雲南、見たり聞いたり感じたり

雲南が中心だった記事から、世界放浪へと拡大中

雲南味めぐり●市場から5 鶏肉

2007-11-30 22:34:23 | Weblog
昆明市郊外の店で食べた「土鶏」と野草の醤油炒め。分厚い中華鍋でカリっと揚げた鶏肉の香ばしかったこと。当然、骨ごといただきました。

【トゥジーとヤンジー】
 さて、同じニワトリでも昆明の市場には二種類あった。ブロイラー育ちの「養鶏(ヤンジー)」と、地面を駆け回って成長した「土鶏(トゥジー:地鶏のこと)」だ。当然ながら肉質は「養鶏」の方はやわらかく、「土鶏」はかたい。

 値段は「土鶏」が倍以上もするのだが、それだけの価値は十分にあった。まず、どんな調味料と合わせても味がよくなじみ、そればかりか風味を倍増させる底力があった。だから出汁にしても、炒め物にしても抜群の旨さを発揮してくれるのだ。とくにターメリックなど特長のはっきりしたスパイスとは絶妙なハーモニーを醸し出した。

 昆明で日本料理店を経営する日本人シェフOさんは、貧乏学生とみると
「カネに困ったら、『土鶏』を日本の料亭に持ってってみいや。驚くほど高く売れるでえ」

 と酔っぱらっては語っていたが、あながち嘘ではないのかもしれない。
 難点は、骨がついたままのぶつ切りなので、現代の日本で育った私には料理しづらく、食べづらかったことだ。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雲南味めぐり●市場から4 トリ肉

2007-11-24 00:08:20 | Weblog
【トリは一羽飼いが基本】
 昆明市中心区のような都会では、活きたトリを自宅で絞めるのは春節(旧正月)や遠方の親戚が来たときなどの特別な日に限られる。(ゴールデンウイーク前や国慶節前など休みが一週間もあると、宿舎では早朝から「コケー」と元気な声がこだました。連休が進むにつれ、徐々に聞こえなくなっていく状況は、妙にリアルだった。)

 したがって普段は、活きたトリよりも処理され肉となったものを買う人の方が多かった。

 市場の「肉区」には、羽と臓物を取り除かれたトリたちがずらりと並ぶ。そのすべてに安らかなお顔と、黄色い足が2本、当たり前のようについていた。一羽買いが基本で、気に入ったトリを重さを量って購入する。

 さすがにトリ一羽分ともなると3人家族では一度に食べきれないので、小分けして冷凍保存して使いきっていた。

 私の通っていた市場では鶏肉を売る人に「切って(砍:カン)!」と叫ぶと、おばさん大きくうなずいて、手にした大きな包丁でバンバン骨ごと砕いて一口サイズに切ってくれた。爪の先も「のどに刺さってはいけない」と目の前で一本ずつ包丁でたたき落とす。そして最後にトリの頭と足まで丁寧にビニール袋に詰めてくれるのだった。

 この「頭」と「足」がくせもので、どうしても最後まで慣れることができなかった。スープから、安らかなお顔が出てくるたびにぎょっとしてしまう。でもよい出汁が出るので、スープにはかかせない。

 また中国で主賓として呼ばれると、なぜは彼らは、ごちそうだといわんばかりに、お顔や足をわざわざ取り分けてくれるのだ。あまりにうれしそうによそるので「これは、いやがらせかしらん?」」とも思ったが、中国の人にとっては宝物のような子供にも、無条件に取り分ける様子を見ると、どうももてなしの基本であるらしい。

 さて、初めて市場で、しっかりもののおばさんからトリ肉を一羽分、買ったときのこと。
 子連れの私を見るや、
「子供の口に合わせたサイズにまで切ったほうがいいだろう」
 と、あっという間に迫力たっぷりに切っていくのには度肝を抜かれた。次に行ったときには、ちゃんと

 「子供は喜んで口に入れたか?」と真顔で聞く。私が「喜んで食べた」というと、納得したようにうなずくのだった。そして驚くべきことに一月ごとに子供の口に合わせて、その切り分けるサイズが大きくなっていった。その心遣いが、うれしかった。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

なごみのページ・豚写真館2

2007-11-16 23:23:41 | Weblog
 前回、写真に載っている黒豚は「食用ですか」との質問がありました。あまりのかわいさに情がうつるけど、やっぱり食用なのです。耳に金属製のタグがついているのがお分かりいただけるかと思いますが、それがその証拠。正規のルートで育てられ、売り買いされるという証明です。闇ルートのものでなければ出生時から管理されているのだそうです。(雲南省中部の硯山市付近の農村にて撮影)

 あの写真にいやされたとの話を聞いたので調子にのって、豚写真シリーズ第2弾。上記の写真も文山の農村にて撮影。とにかく放し飼いの豚はそこら中にいます。のびやかに育てられているためか、かわいく感じられるものが多いのです。彼らは手当たり次第、落ちているものを拾い食いして大きくなります。

 ある料理屋でトイレを借りたときのこと。裏にある納屋のすみにあるトイレにいくと、落ちる先からまばゆい光がもれている。地面か下水道じゃないの? と気になって管をたどると、豚がその先で食べていた。循環ってすばらしい!

