雲南、見たり聞いたり感じたり

雲南が中心だった記事から、世界放浪へと拡大中

茶王のテンプク2

2008-06-28 12:24:00 | Weblog
写真右側の柵に囲まれた大木が、シーサンパンナの茶王。訴訟の茶樹ではないが、現地の人に頼み込んで大冒険の末にようやく山奥で出会うことができた。樹齢800年とのこと。このようにプーアール茶の茶葉は大きく、日本の茶葉とは品種が異なる。この付近が茶の原産地といわれている。

【気息奄々の茶王】
2年半後の2004年3月、雲南省茶葉協会会長の鄒家駒氏は古茶樹のもとを訪れた。それは、あまりにむごい現実だった。鄒会長は意を決して政治経済雑誌の『南風窓』へ寄稿した。

「樹は枯れかけ、常緑樹のはずの葉先は茶色くなって勢いがない。気息奄々だった。」と、いう衝撃の文章は瞬く間に一般の人々にも知られることとなった。

 中国茶の名門・天福集団は中国や台湾の空港や一流ホテルを納入先とする。それだけに記事の影響は計り知れない。そこで、すばやく次の行動へと移った。
 その年の8月10日に天福集団総裁の台湾商人・李瑞河は鄒家駒と、それを取り上げた昆明の地方新聞「都市時報」、そして雲南哀牢山国家級自然保護区鎮ゲン管理局副局長・傅開城を相手取って名誉毀損として「百万元」の損害賠償を福建省(さんずい+章)州市中級人民法院に申し立てたのである
【調書を読む】
 さて、2005年7月5日に開かれた法廷を調書より見てみよう。

「保護された茶樹王は枝が茂り、葉も繁茂し、生育は良好です。したがって、被告の文章は間違っています。明らかな悪意が読み取れます。」

と天福側の弁護士が訴えれば、鄒家駒は

「我々が所有する野生茶樹の研究によると、生態系の維持こそがもっともよい保護なのです。樹齢2700年の茶樹王をセメントで固めて、花瓶に生けたところでなんの保護だというのでしょう」と科学者の意見を取り上げて応酬する。

v一方、地元政府側の傅開城は訴えられたことが心外といわんばかりに
「茶王は現在、良好な状態にあります。裁判官が知らなくても、我々は知っています。保護した後の茶王は前よりもっと良好になりました。天福からいただいた寄付金はすべて、そのように使っております」
と、静かに答えるのみであった。

v2006年2月22日に判決が出た。結果は天福側が勝訴。理由は茶樹が枯れていないから。被告3者がそれぞれ2万元払うこと、とされた。「都市時報」はこれを受け入れたが、鄒家駒は「南風窓」を後ろ盾として上告し、現在、上級法院へともつれ込んでいる。
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茶王のテンプク

2008-06-20 18:19:50 | Weblog
写真はシーサンパンナの中心地景洪市内の市場にて。茶屋というと、プーアル茶を円盤状に固めて熟成させた7枚つづりの「七子餅茶」がよく売られている。一枚売りも可。馬に取り付け、北京までもたせるように創られた形が現在まで続いている。

【樹齢2700年の茶樹】
 チベット自治区の標高6740メートルの梅里雪山から、ベトナム国境近くの南渓河と元河の合流地点の標高76メートルまで起伏に富んだ地形であり、なおかつ低緯度にあることから雲南はさまざまな植物の原産地となっている。茶木もその一つ。なかでもプーアル茶の主産地として名高い。行政もプーアル茶で名声をあげようと、2007年4月には省南部シーサンパンナにあるプーアル茶の集散地・思茅市を「プーアル」市と改称までしている。

 その雲南省で茶木に異変が起きている。

 雲南省南部の思茅市鎭ゲン県の山奥深く、哀牢山脈の国家級自然保護区内には野生の古茶樹の群落がある。そこには樹齢2700年と目される高さ25.6メートルの世界最長老の茶樹がそびえる。その「古茶王」と呼ばれる木が、もはや気息奄々だというのだ。

