雲南、見たり聞いたり感じたり

雲南が中心だった記事から、世界放浪へと拡大中

通海の民族⑧ モンゴル族

2014-06-29 14:27:52 | Weblog
写真は開遠市郊外。かつては「阿迷」という地名で呼ばれ、ベトナムから昆明を結ぶ鉄道の重要な中継地だった。第2次世界大戦前はベトナムのハノイから列車に乗り、阿迷で一泊。翌日に列車で昆明に着くのが一般的なルートだった。当時は日本人が経営する宿屋や雑貨屋も商店街にあった。
 戦中に日本軍の飛行機が開遠の駅周辺を爆撃し、鉄道路も破壊。いまもその跡が残る。
 一方、もと、イ族を中心に栄えた郊外は一面のトウモロコシとタバコの畑。完全に作物は南米渡りと言われているもので埋め尽くされていた。
 地平線近くの山の端まで働き者の女性達を中心に刈り取った後のトウモロコシの茎をひとまとめにしたりと忙しく働いていた。男性は各地に出稼ぎに出ているらしく、あまり見かけなかった。
 強い日差しの照りつける中、隠れようのない、あまりに広大な畑を人の手で手入れする姿に、クラクラしてしまった。真ん中に小さく見えるのが働く女性達。(2004年撮影)

【元末に雲南に移動】
 もう一つの例は元朝末期に雲南に行ったモンゴル人です。

 明の軍隊に次々と敗戦したとき、多くのモンゴル人が北のモンゴル高原に移動しているなかで、南方の福建などではモンゴル皇族を担いで仮の王朝を立てて最後の抵抗を試みていました。
 それらも陥落したとき、完全に明軍に抑えられてしまった中原を抜けてモンゴル高原に逃げ込むには時すでに遅し。
 最後の手段として皇族が雲南王として、なお存続していた雲南に流れ込んだ一族がありました。

 ちなみに、これは開遠や昆明、蒙自に散らばって今も住み続ける伍姓の家譜(日中戦争や文革の時に廟ごと壊され、内容残欠。)に書かれたものからの推測です。

 その伍姓家譜によると、彼らの始祖はフビライの孫の宣徳王フデシリ(不答失里)。
以前、触れたように雲南王は明軍に追い込まれて自殺してしまうので、せっかく雲南に行ったところで運命は暗転したまま。その子孫たちは明の時代は官職に就くことができませんでした。

 清朝に入ってモンゴル人と名乗らなくなると、科挙の地方試験に合格して挙人となって地方の県令を務めた人や民国期に広東の要塞の司令となった人が出ました。こうして官僚出身者に連なる漢族として、それなりの暮らしをしていたのですが、1979年から2005年までの間に一族のうち、開遠市内で100名ほどがモンゴル族の身分に戻ったということです。


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通海の民族⑦モンゴル族

2014-06-21 11:32:26 | Weblog
写真は全国でも最貧県とされている雲南省南東部の文山州の西「田寿(で一字)」県の様子(2004年撮影)。雲南省では政府が道路などの設備を作っているため「扶貧県」と呼ぶ。
 赤ちゃんのための正方形のおぶい布と帽子には細かくて色鮮やかな刺繍が施されており、民芸的価値すら感じる。代々使われているものなのかもしれない。
 現金収入は少ないため、結婚費用も出せず、嫁をもらうこともできないので、村内のみでの婚姻が進むことが問題となっており「一族以外と結婚しよう」などとのスローガンがペンキで書かれていた。山に囲まれていて、一番近い市場からも車で1時間はかかる。
 ただ、家族が常に寄り添って歩いたり、畑仕事をしたりしており、子どもはとても大事に畑脇の籠に寝かせられたり、おぶわれたりしていて、勝手な通りすがりの視点なのだが、ほっとさせられた。

【「恨み」は世代を越えて・・】
 元朝末期にして明朝初期、明の太祖・朱元璋が中国大陸をほぼ手中に収め、残るは雲南という頃。モンゴル人の多くが雲南から北方の高原へと急ぎ逃げ帰る一方、少数ながら雲南入りするモンゴル人もいました。これには2パターンあります。典型的な事例を取り上げましょう。

たとえば元朝枢密院の「ホトティムール(虎都帖木児)」。大都(北京)で政治の中枢にいた彼は明軍に投降し、最終的に雲南入りに加わりました。その戦闘で功績があったため滇南臨安衛(建水)に命ぜられ、次に通海でも任について、一家あげて雲南に移住しました。

