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写真上は大理の中心部から離れた保山への街道筋。大理から保山への街道は昔から旅人が利用した。山また山、渓谷越えが多く、戦前に日本の東亜同文学院の若者が同ルートを通過の際にも尾根につくと、米線や飲み物など簡単なものが売られていたという。
と写真下は大理古城内・文化園客桟前の露天の様子。客桟とは中国では古くは酒店を意味し、同時に簡単な食べ物を用意していた。現代では簡易ホテルの意味を持つ。インターネット上のチャットの部屋も客桟と呼ぶ。(2005年春撮影。)
【旅人を甘酒でもてなすこと】
そもそも、雲南では昔から旅人には甘酒を出す習慣がありました。日本と同じです。日本で初もうでに行くと、今でも甘酒で氏子会などがもてなしてくれますが、同じ習慣といえましょう。
江戸時代ごろから伝わる伝統行事では、村で甘酒を大甕に仕込んで、祭りの日に皆で飲む習慣が残されている地域があります。
某雑誌の取材で話を聞くと
「役人がうるさいから甘酒と言っているけど、ちゃんとコウジで仕込んでるから3日以上経つと、それ以降は酒になるんだよなあ」と明るくおじいさんが話してくれました。すでにおじいさんの顔は赤ら顔。どぶろく、おそろし。
つまりコウジが生きていれば甘酒はアルコールになる。それだけに品質管理が重要になります。
清の康煕年間に書かれた『雲南通志・土司』ほかで、雲南のイ族などの少数民族の間でもっぱら造られていたお酒は葡萄酒のように果実を醸した果実酒が主。あとは、元代以降からさかんに造られはじめた粟やソバなどの雑穀、いまではおもにとうもろこしで造られるアルコール度数の高い蒸留酒となります。雲南では一部地域を除いて、高原が多く、冷涼な気候のため、お米が獲れる地域が限られていたためでしょう。
一方で漢族が住む地域では甘酒が主でした。明の地理学者にして旅行家の徐霞客が大理から永昌(今の保山)に行く途中の渓谷を越える時の記述には
「数家が南の峡谷にあった。橋のところでは『漿(どろりとした液体状のもの)』を売る者あり。糟がたくさん入っていて、それを啜ってみると、それは酒醸だった」(『徐霞客遊記・滇遊記之9』)
とあります。これは、どう考えても甘酒のようです。
*来週の更新はお休みします。体を壊しやすい時期ですので、みなさま、身体を大切におすごしください。
*川野明正著の白帝社アジア史選書011『雲南の歴史 アジア十字路に交錯する他民族世界』が昨年12月に出版されました。川野さんは、しょっちゅう雲南に赴き、奥さんも雲南の方、とどっぷり雲南に浸かっておられます。雲南の概説書は数冊、ありますが、ですます調のやさしい文体が特徴で、近代のことがよく書かれています。