雲南、見たり聞いたり感じたり

雲南が中心だった記事から、世界放浪へと拡大中

雲南の誇り・ヤン・リーピン④

2010-01-31 21:21:56 | Weblog
アル(氵+耳)海は、中国・唐代ごろに栄えた大理国の古城東側に隣接する。南北約40キロ、東西約8キロの細長い形状が耳に似ていることから名付けられた。雲南ではデン池に次ぐ大きさ。
 湖には大きな島がいくつか浮かび、古くから村や宗教施設が存在する。写真は「小普陀」と呼ばれる観音様を祭る島。
 湖沿岸では観光船や漁船兼務の船が、激しい客引き合戦の末、島へと遊覧してくれる。そのような俗な世界のなかでも、敬虔な信者のお参りは絶えない。

【栄光と・・】
 何もかもが順調とおもわれた2009年の10月31日、昆明の舞台が終わった。地元は突然のことに驚いた。

 ヤン・リーピンは取材に対し、
「7年間で2000回、昆明会堂で上演を続けてきましたが、ここが壊されることになってしまいました。代替地も見つかりません。それとチケットの売り上げが半分になったこと。SARSの時も(客がこなくて)きつかったけど、それ以上に2008年秋からはじまった金融危機が大打撃でした。」
 観光業と表裏一体だっただけに、影響がモロに出てしまったのだ。

 農村からオーディションを経て採用されていた素人団員の多くは、田舎で、また農民に戻った。一人あたり2000元から8000元(約3万円から約12万円)得ていた収入もなくなった。

 けど、何もかも、なくなったわけではない。なかには舞踏家として成功し始めたものも出てきている。

 2001年に建水県で牛追いをしていたハニ族の虾嘎(シャーガ)は、18歳のとき、ヤン・リーピンに見いだされ、昆明で「雲南映像」の一員となった。舞台中央のハニ族の大太鼓撃ちとなり、とうとう2008年の第4回舞踊荷花賞で第3位を獲得、続く2009年11月、第5回中国中央テレビ主催の舞踊大会でも独創の踊り「蟷螂(かまきり)」で銅賞を獲得した。現在、ヤン・リーピンの許可を得て、初めての一人興業に挑んでいる。

 ヤン・リーピンも、相変わらず忙しい。2009年11月17日、オバマ首相の中国訪問の際の歓迎晩餐会では、舞踏家として華麗な舞を披露。今年3月にはご存じのように来日も控えている。

 一方でルーティンワークから一時、開放されたせいか、故郷・大理の、日本でいえば琵琶湖手的存在のアル海北東の玉几島に白族の伝統風住居を購入。母親を住まわせるなど、今まで顧みることのなかった、ゆとりある生活も追いつつある。     (つづく)

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雲南の誇り・ヤン・リーピン③

2010-01-24 20:07:24 | Weblog
写真はシャングリラもあるディーチン州のマニ石。チベット語でチベット仏教の経典が刻まれている。平安の祈りをこめて村の入り口や神山のビュースポットでよく見られる。それほどまでに大事な石なのに、どうやら道路工事に負けつつあるようだ。
 ところで『雲南映像』「シャングリラ」の章は、重たいマニ石を抱えて舞台中央に置く、チベット族の古老の動作から幕が開く。

【雲南の一大産業へ】
「今、ひん死の民間芸術を発掘して救い出し、お客様に観ていただいて、後の世の記憶に留める。まさに生きた民俗文化博物館なのです」との思いでヤン・リーピンは『雲南映像』を紡ぎ出した。
 だから舞台上の服装、小道具、牛の頭、マニ石、経筒などは、全部、本物。以前にも書いたが「雲南映像」の出演者の70%は本物の少数民族の農民出身だ。

 なかにチベット族の子供の独唱があった。

「シャングリラ(チベット族自治区の中心都市)の貧しい子を昆明に連れてきて歌わせ、故郷に帰すと家が建つ。この舞台は300人以上の就業問題を解決している」(『都市時報』2009年5月7日)と地元新聞は経済効果を取り上げている。

