写真は、雲南省中南部の文山州の山奥で見かけた平船。(2004年撮影。)水に潜り込みそうなほど、平たい。雲南では働き者は女性なせいか、地元の女性たちがこれらの船を長い竿で漕いでよく荷物を運んでいた。また近くの急峻な川にはこれらの船を真横に並べて上に板を渡した浮き橋も見かけた。本文に出てくる28漕の船というのは、もしかすると橋げたになっていた船だったのかもしれない。
【四川での一戦でも】
このような知恵者でしたが、クビライが見込んで雲南に派遣しただけあって、それ以前でも、芝居にでもしたくなるような見事な治め方をしているのでご紹介しましょう。
雲南に来る4年前の1270年(至元7年)、陝西・四川等行中書省平章政事として南宋(北宋を女真族に奪われたあと、いわゆる漢人が現在の杭州を首都に再興した政権。)と交えた四川での一戦でのこと。
(1271年に元王朝がクビライによって打ち立てられる、その直前の戦い。ちなみにモンゴル軍が南宋を事実上、倒すのは1276年。)
宋側は強兵で守りを固めましたが、サイジャチ(=サイード・シャムスッディーンの名称)は塁を築いてむやみに戦闘を仕掛けず、誠意を持って宋の将軍が投降するのを待ちました。けっして侵略しない様子に宋の将軍・万寿はすっかり心服します。やがてサイジャチは召還されることになり、戦場を離れることになりました。
そこで万寿将軍はサイジャチに会ってよしみを通じたいと酒席に招待しました。サイジャチ軍下のものは罠ではないかと難色をしめしましたが、サイジャチは疑うことなく出かけていきます。
さて酒が出されますと、また配下のものは「お飲みになってはいけません」と必死で止めました。
サイジャチは笑って
「おまえ達はなんと小者なのだ。将軍が私に毒を盛られるというなら、飲み干せばよいではないか!」
と言い放ったので、万寿はすっかり嘆服したのでした。
翌年、大軍が襄陽(長江の支流の漢水のほとり。三国時代より交通の要衝地として重要な戦場となった)を囲んだ時にはサイジャチは兵を率いて水陸両方で進軍し、宋将2人を捕らえると、筏で激流を下り、浮き橋を断ち、28艘の船を獲得するという戦果を挙げました。
さらに(サイジャチが長となっている役所の)行省事に命じて、彼らに食糧を独自の判断で振る舞ったのでした。(『元史』巻125列伝12サイジャチ伝より)
このように人心掌握術ばかりでなく、いざというときの戦術にも長け、胆力もなみなみならぬものがあったのです。 (つづく)
【四川での一戦でも】
このような知恵者でしたが、クビライが見込んで雲南に派遣しただけあって、それ以前でも、芝居にでもしたくなるような見事な治め方をしているのでご紹介しましょう。
雲南に来る4年前の1270年(至元7年)、陝西・四川等行中書省平章政事として南宋(北宋を女真族に奪われたあと、いわゆる漢人が現在の杭州を首都に再興した政権。)と交えた四川での一戦でのこと。
(1271年に元王朝がクビライによって打ち立てられる、その直前の戦い。ちなみにモンゴル軍が南宋を事実上、倒すのは1276年。)
宋側は強兵で守りを固めましたが、サイジャチ(=サイード・シャムスッディーンの名称)は塁を築いてむやみに戦闘を仕掛けず、誠意を持って宋の将軍が投降するのを待ちました。けっして侵略しない様子に宋の将軍・万寿はすっかり心服します。やがてサイジャチは召還されることになり、戦場を離れることになりました。
そこで万寿将軍はサイジャチに会ってよしみを通じたいと酒席に招待しました。サイジャチ軍下のものは罠ではないかと難色をしめしましたが、サイジャチは疑うことなく出かけていきます。
さて酒が出されますと、また配下のものは「お飲みになってはいけません」と必死で止めました。
サイジャチは笑って
「おまえ達はなんと小者なのだ。将軍が私に毒を盛られるというなら、飲み干せばよいではないか!」
と言い放ったので、万寿はすっかり嘆服したのでした。
翌年、大軍が襄陽(長江の支流の漢水のほとり。三国時代より交通の要衝地として重要な戦場となった)を囲んだ時にはサイジャチは兵を率いて水陸両方で進軍し、宋将2人を捕らえると、筏で激流を下り、浮き橋を断ち、28艘の船を獲得するという戦果を挙げました。
さらに(サイジャチが長となっている役所の)行省事に命じて、彼らに食糧を独自の判断で振る舞ったのでした。(『元史』巻125列伝12サイジャチ伝より)
このように人心掌握術ばかりでなく、いざというときの戦術にも長け、胆力もなみなみならぬものがあったのです。 (つづく)