雲南、見たり聞いたり感じたり

雲南が中心だった記事から、世界放浪へと拡大中

英雄のつくられ方4

2008-05-30 17:01:08 | Weblog
写真は徳欽周辺の道路工事をする人たちの子供。家族で工事現場にテントを張り、山羊の面倒をみながら、子供と暮らす人たちもいた。

【山の上の学校】
 その後、希望者10人ほどでシャングリラから徳欽へと車で移動した。その車中、彼は私の隣に座り、私を一度も見ることもなく、窓の外を見て、みんなに説明をしては、私の肩に体重をもたせて、ぐっすりと眠る、その繰り返しの一日だった。

 深い谷をみると、
「あの崖の上の建物には、チベット仏教のお坊さんが文字などを教えている。成人女性もけっこう、通っているんだ」

同乗したNPO関係の若者たちは
「えー? どうやってあの崖を毎日登るの?」

 学校のない村での教育状況には、とにかく詳しかった。心の狭い私はそのときはひたすら「せめてすみません、ぐらい、いってくれないかなあ」と考えてばかりいたのだ。

 やがて徳欽につくと「今日は街の図書館に寄って、友達の家に泊まる」と言い残し、さっさと消えてしまった。それきりだった。


 とにかく私には、不遜なほどの自信家さん、という強烈な印象ばかりが残り、周囲の目も「明永村で学校の先生をやっている」という認識以上のものはなかったのである。

 それは彼の家族も同様のようだった。雲南省副書記が彼の家に行方不明となった10日後に感謝状を送ったとき、彼の家族は心底驚いたらしく、母親は「次男がそんな立派な仕事をしているなんて知りませんでした。とにかく、いまはそっとしておいてください」と控えめに述べるのみであった。
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英雄のつくられ方3

2008-05-24 06:41:34 | Weblog
写真はシャングリラのホテル街の裏側。表の街路は急ピッチで開発が進むが、下水道整備などは一切なし。この水を牛は飲み、「高原の無汚染の牛乳」として売られている。こんな汚水からもきれいな緑と花が生み出されていた。

【シャングリラの環境保護会議】
 彼の行いと経歴が記者たちによって徐々に明らかとなってきた遭難9日後に雲南省副書記丹増が「馬驊同志に敬意を込め」て、彼の兄に手紙を送った。内容は貧困山区で教育事業を興し、辺境の少数民族地区の改変に心を砕いたにもかかわらず、いっさいの名声も報酬も要求することがなかった高度な行動と精神を賞賛するものだった。

 多少、誇張しすぎと思いつつも、10日後にでた彼の写真を見て驚いた。シャングリラから徳欽まで旅をともにした青年だったのだ。

 2004年6月10日、雲南省社会科学院を中心に各国の中国高地環境のエキスパートが集結し、「シャングリラ周辺の環境保護国際会議」が開催されていた。シャングリラの環境保護活動に携わるNPO団体や、現地の住民とともに環境保護活動を続けるチベット仏教の活仏僧、村の長老ら総勢100人ほどが参加し、4日間かけてそれぞれの立場の研究報告と現地視察、夕方の交流会が催された。夫も中国の歴史環境研究者の立場で参加した。

 会議の間、私は娘と外を散歩し、汚れきった河とゴミの散乱現場をみては「会議の人達もホテルにばっかりいないで、外を歩けばいいのに」と思っていたが、たまに会議に立ち寄ると、チベット衣装に身を包んだ地元の人が

「梅里雪山をわれわれは昔から『カワクボ』と呼んでいる。このような会議なのだから、せめてそのように発言してはいかがか」
 と、時折、いらだちとも採れる発言が上がっていたので、あまり身のある会議ではなかったようだ。

その夕方の交流会に彼はいた。


 シンガポールに籍を置くネイチャーフォトグラファー、大学で英語を専攻したものの長らく地元を離れていたため、現地の事情にはうとい女性など、会議の裏方として英語も話せる中国人の若者が多数、参加していた。

 当日までに彼のする仕事は終わっていたのか、女の子が立ち働く中、彼は猫背姿で斜に構え、会う人ごとに議論をぶつけ、とにかくしゃべり、テーブルの上の料理をつまむ。
 服装は若者グループとはいえ皆がそれなりの格好をしている中、頭に黄色のバンダナを巻いた、ちょっと汗臭い感じの青年だった。現代の環境に携わる中国青年というのはヒッピー風なのか、と驚いたものだ。
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英雄のつくられ方2

2008-05-16 23:30:25 | Weblog
写真は天津の街角。北京とは高速道や電車で2時間以内の距離。全国で4カ所しかない直轄市の一つで大都会のはずなのだが、どこか垢抜けない雰囲気がおもしろい。茫洋としてとらえどころのない都市。排ガスをまともに吸わないように頭から肩まですっぽりと覆う女性の姿が目立つ。まるでダースベイダーの子分たちのようだ。

