写真は上から広東料理名物・子豚の丸焼き(新橋の新橋亭・新館にて。2010年撮影)と下左は北京ダックとともにピン(餅)といわれる小麦粉クレープに巻く中身の定番・ネギの細切りと甘めの味噌。下右はそれらを巻いて一つにまとめたもの。(写真下は香港・鹿鳴春にて。2011年撮影。)子豚の丸焼きが出されると、どんなビジネスシーンでも円卓を囲む人々は自然と興奮しはじめ、目を輝かせる。じっくりと炭火で焼いた皮の薄切りは北京ダックのようにピンで巻いて食べる。肉は切り分けてそのまま食べたり、一度、厨房に戻されて、別の料理へと変化して出される。クセがなく、美味。
【子豚の丸焼きとタンドール】
太ったアヒルを使う理由がわかった次は焼き方です。これは満漢全席にかかせない、明の皇帝たちも好んだという広東の「子豚の丸焼き」から来ているというのが通説です。他に狩猟民族である満州族が肉を炙って食べる料理法になじんでいるため、宮廷で採用された、ともいわれています。
さらに、焼くための調理窯・タンドールは、インドや中央アジアでナンを焼くための窯が伝来したものからきているとか。また、雲南にはないのですが、普通、北京ダックといえば、うすいクレープのような「餅(ピン)」に薄切りのダック肉などを包みますが、これ、よく考えると餃子風です。北京の小麦粉文化の派生といえるでしょう。こうした各地の料理法の集大成で、北京ダックが生まれました。
まとめると、明の首都が南京から北京に遷都したときに南京の料理法の一つとして北京に伝わった、さらに清時代、最も版図を広げた乾隆帝が南方を視察した際、お気に入りの料理として北京に持ちこまれ、以後、北京でも新たな製法を吸収し、改良されつつ定着した、と考えられます。
さて、清末の西太后(1861年~1908年)のメニューにも烤鴨は載っていて北京料理として定着したことがわかります。その頃には市井にも広まり、光緒28年(1902年・2回前の回を参照ください。)以後、雲南にももたらされたというわけです。
ちなみに雲南ではダックを「餅(ピン)」に包みません。ごはんかビールがお供です。その理由は雲南が小麦粉文化圏ではないから、ともいえそうですが、劉文が始めた初期のメニューから製法は変わっていないので、そもそも光緒時代の北京ダックには、まだピンで包む習慣はなく、その古い型のまま雲南で温存されたのではないでしょうか。
【2つの釜のタイプ】
さて、宮中の「烤鴨」が、市中に伝来したときに焼き方が二つに分かれました。一つは、タンドールの釜にフタをして真っ暗な中で焼く「便宜坊」(明の永楽14年・1416年創業の北京ダック専門店)型(暗火掛炉)、もう一つが日本でおなじみの北京ダックの老舗「全聚徳」型(明火掛炉)。こちらは釜ではなく、横穴式の大きな洞窟のような掛け棚で人が横に立って火を見ながら焼くものです。
ここで劉文が身につけた技術は「便宜坊」型。タンドールの釜で焼くタイプでした。その釜が雲南での主流となり、今や街では巨大な卵型ロケットのようなダック釜があふれるようになったのです。日本でも、最近、北京ダックをメニューに取り入れている店には、この釜が置かれていることが多いようです。
(つづく)