彼は寝返り組なので、世代を越えて居心地の悪さが付きまといます。

1368年(明の洪武元年)、明の幹部の大粛正の時。虎都帖木児の母方の祖父が中央政府高官だったため死は免れたものの、「虎会喫猪」(虎は豚を食らう)ということわざにひっかけて、「猪」は明の朱元璋の「朱」と同音であることから、「虎」姓が朱元璋一家に災いをなすとの迷信が流れ、追われる形で山西省の大同に。
あまりの根拠のなさに例の外祖父が朱元璋に訴えて首都の南京に戻ることができたのですが、明朝に反しない誓いを立てるため「虎」姓から「火」姓に変えて、ようやく復職できたのです。後に、雲南に派遣され、8代、雲南で任官できました。

さて、モンゴル族全体が冷遇された漢族主体の明朝が終わり、元朝と同じく異民族の満州族が統治したため、モンゴル族でもよい官職が得られる清の時代に入ると、彼の子孫はそのルートから外されてしまいます。明に忠誠を尽くしたかどで、任官できず、ついに農民に身を落としたのでした。

13代目には一族の一部は通海から文山州の硯山、さらに現在中国では最貧県の一つに数えられている硯山より山奥の西(田+寿)県に移り住み現在に至っています。

1984年にかれらの一部は漢族からモンゴル族に民族を戻したということです。

改革開放期に入って、漢族から別の民族に戻す動きが見られますが、これには少数民族だと子どもが1人以上、産めたり、大学入学時も特別枠などの優遇があったりすることとも関係しているのでしょう。私の知り合いには同じ両親から生まれても、長兄は少数民族のイ族、次兄は漢族などと散らして登録している人もいます。     (つづく)
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通海の民族⑥モンゴル族

2014-06-15 13:38:33 | Weblog
写真は今回のブログでご紹介する本の表紙。中国の書籍には日本にはないセンスのものがあるが、この本はそれらの書籍群のなかでも群を抜いたインパクトである。上記の写真ではわかりづらいが左下の女性二人は、じつは表紙に貼り付けたように浮き出ているのだ。
 厚さ500ページ、一般的な研究書のA5版より大きく、ノートサイズのB5版より小さいぐらいの大ぶりさ。しかもオールカラーで写真も豊富なのに、値段が59元(約800円)と価格高騰の中国の書籍群のなかでは驚くほど安い。
 作者の王建華氏は、文化大革命終了後に吉林大学で地質学を修めた後、仕事の傍ら、コツコツとモンゴル族の文献を読んで史料を収集してきた。これを書籍化する際に尽力した内蒙古師範大学教授の孛児只斤・蘇和(ベイアーチティン・スーホ)以下、モンゴル族の人々の熱い思いが書籍の廉価化をもたらしたようだ。

【全国最小の姓を持つ人々】
「通海の民族②」で触れたように、雲南では曲陀関近くの杞麓湖畔のモンゴル族以外は、付近の民族に溶け込んでいき、モンゴル族と名乗らなくなりました。では、全国的にはどのような傾向があるのでしょう。

昨年、モンゴル族の子孫を家系ごとに追いかけた労作、王建華著『散居在祖国内地的蒙古族及後裔』(内蒙古出版、2013年3月)が出版されました。自らもモンゴル族の王建華氏が内モンゴル族自治区以外の中国国内で100近い家系が確認されている中から、43姓を歴史的に追いかけて検証しています。

この本によると、「内地」(内モンゴル自治区以南のこと)に170万人以上のモンゴル族の子孫が暮らしていますが、現在、90%以上がモンゴル族を名乗っていません。それどころか周囲の人が墓石にモンゴル文字が刻まれているのをみて「あなたの祖先はモンゴル族では」と言われて初めて意識した、というケースも少なくない、と書かれています。雲南の、通海で暮らす「阿喇帖木児」の子孫の「旃」「官」「華」氏は本当に稀な存在なのです。なかでも「旃」姓は全国で人口最小の姓の一つというほどオリジナル。右「旃」は「阿喇帖木児」の身分でしたね。

しかも「阿喇帖木児」の子孫は、全国でも唯一、明の時代に白眼視されず、モンゴル族の身分のまま任官できたのだとか。元初に曲陀関を拠点に雲南からミャンマー、ベトナム北部、広西の付近までを治めたアラティムール(阿喇帖木児)の治世のよさが、後の子孫を守ったのかもしれません。

さて、雲南のモンゴル族は上記のように元の時代初期にモンゴル高原から赴いた軍人とその家族のほかに、元末明初の時期に雲南にきた家系もありました。その事情は来週。  (つづく)


※以前より回族とモンゴル族が、雲南の歴史を考える上で、とても重要だと考えていたので、長くなっております。歴史は退屈、とおっしゃらず、もうしばらく、お付き合いください。
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