 昆明の地方新聞「都市時報」「春城晩報」(2004年8月26日~)をもとに、事の顛末を記そう。
 古茶王は、一部の好事家、信奉者などが、ときに仰ぎ見る以外は、めったに人の踏み入らない深山にある。そこに台湾の大手茶葉製造・販売会社である天福集団と地元の鎭ゲン県政府が2001年10月10日、古茶王の保護に関する協定を結んだ。

 内容は
①天福集団が、古茶王の保護のために管理所の設置などの周辺整備を行う
②県が古茶王の周辺10メートル内における観光客の立ち入りを禁止させる
といったもの。

 協定に基づいて天福側が24万元(約300万円)を出資し、「保護」が具体化した。
 2002年3月に管理施設や電力施設などが3ヶ月の工期を経て設置され、さらに周囲を盛土して固め、鉄条網で囲い、見学小屋を設けた。

 5月に入ると「国茶瑰宝」と「世界茶王挙世無双」と大書きされた2つの石碑が登場。なんと茶王樹の根を寸断する形で建てられた。さらに石碑周辺にはセメントで高々と台座を築き上げ、6月9日には石碑の除幕式も開かれた。

 春秋時代からひっそりと生き続けてきた深山の茶樹王が「見学施設」へと変貌をとげたのである。
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英雄のつくられ方

2008-06-13 22:25:16 | Weblog
写真はシャングリラの町中で出会った子供。おかあさんはチベット族の色鮮やかなエプロンをしてリヤカーを押しながら、飲食店の廃油を集める廃油回収業者だ。とても大変そうだけど、お母さんを尊敬する子供のまなざしがやさしかった。

【いいひと】
 一連の熱に浮かれたような動きに対して、冷静さを保つよう、呼びかける記事もあらわれた。7月3日の『春城晩報』では「馬驊は人である。神ではない」と切々と説いている。曰く、これに応ずる人は平地の50%の酸素量しかない高地で生活しなければならないし、眠る場所も四方が風に煽られる帳の中であることを覚悟せねばならず、背後にはプレッシャーもあるだろう、ときわめて現実的な意見を述べ「できることからすればよい」と締めくくっている。

 むろん、現実的な動きもあった。昆明の靴店の元締めである「玉帯河靴城」(靴の卸問屋が並ぶ専門市場)からは貧しい家の学習を助けるためとして「500足の靴と数百元」の寄付がなされた。このような寄付は各方面から寄せられている。

 「馬驊に続け」運動がこれほどすばやく政府主導で起こったのは、ちょうど中国では年度末にあたる夏休みであることと関係が深いように思われる。中国の新年度は9月から。したがって6月末の時期は卒業生が進路を最終決定する時期にあたるのだ。

 中国の政策に「貧しい」少数民族の住む中国西部地区に対して、毎年、全国各地から若者を公募し、派遣する活動がある。雲南では7月中旬に上海、安徽省と雲南省からよりすぐられた340名の大学生が、3日間、昆明で訓練を受けた後、省内の民族貧困地区(と、新聞には書かれている。)へ1~2年間、派遣される。その間、省から毎月600元の生活費が支給される。

その公募の時期だったのだ。

 現にその年の7月5日には、通常の手続きをへて決まった貧困地区へ派遣される教育者のために壮行会が雲南の大学構内で催された。省内2100名の応募者の中から厳選された229名の優秀な若者たちが1~2年間、雲南省各地にある73カ所の貧困重点地区へ志願して赴く。その壮行会の黒板には当然のように「私は馬驊の道をいきます」の文字が躍っていた。

 つまり上海で選ばれた周文彬は、例年、上海から雲南省へと派遣される137名の志願者に対して、今年限りに付け加えられた138番目の特別枠の志願者、という位置づけなのだった。彼の言葉からも一般的に志願者となる人は、将来、中国共産党入りが見込まれる学生幹部か、奨学生で、きわめて政治的、経済的な意味合いが強い特殊な人々による活動であることが読み取れる。この特別枠を決め、大々的にマスコミを通じて呼びかけた宣伝効果は今後も絶大な力を発揮するだろう。

 さらに彼が行方不明となって2ヶ月がたった8月17日には雲南省教育庁が、省共産党員と共青団員らに対して「馬驊同志のことを学ぶよう」通達を出した。名付けて「馬驊同志学習活動」。まるで文革時期にさかのぼってしまったかのような運動名が冠せられていた。

