとのびやかに育てられたアヒルだったことだろう。

【宜良烤鴨の歴史②・来源】
 ともかく、ここで習いおぼえた技術に注目してみましょう。

最初は、南京、永楽帝より北京に首都が移った明朝(1368年~1644年)。
最後には清に追われ、明の遺臣達によって南明政権が作られ、一部は弘光帝をまつりあげました。その皇帝に遣えた談遷が、かつての宮廷の暮らしぶりをつぶさにつづった本があります。

 明の皇宮の食料生産基地だった「上林苑」で飼育されていたアヒルの数が書かれているのですが、それをみると、

「アヒルは上林苑に2624羽飼育されていた。(供給先は年間で)光禄寺では産み落とされた8000羽を使い、太常寺ではアヒルの卵240匹を供え物とし、また監では年ごとにアヒルのヒナ75羽、アヒルの卵2万5000個などをいただいていた。内府にはアヒルの卵3万個を供応していた(『棗林雑俎』逸典」(清・談遷編)という力の入れよう。これだけ読んでも、明ではアヒル料理が発展していたことがわかります。

 ただ、そのころの料理にダックの丸焼きはあったかどうか。
一説によると、「北京ダック」の料理法は、南京方面から伝わったと言われています。
 
 続く清朝。最も栄えていた6代皇帝の乾隆帝(1711年- 1799年)はダックの丸焼きが大好きだったようです。というのも宴席料理のお品書きが今でも残っているのですが、そこに見られるからです。しかも乾隆帝は北京から江南まで最高2000人のお供を連れて6度も出かけ、その地で気に入った料理人を北京へスカウトするほど、南方の料理を熱愛した、というのです。

 皇帝の宴席料理ともなると、原料のアヒルは良質な南京産。当時、冷凍保存技術はないので、水上輸送するには、生きたまま、となります。運動不可能な狭い船内でエサを与え続けることになるので、北京に着く頃にはぶくぶく肉が付いてしまう。以後、北京ダックは、太ったアヒルが使われるようになったのだという説も。

 ちなみに乾隆期に南京から北京までの輸送の日数を調べようと、相当、調べたのですが、あまりはっきりとはわかりません(年間どれぐらいの量が輸送されたか、そのシステムなどに関する論文は沢山あるのですが。)
 南京から北京へ年貢米を届ける最終期日が9月1日と定められていること、旧暦でその頃の南京での収穫時期が6月下旬なので、収穫の手間や集める手間などで1ヶ月差し引いて、輸送日数は約1ヶ月ぐらいでしょうか。ちなみにその当時に旅行した外国からの使節団(琉球使節団や絵師などの日記)の日数などを見ると、だいたい、北京への到着に2ヶ月半かかっています。

 長江から北京へと結ぶ大運河が最も栄えたのも乾隆期。通行税率33.1%かかるので、庶民が口にするにはあまりに高値の華の無謀な長距離輸送ですが、明代に培われたアヒル養殖の技術を思うと、清朝初期なら南京のアヒルを皇帝が食べるのも、ありか、と思えてきます。

(つづく。次回は、製法の話となります。お楽しみに、してくれるかなあ。)
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宜良ダックを探して⑥

2011-08-14 16:48:29 | Weblog



 写真上2枚は呉三桂が一六七一年に雲南一帯の王「平西親王」となったことを記念して建てた金殿とその扉。昆明市北東の山上にある。
 すべてが銅で鋳造され、現在も人々の尊崇をあつめている。写真下は呉三桂が創建後、自身が用いた大刀を人々の観賞用にと金殿に展示させた大刀。長さ二メートル、重さ一二キロあるという。(写真:2004年撮影。)

【宜良烤鴨の歴史】
 「宜良烤鴨」は2009年8月に、過橋米線や宣威ハム、タイ族医薬など124項目とともに雲南省級の第2批非物質文化遺産に登録されました。それほど雲南の人が熱愛する「宜良烤鴨(雲南ダック)」の歴史と特色はどのようなものなのか、少し、過去をひも解いてみましょう。

 宜良県の陽宗海の近くにある「狗街」。この街に、かつて悲劇がありました。
 さかのぼること480年余り前の明朝滅亡(1628年)の後、明の皇帝の子孫を擁した明朝ゆかりの人々によって南京に南明政権が樹立され、中国を支配する清朝に頑強に抵抗を続けていました。とはいえ、もともと軍事力でかなうはずもない南明朝は、あっさりと満州族の清に南京陥落を許し、浙江省沿岸地帯の紹興、さらには鄭成功のいる海上、福建省福州へと逃亡を続け、最後に明から清へ鞍替えした将軍・呉三桂によって永暦帝が捕らえられて永暦15年(1658年)に昆明にて処刑され、南明は幕を閉じました。