 雲南の旅行、タクシー業界も潤った。タクシーの運転手は予約を入れるとマージンがもらえるし、ホテルからの送迎もできる。旅行業界はいわずもがな。雲南の知名度もアップした。

 2004年『フォーブス』中国語版で、ヤン・リーピンは、812万元(約1億2000万円)の収入があるということで、中国で活躍する名士の52位にランクイン。(ヤン・リーピンは収入について「全くのでたらめ。自分自身、どれくらいお金が入ってくるのか知らないし、歌舞団の手当に消えているだろう」と語っている。)

 同年秋、映画『単騎、千里を走る』を監督するため、雲南の麗江を訪れたチャン・イーモウ監督(注1)は、主演の高倉健(注2)がクリスマス休暇で帰国している間に『雲南映像』の目玉の一つである「シガレット・ケースの踊り」を撮影した。農民出身の若者10人ほどが横一列に並んで、歌い踊る土着性たっぷりの踊りだ。

 昆明にほど近い石林(2007年に世界自然遺産登録された)に早朝、マイクロバスで乗り付け、照りつける太陽と紫外線の中、紅い大地を裸足で踏みしめること一日。こうして華やかな民族衣装で歌い踊る「青島ビール」のコマーシャルは、全国に流された。力強く、健康的な映像だった。

 その撮影時に、改めて雲南のマスコミが目を見張ったことがある。それは撮影の合間に、世界的監督と対等に語らうヤン・リーピンの堂々たる姿だった。        (つづく)

注1.張芸某:『紅いコーリャン』などの映画で世界的な賞を総なめする世界的監督。北京オリンピックの開会式や昨年、天安門広場で開かれた建国60周年パレードの演出も行いました。
注2.高倉健:ご存じの方も多いでしょうが、中国では高倉健は数十年前からたいへんな人気なのです)

*またもや長くてすみません。いろいろとヤン・リーピンの周囲も変動しているようです。次回をお待ちください。

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雲南の誇り・ヤン・リーピン②

2010-01-17 10:26:02 | Weblog
写真は雲南映象パンフレットより。

【歓迎会に出席する】
驚くべきことに、ヤン・リーピンは優勝直後から行われた6ヶ月で201会場にもおよぶ全国巡演中、ほぼ連日、各地の政府関係者主催の熱烈な歓迎会に出席した。このことでも新聞記者のみならず中国のあらゆる関係者の賞賛を集めた。(中国では、このことがどんなに大事かとわかっていても、とても難しいことも、誰もが身にしみている分かっているのです。)当然、政府筋でも彼女の株はますます跳ね上がった。

 10月に昆明に戻るとさっそく「雲南映象」の凱旋公演が始まった。昆明中心部の昆明会堂という大講堂で毎晩8時より2時間の公演(除く日曜)。これが連日大入りで、地元の旅行社やタクシー会社をも大いに潤し、商業的にも大成功を収めた。

 【幻想的な舞踊】
出し物は、彼女の舞踏人生の集大成といったもので、
・満月の中にシルエットとして浮かび上がるヤン・リーピンの手先や肘のなめらかな動きから、体全体を使った舞踊へと変化する「月光」
・手先で炎の揺らめきから燃え上がりまでを細やかに紡ぎ出す「炎」
・右手を高く掲げ親指と人差し指で輪を作り、シルエットで作り出す「孔雀の舞」

などのヤン自身の独演の他、

・演技者の70%を雲南各地の農村の若者で構成し、服装や小道具すべてを雲南の少数民族の各地で収集、または手作りしたもので設計した、生の迫力が圧倒的なイ族の「煙草入れの踊り」など、少数民族の伝統的な踊り
・「太陽は休むか? 休む。月は休むか? 休む。女は休むか、休むことなどできない」というつぶやきからはじまり、曲とともに激しく衝動的な踊りへと変化していく群舞「女の国」

など、ハイレベルな演目が続く。

 細身に、まっすぐな長い髪。すらりと伸びた手足から指先まで駆使するヤン・リーピン主演の舞台は幻想的ですばらしい。だが、私はレーザー光線のチカチカがまぶしすぎて目が痛くなり、翌日は頭痛で寝込んでしまった。冬だというのに暖房概念のない昆明で長すぎる夜を過ごして冷え切ったせいもあった。演目数も多いため、後半は、やや見疲れてもいた。

