雲南、見たり聞いたり感じたり

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雲南の書記と副書記18 エリートの副書記

2017-07-30 13:56:33 | Weblog
写真は2006年の昆明市の中心部。急速な都市化が進む昆明には、どうしてもお金にまつわる汚職がつきない。汚職をによる前省長の辞任を受けて北京から雲南省長に任命された徐栄凱は、昆明空港に到着するなり、省内各部署の幹部職員を集めて、幹部会議を開き、「雲南省幹部職員倫理規定」をとりまとめ、金銭の授受の禁止を含め、細かい規定を徹底させるように布告を出した。

【理系の登用つづく】
令狐安の次の雲南省トップについたのが、現在、死刑判決を受けている白恩培。2001年12月末に雲南省委員会党書記に当選したときに、同時に党副書記を拝命したのが、次の4人でした。

徐栄凱、楊崇匯、王学仁、陳培忠。

このうち徐栄凱は雲南省長を兼任しています。2001年6月、収賄罪の罪で失脚した李嘉延にかわって北京から派遣されての省長就任でした。

彼は1942年重慶出身。清華大学動力学部を卒業し、1998年に国務院副秘書長を務めたエリートです。彼は2001年5月31日に副書記に任命されていたので再選です。次の雲南省の党書記を狙える位置につけているともいえるでしょう。

さてこの直後の2002年2月に胡錦濤が中国の党総書記にくわえて国家主席に選ばれています。このことと、彼の雲南への移転は関係があるのでしょうか。

じつは1989年の天安門事件で北京大学卒の人事が停滞したこともあって、以降、清華大学卒の政府高官が目立って増えていた時期でもありました。97年9月の第15回党大会では22名の政治局員のうち5名が清華大学卒。朱鎔基、胡錦濤、呉邦国、黄菊、呉官正です。

 胡錦濤は65年に清華大学水利学部を卒業しています。

これら政府高官のなかで、胡錦濤と清華大学時代にキャンパスで共に過ごし、個人的に親しい関係にある人は4人で、そのなかに徐栄凱がいました。
(つづく)

※参考文献:祁英力著『胡錦濤体制の挑戦』(勉誠出版。2003年)
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雲南の書記と副書記17 山西省の出身

2017-07-22 12:14:07 | Weblog
山西省大同市郊外の大地。春まだ遠い3月末で農閑期だが、大地にはためく白い紙の破片と思って、よく見たら、わずかな水分が飛ばないように農繁期に大地を覆うビニール製のマルチだった。ジャガイモを取った後、大地にビニールごと鍬ですき込んでしまったようだ。

【雲南出身者の壁】
 副書記は一人だったり、複数だったりするのですが、和の副書記の最終期にあたる1993年から1997年に同時期に副書記を務めた他省出身で漢民族の令狐安が、和志強を飛び越して1997年から高厳の後任として書記に昇格してしまいました。これが少数民族出身者、さらには雲南出身者が感じる雲南のガラスの天井なのかもしれません。

 令狐安は1997年、山西省の人で北京工業学院を卒業した人物です。しかし理系出身の政治家が中国では多いですね。たしかな技術が行政に必要との合理的な考えなのでしょうか。

 彼は前に指摘しましたが海外逃亡した高厳の後。令の次は、死刑判決を受けた白恩培。彼自身は雲南で省書記を務めたあと、全人代の列席代表をとなり、三峡ダム建設委員などを務めるなど順調な出世を一時、遂げました。

ちなみに長らく党総書記の胡錦濤の秘書を務め、党中央書記処書記、党中央統一戦線部長などを務めたものの昨年、収賄と国家機密違法取得罪などで無期懲役を受けた人物に「令計画」がいます。

 彼も山西省出身な上、本来の姓が「令狐」であったために、令狐安は令計画の親族との風評が流れ、
「彼は私の子でもなんでもない」
 と表明することに彼はかなりの労力を費やさざる得ない立場となりました。
 
