写真はシーサンパンナ景洪市内にあるミャンマー人宝石店(2005年撮影)。中国人が好む緑色や乳白色系の翡翠を主に扱っている。
わざわざ緬甸人(=ミャンマー人)と入れるのは、本場から直輸入した本物感を出したいため。昆明市内にもこのような店が多く連なる通りがあり、観光客が多くくるため、スリなどが頻発する通りとしても有名だ。何度説明を聞いても、私には翡翠はどの色や質感が価値があるのか今ひとつわからない。要はフィーリングが合えばいいのだと思うことにしている。
皇帝が古来、最高位の権力の象徴として用いる「玉」。その素材に18世紀以降に鮮やかな緑色の玉として加わったのが、ミャンマーで採れる翡翠である。台北故宮博物院の清の皇帝が所有した白菜の形をした玉が有名だ。
ところで、ここから33キロ先にはミャンマー国境がある。周恩来がミャンマーと中国の国境線を確定したのが1960年。いろいろと周辺国と紛争を起こしている中国が確定した最初の国境で、周恩来が国境確定のために訪れたという打洛には記念碑と記念公園が国境線となった川横にあった。中国発行の地図によっては打洛など国境沿いの地名が省かれていることが多い。それだけ微妙なのだ。写真撮影も禁止だった。
だが、それ以前はもちろん、行った人の話では20年ほど前でも地元の人たちはごくごく散歩するようにミャンマーと中国国境を行き来していた。親戚が国境をはさんで居る人たちも大勢いる。
中国が強引な開発を周辺、とくにミャンマーに対して行っていて、現地住民とも問題を起こしているが、その開発拠点の多くが昆明である。
【沐氏政権の最後】
15代目の沐天波が雲南の統治者となって10余年。土司の沙定洲という人物が雲南府(現・昆明)で反乱をおこしました。天波は永昌(保山市周辺。ミャンマー国境に近い)に逃げ、一緒に逃れた彼の母の陳氏と正妻の焦氏は自殺。本人は乱が収まるや雲南に戻ります。
同時期に明王朝滅亡直後に明の官僚が押し立てた南明王朝の永歴帝がミャンマーに逃げ込みます。じつは永歴帝を押す一派は当初、沐氏一族が沐英以来築き上げてきた財宝を頼みに雲南に逃げ込む予定でしたが、この反乱で財宝が無くなったことを知り、目的地をミャンマーに変更したのです。
天波もミャンマーに同行します。そこで永歴帝らはミャンマーの王の裏切りに遭い、天波はついに最後を迎えたのでした。
(『明実録』では尻込みする明の遺臣の中で一人、毅然とミャンマーの王に抵抗して戦いの中で戦死。『明史』では天波の妾の夏氏がミャンマーについていかなかったので、自焚死した、とある。『明史』は沐氏政権後期を、ひ弱で情けなく描く傾向がある。)
永歴帝はミャンマーの王から清の雲南征圧に訪れた将軍・呉三桂に引き渡され、昆明の城内で殺されます。
このような微妙な時期だったため沐天波は数十日もの間、埋葬されませんでしたが、死体は破損することなく、人々に感慨をもよおさせたといいます。
こうして沐氏一族は明の滅亡まで雲南の最高権力者の地位をまっとうし、明の滅亡とともにその役目を終えたのでした。 (つづく)
※この章はあと1,2回で終わります。もう少しだけおつきあいいただけるとうれしいです。
その次はおいしい話です。
わざわざ緬甸人(=ミャンマー人)と入れるのは、本場から直輸入した本物感を出したいため。昆明市内にもこのような店が多く連なる通りがあり、観光客が多くくるため、スリなどが頻発する通りとしても有名だ。何度説明を聞いても、私には翡翠はどの色や質感が価値があるのか今ひとつわからない。要はフィーリングが合えばいいのだと思うことにしている。
皇帝が古来、最高位の権力の象徴として用いる「玉」。その素材に18世紀以降に鮮やかな緑色の玉として加わったのが、ミャンマーで採れる翡翠である。台北故宮博物院の清の皇帝が所有した白菜の形をした玉が有名だ。
ところで、ここから33キロ先にはミャンマー国境がある。周恩来がミャンマーと中国の国境線を確定したのが1960年。いろいろと周辺国と紛争を起こしている中国が確定した最初の国境で、周恩来が国境確定のために訪れたという打洛には記念碑と記念公園が国境線となった川横にあった。中国発行の地図によっては打洛など国境沿いの地名が省かれていることが多い。それだけ微妙なのだ。写真撮影も禁止だった。
だが、それ以前はもちろん、行った人の話では20年ほど前でも地元の人たちはごくごく散歩するようにミャンマーと中国国境を行き来していた。親戚が国境をはさんで居る人たちも大勢いる。
中国が強引な開発を周辺、とくにミャンマーに対して行っていて、現地住民とも問題を起こしているが、その開発拠点の多くが昆明である。
【沐氏政権の最後】
15代目の沐天波が雲南の統治者となって10余年。土司の沙定洲という人物が雲南府(現・昆明)で反乱をおこしました。天波は永昌(保山市周辺。ミャンマー国境に近い)に逃げ、一緒に逃れた彼の母の陳氏と正妻の焦氏は自殺。本人は乱が収まるや雲南に戻ります。
同時期に明王朝滅亡直後に明の官僚が押し立てた南明王朝の永歴帝がミャンマーに逃げ込みます。じつは永歴帝を押す一派は当初、沐氏一族が沐英以来築き上げてきた財宝を頼みに雲南に逃げ込む予定でしたが、この反乱で財宝が無くなったことを知り、目的地をミャンマーに変更したのです。
天波もミャンマーに同行します。そこで永歴帝らはミャンマーの王の裏切りに遭い、天波はついに最後を迎えたのでした。
(『明実録』では尻込みする明の遺臣の中で一人、毅然とミャンマーの王に抵抗して戦いの中で戦死。『明史』では天波の妾の夏氏がミャンマーについていかなかったので、自焚死した、とある。『明史』は沐氏政権後期を、ひ弱で情けなく描く傾向がある。)
永歴帝はミャンマーの王から清の雲南征圧に訪れた将軍・呉三桂に引き渡され、昆明の城内で殺されます。
このような微妙な時期だったため沐天波は数十日もの間、埋葬されませんでしたが、死体は破損することなく、人々に感慨をもよおさせたといいます。
こうして沐氏一族は明の滅亡まで雲南の最高権力者の地位をまっとうし、明の滅亡とともにその役目を終えたのでした。 (つづく)
※この章はあと1,2回で終わります。もう少しだけおつきあいいただけるとうれしいです。
その次はおいしい話です。