雲南、見たり聞いたり感じたり

雲南が中心だった記事から、世界放浪へと拡大中

雲南の病院5

2012-07-27 18:05:40 | Weblog
写真は昆明の繁華街・南屏街の裏道の生活道路にて。「雲南中医医院」とかかれた看板の両側は「激光、整形美容」の看板が。街の小さな医院は、「美容整形」するところと、地位的にはあまり変わらないように、街並からは見える。(2010年撮影)

【B超】
 ごく普通の人々が愛読する昆明の地元紙の広告で一番多いのは、「失眠」つまり、不眠に悩む方向けの薬や枕、「人流」のできる施設の紹介、「人造美女」つまり整形手術のできる病院の紹介などの医療関係です。雑誌の記事にも男女の産み分け指南など普通に書かれています。モラルのあけっぴろげぶりにちょっと驚きます。

 そんな中、昆明の街にやたらと多い病院に「婦産科」があります。産婦人科医院のことです。個人経営の小規模なもので、「婦産科」という看板の代わりに大通りに面したガラスサッシの入り口や建物の上の方に「人流」「B超」「女性不孕」などという文字が印字されています。本当に気軽な、コンビニのような存在感です。

 上記の「人流」「B超」という文字が何を指しているのか。薄々とは察せられるものの、一般の中国語の辞書には、出てきません。中国語のインターネットの相談コーナー「百度」に病院の研修医が「B超は英語でなんですか?」などという質問をしていたので、はっきり意味がわかったという程度の、いわば俗称。

 「人流」は「人工流産」の略、「B超」は超音波エコー検査のことでした。ちなみに最新の中日辞典では超音波エコーの正式名は「超声波診断」とありました。

 掲げられている文字から婦産科が産むための場所というより、その逆の需要が高そうなことがうかがい知れます。これは中国の一人っ子政策のもたらす必然の景色でしょうか。
(つづく)
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雲南の病院4

2012-07-22 10:39:04 | Weblog
写真は昆明の繁華街の裏手の映画館脇の店。「漁の船」という趣のある看板の下には「韋魚小丸子」の文字が。「韋魚」はたこ。つまり、たこの小さな丸めたもの、日本のたこ焼き屋さん。その左下の「清涼夏日冰淇淋」の文字には「日本ソフトクリーム」の添え字、右下にはズバリ「たこ焼き」。
(2010年夏撮影。日本の小吃(おやつ)も、なかなか人気がある。たこ焼きのたこが小さかったのが、やや不満!)
 ちなみに中国でも「ちびまる子ちゃん」は人気だが、その中国名は「桜桃小丸子」。中国の人は「たこ焼き」を連想してみているのだろうか?

【まだまだ大変な昆明の大病院】

 話を戻しましょう。福建では地元の知人がいたおかげで、迅速で的確な診療が受けられたのですが、このブログにコメントくださったhal-vvvさんの投稿を読んでも分かりますが、中国の人が医療を受けるのはそう、たやすいことではない、とのこと。娘はたまたま運がよかっただけで、腕の確かな医者の圧倒的な少なさや都市への偏在ぶりなど、問題も多いようです

(福建は中国医学と西洋医学のバランスがとれた医療技術が高い地域のようです。福建出身で福建の大学で医学を学び、その後、アメリカに留学、日本で鍼灸・漢方を中心とした病院を開設している人もいて、腕前は確かです。)

 昆明の大病院の前では、薬局に並ぶのではなく、たくさんの人が手を出して、処方箋を渡して薬をもらうために、道路まで盛り上がるほどの混雑ぶりでしたし、中国の大学生と病院に行った日本の留学生は、病院の診療を受けるまでに3時間待った、と話していました。

 ちなみに昆明に永住の覚悟で滞在していた日本人家族は5歳の子がひどい熱を出した際には、昆明からぐったりした子を奥さんが担いで飛行機に乗せ、日本まで連れ帰って治療を受けさせていました。そして病気が治ったら、昆明に戻っていました。昆明の病院の診療には、やはり不安を感じていたのです。
 一方で親であるご自身が病気にかかったときはというと、病院にかかることなく、市販の漢方を買ってきて、あとはひたすら寝てセルフケアをして、根性で治していました。(結局、この家族は昆明での事業を撤退し、3年前に日本に帰国しました。)

 また、私の知り合いの中国で就職している日本人は、人件費が高騰しているとはいえ、まだまだ日本ほどではないため、日本の国民健康保険の代金を滞納しているそうです。日本の年金の負担も半端ない、と嘆いていました。まともに考えると、将来への不安が山ほどありすぎて、大変です。

 一方で中国の大都市の医療技術は、まあ、よいので、たいていの病気は全額払っても日本ほどは高くはない中国の病院ですませる、歯医者もね、と、強気の発言をしておりました。

                                 (つづく)
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話の横道の横道・福建にて

2012-07-16 11:45:15 | Weblog

木材加工場の電話。従業員の私用を防ぐためか、電話番号を押す部分がしっかりと鍵で閉じられている。社長が鍵を持っているらしい。(2002年撮影)
【100円ショップと茶葉】
 ちなみに2000年代前半、福建省は日本の百円ショップの生産基地でもありました。木材を加工して木箱などを作る10人程度の小さな工場や竹細工の加工場などが山奥に点在しています。

(2000年代後半からは家具などの高級品も作るようになりました。当初は福建の木材を使って加工していましたが、品質の面からも徐々に木材の多くは北アメリカからの輸入ものが増え、いまでは9割以上を占めるようになりました。)