 珍しい姓で目立つゆえの誤解。しかし、雲南の党書記を務めた人で近年、失脚の波をかぶらない人を探すほうがたいへん、というのも恐ろしい話です。
(                            つづく)
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雲南の書記と副書記16

2017-07-14 14:31:49 | Weblog
 大理の町並み。大理はぺー(白)族が多く暮らす。大きい伝統家屋は3房1照壁と呼ばれる構造をしている。コの字に廊下で連なった部屋があり、一面に光が反射しやすいまっ白(若干、墨のようなもので植物の絵などが描かれることもある)な漆喰壁を南面にもうけて中庭に風情をもたらす。このような家がホテルとして使われているところも。瓦屋根の漆喰のしっとりとした風情に藍染めの暮らしは、日本人にはノスタルジックな気分にさせてくれる。
 後ろの山は標高4122メートル、19の峰の連なる蒼山。ただただ美しい。

【副書記も雲南の少数民族出身者が複数に】
1 985年から雲南省副書記を務める麗江出身のナシ(納西)族の和志強の他に1989年から副書記として取り立てられた人物に尹俊がいます。

 彼は大理の洱源の人、そのあたりに多く居住する(ぺー)白族の出身です。それ以前は大理の経済の中心である下関市委員書記から市長となり、さらに大理白族自治州長に就任していました。雲南の現状に明るい副書記として迎え入れたのでしょう。

 彼は1993年に雲南省人民代表大会常任委員会主任へと転出しています。身分階級的には省副書記と同等の地位です。

 こうして雲南出身者により体制により雲南が安定してはじめた1995年に10年省書記を務めた普朝柱は退任し、替わって後にオーストラリアに逃亡し、逃亡高官のなかでもっとも地位の高い人物といわれるようになる高厳が吉林省長から雲南省書記として着任します。

 その時点では和志強は副書記として在任し続けますが、その3年後の1998年に1993年に副書記から尹俊とともに退任となりました。
                          (つづく)
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雲南の書記と副書記15

2017-07-08 11:07:36 | Weblog
写真は雲南のシャングリラ近くの雲南のチベット仏教の総本山・松賛林寺の壁に描かれた雪獅(チベット語では、gangs seng geガン・セン・ゲ)。中国の唐が栄えた頃にチベットをおさめていた吐蕃国以来の守るもの。チベット国、また現在のチベット亡命政府の国旗にも書かれている。
 日本の狛犬にそっくりに見えるが、日本に仏教が入った経路などに深く関連があるらしい。が、証明も難しい。そのことについては以下の川野明正氏のブログに記事があったのでご参照ください。(雪獅では、同じ角度の写真もありました)
http://ameblo.jp/kawa721/entry-11910203441.html

【民族自治の重視から生まれたコンビ】
 このコンビ成立には時代背景が大きく関わっています。

 1977年に10年続いた文化大革命の終結が宣言され、中国という国の立て直しが急務な時期でした。鄧小平ら中央の人々が中央政府の混乱を鎮めると次に重要視したのが少数民族地区の政策調整です。最初に中央政府が重視したのはチベット自治区でした。

 1980年2月に総書記に就任したばかりの胡耀邦総書記は5月22日にラサに飛んでチベット自治区を視察し、その後「民族区域自治の自治権を十分に行使する」など6箇条を定めました。翌年の4月にはチベット自治区の条項を元に「雲南民族工作紀要」が策定され、その後、新疆、内蒙古にも相次いで同様の紀要が出されます。(※)

 文化大革命期に弾圧を断行した毛沢東夫人・江青ら4人組の裁判が始まるのが1980年11月ですから、1981年の策定という点でも民族政策を中央政府がいかに重視していたかが分かるでしょう。

※浜勝彦「鄧小平の近代化政策」【アジア現代史シリーズ3】日本貿易振興機構(JETRO)アジア経済研究所 p.86-87、1995
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