写真は雲南の馬。競走馬を産するアラビア系とは違って、小型で頑丈、急峻な崖も荷を載せて登り降りでき、人間に対して柔順でおとなしいのが特徴といわれている。
【美人がだいなしの入れ墨】
なぜこのような村が公然と存在できたのか。現代の日本からは想像すらできないが、中国の奥地は、まだなお前近代だということを示した事件ともいえる。
このブログの感想を寄せてくださった方から
「日本の昔ばなしでも『神隠し』として子供が消える話はよくでてきますね。日本でも人さらいはあったのでしょう」
という指摘をいただいた。雲南の「人さらい」についても昔の人の確かな記述があったので紹介しよう。
明治35年、貴州省と雲南省を踏破した日本人に人類学者の鳥居龍蔵がいる。日本が日清戦争に勝ち、さまざまな人材を中国各地に送り出した時期である。日本の人々は中国人を見下し、中国の人も日本人に対して「日本鬼子(リーベングイズ」や「東洋鬼(ドンヤングイ)」などと悪くいいはじめた頃でもあった。
そんな中、彼は馬の背にしがみついて毎日50キロ以上を移動し続け、野宿あり、風呂なし、ときには地元の警察の協力をえて山賊の跋扈する丘陵地帯を進むこともあった。
その清朝末期を活写した紀行文に、じつにさりげなく、誘拐され、奴隷として使役されるあわれな人々が登場している。鳥居は、「一度、誘拐された人は奴隷として子々孫々までこき使われる」と書いている。
またごく最近まで雲南の山岳地帯に住む独竜(ドゥーロン)族には、女性にだけ顔に入れ墨をする風習があった。理由は、わざと醜い顔にして誘拐を予防するためなのだという。
1990年代に雲南に調査に出かけたある地理学者もそれを目撃し
「ほんま、美しい顔の人が、ごっつう醜くなってまうんや」
とひどく残念そうに語っていた。それほど中国西南地区では誘拐は日常なのだ。
今回、公安が重い腰をあげて摘発した村も、誘拐を生業としていたのは少なくとも清朝(1616年~1912年)にまでさかのぼるというが、雲南の裏面史を知れば、とくに驚くことでもないのである。
【美人がだいなしの入れ墨】
なぜこのような村が公然と存在できたのか。現代の日本からは想像すらできないが、中国の奥地は、まだなお前近代だということを示した事件ともいえる。
このブログの感想を寄せてくださった方から
「日本の昔ばなしでも『神隠し』として子供が消える話はよくでてきますね。日本でも人さらいはあったのでしょう」
という指摘をいただいた。雲南の「人さらい」についても昔の人の確かな記述があったので紹介しよう。
明治35年、貴州省と雲南省を踏破した日本人に人類学者の鳥居龍蔵がいる。日本が日清戦争に勝ち、さまざまな人材を中国各地に送り出した時期である。日本の人々は中国人を見下し、中国の人も日本人に対して「日本鬼子(リーベングイズ」や「東洋鬼(ドンヤングイ)」などと悪くいいはじめた頃でもあった。
そんな中、彼は馬の背にしがみついて毎日50キロ以上を移動し続け、野宿あり、風呂なし、ときには地元の警察の協力をえて山賊の跋扈する丘陵地帯を進むこともあった。
その清朝末期を活写した紀行文に、じつにさりげなく、誘拐され、奴隷として使役されるあわれな人々が登場している。鳥居は、「一度、誘拐された人は奴隷として子々孫々までこき使われる」と書いている。
またごく最近まで雲南の山岳地帯に住む独竜(ドゥーロン)族には、女性にだけ顔に入れ墨をする風習があった。理由は、わざと醜い顔にして誘拐を予防するためなのだという。
1990年代に雲南に調査に出かけたある地理学者もそれを目撃し
「ほんま、美しい顔の人が、ごっつう醜くなってまうんや」
とひどく残念そうに語っていた。それほど中国西南地区では誘拐は日常なのだ。
今回、公安が重い腰をあげて摘発した村も、誘拐を生業としていたのは少なくとも清朝(1616年~1912年)にまでさかのぼるというが、雲南の裏面史を知れば、とくに驚くことでもないのである。