 そこは、北京へと続く茶馬古道の起点として知られる易武では有機野菜を使う店として知られたお店。タクシーの運転手さんが吟味に吟味を重ねて選んだ私たちの昼食の場所でした。さすがです。その後、絶品の豚肉料理が出されましたが、しばらく胸がいっぱいで・・。でも結局は、おいしそうなにおいに負けて食べました! ごちそうさま。
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雲南めぐり●市場から3

2007-11-09 23:14:33 | Weblog
【はじける挽き肉】
 豚肉と牛肉、それと雲南では春節(旧正月)前にだけお目にかかる羊肉は、たいてい肉の解体専門市場で皮を剥ぎ、臓物を切り取ったものを、さらに部位ごとに500グラムぐらいの固まりに切り刻まれて売られていた。人々はそれを一つ一つ丁寧に見て吟味し、量り売りで買うのである。

 運搬の仕方もおおざっぱなもので、朝方に街を歩くと、皮を剥ぎ取られ、臓物を取り除かれた豚一頭がバランスよくバイクの後ろの台にくくりつけられて、排気ガスの多い通りを過ぎていく光景に出くわすこともあった。一頭買いした結果なのか、運搬途中だったのかは分からない。とにかくバスを待っていると、死んだはずの豚のほほえみ顔と目があってしまうのが、不可解だった。

 さて、昆明周辺にはいくつかの国営農場出身の大養豚場があるにはあるのだが、地方では、まだ豚を家ごとに大切に育てているほうが一般的だ。それらの豚は放し飼いされ、残飯をもらったり、そうでない場合は庭の回りをずっと下を向いて手当たり次第、口に入れたりして一日を過ごしていた。そのせいもあるのか、豚肉は何を食べてもおいしかった。味は濃厚、堅さもほどよく、牛肉のようにあごが痛くなってもなおかみ切れない、という事態にはならないのもうれしかった。

 挽き肉は機械で押し出される日本のものとは違って、人の腰ほどの高さの切り株でできたまな板の上で、刃渡り二〇センチ厚さ一〇センチはあろうかという重そうな包丁で「バンバン」と細かく切り刻んでつくり出す。炒めると小さな肉のかたまりが口の中でプチプチとはじけて、旨みがゆっくりと広がっていく。

 その、まな板のすり減り具合で店の信用が量られるのか、店の人が「うちの店はこのまな板だよ」と自慢していたこともあった。
 
コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雲南めぐり●市場から2

2007-11-02 10:10:37 | Weblog
写真は市場で静かに‘時’を待つ食用カエル。

【市場に並ぶもの】
 昆明の大型の市場の建物内部は、コンクリートで打たれた床と、そこから立ち上がる幅一メートルほどの細長いコンクリートのテーブルで出来ていた。売り場を区画ごとにおおまかに区切り、種類ごとにわかりやすく並べられていた。

 漬け物や豆腐、味噌、唐辛子類、こんにゃくなどを置いた加工区、野菜区、肉区(牛、豚、鳥、羊など細かく分かれている)、魚区などの中心となる区と、それらを囲う形で麺屋(小麦麺、米麺など)、豆屋(大豆、緑豆、米など)、金物屋、果物屋などがあった。

 野菜区には、じゃがいもなどの常設の野菜のほか、いつもは空いている臨時のスペースに、春なら山菜、夏、秋ならキノコや蜂の巣などが日本では考えられないほどの豊富な種類でどっさりと並ぶ。これらは野生のものなので、他の野菜に比べると高めの値段となっているが、ちゃんと一日で売り切れていた。これらをねらうには夜明けに採れたものを持って行く朝方か、日中に採取したものが並ぶ夕方がよい。日中には売り切れてしまい、手に入れることができないのだ。

 また日本の一〇〇円ショップ向け製品が陳列された「一元(約一六円)ショップ」や「五角(約八円)ショップ」もあった。

 日本と違うのは、にわとり、うずら、あひる、うさぎ、すっぽん、蛙、魚、へびなどが活きたまま売られているところだ。冷蔵設備のない市場ではもっとも理想的な販売法なのだろう。

 ただし、雲南についた当初はこの活きたまま売られる区画が怖かった。人々は大人の鶏なら足をしばって逆さに持って歩いていくし、ヒナならかごごと運んでいく。「ピヨピヨ」という甘い声が哀れに響いた。

 どうしても食べ物になるとは思われず、「無事に成仏してください」と祈りながら、生き物の活気に気圧されないように一歩一歩力を込めて通っていたのであった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする