せっかく徳欽の話になったので、今回は日本人との交流のお話です。
写真は梅里雪山とそこから流れる氷河から流れる川。
チベットと四川省に挟まれた雲南省徳欽県を含む一帯には「梅里雪山」をはじめとして6000メートル級の山だけでも、蓮の花のように13峰ある。この峻険な峰の間を縫うようにして東西40キロの間に3本の大河の源が激流となって南北に流れる。東から長江の上流となる金沙江、メコン河となる瀾滄江、サルウィン河となる怒江だ。徳欽県にはそのうち東からの2本の大河がある。
【カワクボののど元】
漢語名「梅里雪山」のチベット名「カワクボ」の意味は「白い雪山」。氷河と聞くと、スイスのアルプスや北欧を思い浮かべるが、この山にも、その名の通り雪どころか白い氷河が舌のように伸びている。海抜5500メートル付近から海抜2600メートルの森林地帯までを急降下し、メコン江の上流である瀾滄江へと溶けて流れ出す。世界的にも希有な、低緯度で発達する氷河である。高海抜とインド洋の季節風(サイクロン)が作り出した現象だ。近年、この氷河観光で売り出し始めた麓の村・明永村に行った。
徳欽の中心地から霧の巻く中、崖崩れの跡を迂回し、ヤクや山羊の群れの通り過ぎるのを待って2時間、直線距離で10キロほどのところに明永村はあった。ここから、急峻な森林地帯を徒歩もしくは馬で上がると氷河が、その上に梅里雪山が見えるという。
娘を夫に預け、縁あって青海省からきたというチベット仏教の高僧の方々と徒歩で登ることとなった。霧雨の中、泥と馬フンがほどよくこねられた道を行く。急坂のため、体力のない私はあえぎながら、ようやく登っているのだが、さすが高僧は青海省の野山を巡礼しているためか、底がつるつるの革靴でスタスタと平地を歩くかのように登ってしまう。3時間もすると、突然、冷気が濃くなり、杉林を抜けたところに氷河があらわれた。上下に裂けたあたりは青白く光り、上空には瑠璃色の小鳥が飛んでいた。
私の祖父に微笑む顔がそっくりな高僧はチベット仏教の崇拝の山、「カワクボ」を見たいと雲が晴れるのを2時間近く待っていた。すこーし、山の姿が霧の晴れ間に見えたところで、自分を納得させ、祈りをささげると、また飛ぶような速さで麓の村まで降りていった。
20年ほど前までは登らなくとも、村まで氷河が達していたという。温暖化のためか、年々、村から氷河は遠のいていた。その一方で、氷河まで馬の背にのせて往復で80元を稼ぐビジネスが発展し、稼いだお金で自宅を民宿へと改造していた。
村の民宿は、ベッドも個室もあり、太陽熱温水器によるシャワーも備わっている。ただし、地元の人に入浴の習慣がないため、夏場は滅多に太陽がでないので温水シャワーにはならないことも、また太陽熱を通すはずのガラスのパイプが破損していることも、宿の主はなかなか気づかない様子だった。
さて、その日、徳欽へと帰り、街の人に、山頂を見られなかった、とこぼすと「それは日本人だからだ」といわれた。
「以前、日本から我々が聖山としてあがめ、入山を禁止している梅里雪山に登った団体があった。我々は断固、反対したが、登ってしまった。彼らは山頂付近で雪崩にあい、死んでしまった。その後、村は不作にみまわれた。山の祟りに違いない」と真顔で話す。我々がもう一度、明永村に行き、滞在する予定だと話すと、「日本人には、その村は危険だから、やめたほうがいい」とさとされてしまった。
(つづく)
写真は梅里雪山とそこから流れる氷河から流れる川。
チベットと四川省に挟まれた雲南省徳欽県を含む一帯には「梅里雪山」をはじめとして6000メートル級の山だけでも、蓮の花のように13峰ある。この峻険な峰の間を縫うようにして東西40キロの間に3本の大河の源が激流となって南北に流れる。東から長江の上流となる金沙江、メコン河となる瀾滄江、サルウィン河となる怒江だ。徳欽県にはそのうち東からの2本の大河がある。
【カワクボののど元】
漢語名「梅里雪山」のチベット名「カワクボ」の意味は「白い雪山」。氷河と聞くと、スイスのアルプスや北欧を思い浮かべるが、この山にも、その名の通り雪どころか白い氷河が舌のように伸びている。海抜5500メートル付近から海抜2600メートルの森林地帯までを急降下し、メコン江の上流である瀾滄江へと溶けて流れ出す。世界的にも希有な、低緯度で発達する氷河である。高海抜とインド洋の季節風(サイクロン)が作り出した現象だ。近年、この氷河観光で売り出し始めた麓の村・明永村に行った。
徳欽の中心地から霧の巻く中、崖崩れの跡を迂回し、ヤクや山羊の群れの通り過ぎるのを待って2時間、直線距離で10キロほどのところに明永村はあった。ここから、急峻な森林地帯を徒歩もしくは馬で上がると氷河が、その上に梅里雪山が見えるという。
娘を夫に預け、縁あって青海省からきたというチベット仏教の高僧の方々と徒歩で登ることとなった。霧雨の中、泥と馬フンがほどよくこねられた道を行く。急坂のため、体力のない私はあえぎながら、ようやく登っているのだが、さすが高僧は青海省の野山を巡礼しているためか、底がつるつるの革靴でスタスタと平地を歩くかのように登ってしまう。3時間もすると、突然、冷気が濃くなり、杉林を抜けたところに氷河があらわれた。上下に裂けたあたりは青白く光り、上空には瑠璃色の小鳥が飛んでいた。
私の祖父に微笑む顔がそっくりな高僧はチベット仏教の崇拝の山、「カワクボ」を見たいと雲が晴れるのを2時間近く待っていた。すこーし、山の姿が霧の晴れ間に見えたところで、自分を納得させ、祈りをささげると、また飛ぶような速さで麓の村まで降りていった。
20年ほど前までは登らなくとも、村まで氷河が達していたという。温暖化のためか、年々、村から氷河は遠のいていた。その一方で、氷河まで馬の背にのせて往復で80元を稼ぐビジネスが発展し、稼いだお金で自宅を民宿へと改造していた。
村の民宿は、ベッドも個室もあり、太陽熱温水器によるシャワーも備わっている。ただし、地元の人に入浴の習慣がないため、夏場は滅多に太陽がでないので温水シャワーにはならないことも、また太陽熱を通すはずのガラスのパイプが破損していることも、宿の主はなかなか気づかない様子だった。
さて、その日、徳欽へと帰り、街の人に、山頂を見られなかった、とこぼすと「それは日本人だからだ」といわれた。
「以前、日本から我々が聖山としてあがめ、入山を禁止している梅里雪山に登った団体があった。我々は断固、反対したが、登ってしまった。彼らは山頂付近で雪崩にあい、死んでしまった。その後、村は不作にみまわれた。山の祟りに違いない」と真顔で話す。我々がもう一度、明永村に行き、滞在する予定だと話すと、「日本人には、その村は危険だから、やめたほうがいい」とさとされてしまった。
(つづく)