 5ヶ月後の11月には、3000名規模の馬驊同志の活動報告会が連日、各大学、高校などで開かれるようになった。主催は省委員会宣伝部。その中身は次の通りだった。

「当代青年の人生の座標」「チベット族人民のよき師であり、『益をもたらす友』」「高原の様子」「馬驊とすごした日々」「馬驊の足跡を追い、前進する」の5つ。話が進むにつれ、大声で泣き出す人々が続出した、という。

「馬驊精神というのは、つまり艱苦をおそれず、探索し、無私奉献で見返りを求めないということだ。人生の境にある優秀品質を追求し続ける努力をすることだ。」

「心は群衆とともにあり、真の心で民を愛し、つねに群衆の苦しみに関心をむける高尚な心を養うことだ。」

「つねに進取を極め、学習につとめ、愛し、敬い、書を教え、人を育み、崇高なる人となり、徳をもって範をしめす、ということだ」と報告会は締めくくられる。

 彼の事績は今や本となり、テレビで放映され、インターネットでも馬驊の事績は上位のクリック数をキープし、テレビの30分番組はそのまま、インターネットでも見られる仕組みとして、現在でも活動は続いている。

 そして、本当の彼の姿は、はるか遠いものとなり、明永村の村民も「彼はいい人でした」という型どおりの言葉を連ねるのみとなってしまった。
                           (この章、おわり)
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英雄のつくられ方5・彼を継ぐ者

2008-06-07 22:45:53 | Weblog
写真は明永村と徳欽を結ぶ道路の工事をする一家のお母さん。カメラを向けると、村の人は照れくさがって、最初は逃げるのだが、この人はとてもいい笑顔を向けてくれた。

【彼を継ぐ者】
 家族が控えめな対応に終始する中、その後も連日、馬驊の彼の業績をあれこれとかき立てる記事が続いた。彼の大学時代の知人の感想、昆明の「春城晩報」にときおり、訪れては記者に語った様子(記者もどういう人がつかみかねていたらしい)、徳欽での友人らの証言、詩の発表など、とぎれることなく、感傷的な記事は続いていった。
(『新民晩報』『北京青年報』『上海労働報』『文匯報』『西安晩報』『毎日新報』など各紙、および中央電子台、インターネットなど)

 やがて馬驊の事績は、北京や上海でも政治的な意味合いを帯びて、注目されるようになった。遭難9日目には早くも上海団市委員会が新聞発布会を開き、「馬驊同志の意志を継いで、明永村での彼の仕事を行う者を、上海の大学生に広く公募する」と発表した。

 雲南省団委員も同日、省内の大学生に、彼のように人々が必要とする農村へ基礎を造るために行く者の志願者を募ることを決定した。上海と連携をとって青年大学生志願者の活動を支え、文化を広め、教育事業を発展させることを目指す、というものだった。そして、遭難10日後の、省副書記から遺族への感謝状の発送へと続く。

 こうして、マスコミで熱せられた若者が次々と志願し、雲南大学の博士研究生という高学歴者や上海の復旦大学の1年生などの学生は言うに及ばず、北京外語大学卒の社会人(27歳)まで上海市には総勢62名が公募に応じた。そしてわずか2週間たらずで選考が行われた。

 7月20日にはついに、62名の志願者の中から選ばれた「馬驊を継ぐもの」が昆明へとやってきた。彼は周文彬。大学4年。上海生まれ、上海育ちのきっすいの上海人。「学生幹部でもなく、奨学金を得て進学した訳でもない」とわざわざ記者が注する彼は、

「私は幸運だった。選ばれるとは思わなかった。馬驊がまだなしえなかったことを成し遂げたい」と馬驊によく似た冷めた態度と、情熱を持って語った。
 
 彼は選ばれた理由を上海大学で工学部を2年、文学部を2年学び、さらに英語ができるという幅広い才能ゆえ、と自己分析している。じつに上海らしい選び方だ。彼の夢は「経済を発展させること。大旅行業者と関係を持ち、徳欽の旅行業を発展させること」

 そして23日に明永村へと赴任していった。  (つづく。次回、この回、終わります。よろしくご覧ください。)
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