 また、木材をチップにして、それをビニール袋にぎゅうぎゅうに入れて、ぼちぼちとところどころに穴を開けて菌糸を埋め込み、遮光された小屋で作る椎茸や、文革以来のお茶栽培もさかんに行われていました。(日本に多く輸出されるものです。)

 行った頃は8月前半だったのですが、ジャスミンティーに使うジャスミンの花や、ウーロン茶などに使う茶葉の収穫シーズンに当たっていて、すばらしい香りが朝靄の畑に漂っていました。

 茶葉は丁寧に蒸されて、手もみされ、まずは緑茶の茶葉に加工されます。これまた山奥の茶畑の片隅にある加工場にいくと、加工途中のお茶が機械からはき出されて、コンクリートの床面にじかにはき出されていました。びっくりしたのは、その隣に大きな蝿がびっしりといて、音がぶんぶん聞こえる巨大なぼっとんトイレが併設されていたこと。

(写真は茶葉工場の最終工程。ここはきれい。)

 ここは、かつて文革時期(1969年からおよそ10年間)に北京や上海から10代後半の学生たちが送り込まれた知識人収容所でした。若い彼らだけで合宿生活を強制され、この辺りの茶畑を慣れない肉体労働の中で切り開いたのです、と地元の方から聞きました。

 このトイレは、その学生たちが使用していたものなのだそうです。
〔文革時代(1969年から10年間)、中国共産党中央は都会の学生を遠方の農村で労働させる「下放」政策を推進しました。都会の食料事情が極度に悪化したことと、政府への反抗などの余計な考えを持たせないための強制労働です。映画「紅いコーリャン」などを監督し、北京オリンピック開会式・閉会式の総合演出も行ったチャン・イーモウも、下放でずいぶん苦労したそうです。〕

 中国茶を入れる場合、作法としてまず、急須に熱湯を注いだら、一杯目はさっと捨てて茶葉を洗うのですが、この作業は必須なのだ、と、深く納得できました。

 日本だと、一杯目の濃い味を大切に飲みますよね。その習慣の違いから、日本人が中国茶を入れる場合は往々にして一杯目から大事に飲む傾向がありますが、これはとても危険な行為だったのです。

 福建に着いてからの楽しみに茶館でのティータイムがありました。
 ちょっとした大きな街にある、ちゃんとした茶館でいただくウーロン茶は日本で飲むのとは別物。芳醇な香りに酔い(本当にお酒を飲んだようによっぱらってしまうのだ)、甘い味に感動していました。

 ですが、あの茶葉の製造工程を見て以来、しばらくは口に含むのを、ためらうように。
 とはいえ、中国ではお茶なしでは、どうにも喉が渇いて生きてはいかれないので、やがて時間とともに、熱湯にさえくぐらせればオーケー、などと徐々にハードルは低くなっていきました・・。
                    
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話の横道 福建の大病院2

2012-07-06 14:09:25 | Weblog

写真は福建省の東北部の山間に位置する寧徳市屏南県のある小さな村に暮らす元気な子供達。主要道路以外は袖振り合う程度の小さな路地なので、大人の目が行き届き、子供はのびのび。子供たちは連れだってはどぶのような川で魚釣りをしたり、鬼ごっこをしたりと元気いっぱい。

 福建は血族意識が中国のなかでもとりわけ強いので、夏休み時期ともなると、中国各地にちらばった親戚中の子供が、おじいさん、おばあさんの暮らす家に集まる。(親は子供がいなくなったとせいせいとして暮らす。)いつもは一人っ子で大事に育てられる子供が、まるで兄弟のように、いとこ同士で遊んだり、ケンカしたりと、にぎやかこの上なかった。

【診療代、30円】
 さて、鼻血を出して8日目、ようやく福建の山奥から福州へ到着。

 一度はよくなりかけた娘の鼻からはあまり性質のよくなさそうな鼻汁が出てきました。鼻血の跡が化膿しているのでは、と心配になり、すぐに福建省夫婦の付き添いで省立中央病院に直行。夜9時半に、蛍光灯の青白い光が窓から漏れ出る、ちょっと古めの大学の実験棟のような立派な建物です。

 すぐに受付を通され、小児科へ。鼻を見せると、耳鼻科に回され、診察を受けることができました。
 先生は白衣を着て、恐怖で泣き叫ぶ娘の鼻をささっと見ると「単なる鼻水」との診断を下し、処方箋を渡してくれました。その薬とは、毛沢東が晩年、愛飲したという漢方薬・麻黄入りの透明な液体でした。(麻黄はアレルギー性鼻炎の初期症状に効果があるそうです。他にもいろいろ。)

 全行程、30分。そして診察代はたったの2元(30円弱。)
鼻も2,3日使っていたら、見事に治りました。おそるべし、麻黄。

 ちなみに2元というお金は福建の人にとって、どれだけの重みがあるか、です。福建の山奥で一日、力仕事をすると、手取りが25元(375円)。ずいぶんと安い労賃に驚きましたが、そういう人たちでも病院には行ける、という金額なのです。

 なんだかんだ言われていても共産党政権下の社会保障の手厚さには驚きました。普段の食事よりも安い金額で一流の医療を受けられる。そういえば日本で質素に暮らす件の福建省夫婦も、「いつ、中国に戻っても、大学の仕事の口はあります。年金もコレダケちゃんともらえます。」
と蕩々と、人生設計を政府への信頼感たっぷりに語っていました。

 いまでは医療費もだいぶ高くなり、社会も不安定になっていますので、中国の人が政府に今でも信頼を以前ほどは寄せているとは考えられないのですが、10年前は、少なくとも、医療費を安くするということは社会主義の屋台骨に関わる重大事なのだ、と感じました。  (つづく)



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