 商業的にも成功した舞台だが、当然、連日、ヤン・リーピンが出続ける、というわけにも行かなくなる。(海外公演をこなし、2軍の稽古を付け、オーディションを呼びかけ、取材対応、次回作の想を練り、小道具などの準備まで、彼女なしではなし得ないのだ。)

 そのため団員2組に分け、彼女が出ない日もあった。だから昆明の会場では「今日は女史(ヤン・リーピン)が出るそうだ」「それはツいてるな」などというささやきが、よく聞かれた。(私も何度、足を運んだことか・・)

 ヤン・リーピンは「この舞台は雲南の誇りです。100年は昆明で続くでしょう」と2004年当時、語っていた。

 共同プロデューサーの荊林(1992年よりヤン・リーピンと組む)が
「2002年から始まる準備期間中に資金が欠乏したとき、省委員会宣伝部から100万元を助けてもらい、ようやく設備を揃えることができた。これが、各方面の保証ともなった」
 と語るように、雲南政府をも動かした「舞台芸術の、市場化への努力」こそが『雲南映象』プロジェクトの核だった。                    (つづく)

*今年3月にヤン・リーピンが来日し、東京・渋谷Bunkamura、大阪・梅田で踊ります。(2年前の初来日の際はチケットが早い段階で完売し、今回もS席は通常ルートではすでに完売ずみだとか。ヤン・リーピンとはどんな人物なのか、雲南の現状と「雲南映象」の現在などを知りたい方は、ぜひ、次回もお読みください。

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雲南の誇り・ヤン・リーピン①

2010-01-12 09:39:35 | Weblog
昆明のタクシー。タクシー後部のガラスには、たいてい「雲南映象」と、チケット購入電話番号が書かれたステッカーが貼られていた。不思議なことにイルカや象などの絵が描かれたステッカーも同時に貼ってある。これはタクシーでトラブルが起きたとき、タクシー会社にどの車かを、客が通報しやすいように貼られているのだそう。「あの、象の11番の車」などといえば、一発検索できるという優れものなのだ。ただ、「雲南映象」のステッカーは貼れていても、動物ステッカーがない車は結構、あった。(なるべくそういう車は避けましょう。)

【雲南の誇り・楊麗萍】
「じゃあ、ヤン・リーピン女史を知ってますね!」
2004年夏に昆明でタクシーに乗ったときのこと。私が日本から来て、昆明に関心があると話すと、うれしくてたまらないという様子で若い運転手が話し出した。

「中国各地を公演し、それから世界各地を回っています。彼女ほど有名な雲南人はいないでしょう」

 知らなかった。だが、そう心得て地元新聞に目を向けると、なんと毎週のように彼女の名前が登場し、雑誌には特集もされている。当時、まだ日本には来ていなかったが、すでにアメリカ、ロシア、カナダ、ヨーロッパ、シンガポール、台湾など各地を公演し好評を博し続ける女性舞踏家であった。

 彼女が主演、創作、プロデュースした大型原生生態歌舞集『雲南映象』という演目は、2002年より足かけ3年掛けて雲南で構想を練り込み、2004年3月には、ついに中国で最も権威ある舞踏家の賞・第4回荷花賞で「舞踏詩金賞」ならびに「最優秀主演女優賞」「最優秀編集賞」「最優秀服装設計賞」「優秀演技賞」など5部門を制覇。
 続く2004年3月末から6ヶ月かけて100人の演職員を連れて総移動距離8万キロにも及ぶ中国公演に突入し、各地で熱烈な歓迎を受けているとの報道がされていた。まさに飛ぶ鳥落とす勢い、雲南人の希望の星なのだった。   (つづく)


*今年もよろしくお願いします。なかなかお屠蘇気分が抜けない今日このごろですが、なんとなく今年は去年よりもは明るい年になるような気がします。いや、そうしたいですね。

コメント (2)
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