 このとき「狗街」は南明を支持し、清に激しく反抗していたことから、呉三桂によって付近の住民とともに残酷な鎮圧を受けたというのです。これは住民の記憶に永く残ることとなりました。
要するに、狗街は、どちらかというと漢民族主体の街だったともいえます。

 時は過ぎて、清朝末期の光緒28年(1902年)、狗街に暮らす許実という青年が、街の資産家の援助を得て、科挙の試験を受けるために北京に赴きました。さて目的の「会試」までにはまだ間があると、紫禁城付近に宿泊し、花の都北京を堪能します。

 いつの間にか「許実」から「劉文」へと名を改めた彼が北京で身につけたことは、「科挙」合格の資格ではなく、胡同(フートン)の一角にある、老便宜坊(庶民向け食堂)の北京ダック店で学んだ「烤鴨」の技術でした(当時、中国の淮河以南に住む、いわゆる南方人が北京に官職を得る目的で多数、上京しており、彼らが老便宜坊に多く通っていたという。《愛新覚羅瀛生「老北京与満族」より》)。

 帰郷後、北京でおぼえた技術を改良し、経営に邁進した結果、その名声は雲南中に響き渡ったということです。

 一説によれば、「許実」から「劉文」に名を改めたのではなく、ご主人様の「許実」のお供をした農民出身の「劉文」が北京で身につけた、という説もあります。そのほうがつじつまはあいそうですし、多くの出版物にはそう、書かれているのですが、なぜか狗街の出版物では、科挙受験者が「名を改めた」に固執しているのです。今回は、出身地の地方志を採用しましょう。「真実は奇なり」とも申しますので。           (つづく)

*猛暑の続く日本。楢も木楢も枯れてきて、いままでとは明らかに違う暑さに突入したような気がします。体調管理に注意しましょう。笑いも忘れずに。
 さて、私、2週間、イタリアに行ってきました。(5時間以上の時差は20年来なかったことです。)
 明朝、西欧人宣教師として初めて皇帝に拝謁し、様々な西欧の科学知識を中国に伝えたマテオ・リッチの故郷・マチェラータ、マルコポーロの故郷・ベネチアなど。とはいえ、イタリア語は同行者全員が急場でNHKテレビのイタリア語講座を受講したのみ。それでも、なんとかなりました。たとえ乗るはずの列車が、出発時間まで電光掲示板に掲示されていたのに、出発時間とともに静かに消え、何事もなかったかのようにアナウンスすらないローマ・テルミナ駅があったとしても。
 おかげで不安はマックス。聞かないとなにも答えてくれないローマ。その答えも正しいとは限らない。なんとか乗った列車は今度は出発の笛が鳴っても20分以上、ドアの開け閉めを繰り返し、ようやくゆるゆると出発。その先の乗り換えが複雑になり、どうしたらいいのかとにかく、行く場所を言い続けているうちに、なんとか親切なおおくのイタリア人に「この列車じゃ」のようなことを言われて、動物的勘でたどりついたマチェラータ。私たちが列車で着いた後の出発日に廃線になってしまったマチェラータ駅。町は中世の町並みが保存され(日本のように古いものは即座に壊すという意識がないようだ。)、町のあちこちで文化講座が開かれ、マンツーマンの学芸員付きの博物館が随所にあり、世界的にも有名な、オペラ通の集う「マチェラータ音楽祭」があり、といったものすごく、イタリアの穴場的なよい町でした。町からはタクシーで抜け出ました。
 おお、日本、と応援Tシャツを着て歩いている方も。醤油や豆腐など、日本の食材を売っていることを、ことさら強調してくれる店員さんもいました。
 しかし、イタリアの人は、こちらがイタリア語ができまいがおかまいなしに、よくイタリア語で話してくれます。とてもおおらかです。ジェスチャーや目の動きが大きいので、よく見ていれば雰囲気で話が進んでしまうのもすごいこと。とくに女性には。英語は、通じませんでした。イタリアは逆に冷夏に苦しんでいました。農作物のなりがよくないとのことです。(ちなみに雲南は一部地域がひどい日照りに苦しんでいます。)
(NHKイタリア語講座のマリア先生と「ひとりあるきのイタリア語」の本、グラッチェ!)
コメント (4)
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