【都会からの憧れ】
 馬驊(マーフア)は天津の一般家庭に生まれ、1996年に上海の復旦大学(「北の北京、南の復旦」などとも呼ばれる一流大学)を卒業。北京で外国資本のコンピュータ会社に就職し、高給取りとなった。まさに中国のエリートコースを進んでいたのだ。

 ところが2年後に辞めて、北京で芸術青年の投稿誌である『新青年』系列のインターネットサイト「北大在線」で3年間、主要メンバーとして運営と投稿を続ける生活に入る。
 やがて友人に「ベトナムのほうへ行く」と告げて、ふらりと立ち去った。友人らはその当時の彼を振り返り「じつに不可思議な生活だった」と回想している。低収入の生活を大都会で送っていたのだから、これ以上の不思議はないだろう。

 ここまでの経歴は新聞やテレビでも取り上げられていた。ここからは報道されなかった話である。

 この「北大在線」は今でこそ、北京大学とIT企業の北大青島集団が共同運営する放送大学のような一大インターネットサイトとなっているが、創立当初は北京大学の学生を中心に新文化創造を目指して、1年間の準備期間をへて2000年4月にインターネットサイトを立ち上げたゆるやかな団体だった。
 小さな貸しビルの一角でサイトを運営するかたわら、書籍やDVDの出版を行ったり、映画『少林サッカー』チャウ・シンチーの講演会を開いたりと幅広い展開を見せていた。ところが2003年10月に突然、サイトが更新されなくなった。

 停止の理由は金銭面での欠乏が主だとメンバーらは語っているが、彼らを支えたIT企業の北大青島集団が経営権を完全に掌握したためともいわれている。ちなみに「青島集団」は「青島ビール」とはなんら関係はない。「北大在線」の活動拠点だったビルが「青島楼」という名前であることから、メンバーが名付けた会社名のようだ。

 当時をよく知る元「北大新青年総経理」の戚立峰は「『北大新青年』のことは思い出したくない。また今なお私の友達が北大にいるので、ごめんなさい・・。」とあるチャットで新青年のサイトが突然、つながらなくなった理由が論議されているところに割り込んで答えている。

 2003年といえば馬驊(マーフア)が北京を離れた時期。「北大在線」のなんらかの問題に嫌気がさして、彼は南へと旅立ち、明永村にたどりついたのではないだろうか。

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英雄のつくられ方1

2008-05-10 00:35:15 | Weblog
写真は徳欽県城からミンヨン村へと向かう道路にて。瀾滄江へ切り立った崖が両側から迫る。このあたりの道路の多くは崖の途中に無理矢理削りつくられているため、長雨が続くと崖崩れなどがおき、たいへん危険な道となる。

【どこにでもいそうな現代青年】
 2004年6月20日午後7時。長雨が降りしきる中、徳欽からミンヨン村へと子供らの学用品をリュックにつめて家路へとジープで急ぐ青年がいた。彼の行く道の片側には高度4000メートル級の頂が直立し、もう片側には濁流が渦巻く瀾滄江(メコン河の中国側の名称)が深く谷をえぐり、落差80メートルの崖となっていた。そこで彼の消息は途絶えた。

 いつまでも帰らぬ馬驊(マーフア)のために翌日から村人らによる捜索が始まった。2日目には村人のほとんどが生還を祈ってチベット仏教式の祈りを捧げ始め、9日目には死者への供養の祈りへと代わった。また遭難5日後には昆明から特派員記者がやってきた。やがて彼の生き方の独特の光彩に記事が集中しはじめた。

 彼は2003年にふらりとジーンズに緑のポロシャツ、よれたリュックを一つ背負ってふらりとミンヨン村へとやってきた。外見は典型的な都会の若者。30歳の彼が村に住みたい、というので、村の一隅を与えた。村長は場所を与えつつも「長くはいまい」とふんだという。

1週間後には一人でバスケット場とシャワー室、氷河の雪解け水を利用したトイレを作り上げ、子供たちを招き入れ、徐々に村人に受け入れられる。やがて小学生の英語教師を無償で志願し、週2回の授業を始めた。遠巻きでみる村人らも1年後に子供たちの学力がアップしたのを実感して、なくてはならない存在へとなっていった。

 ある時、風邪を引いた彼を見舞いに同年配の村人が訪れると、部屋に暖房といえるものはチベット式外套とワラのみ。あまりに身の回りにかまわない彼に粥をあげながら、日用品の提供を申し出ると、彼は烈火のごとく起こり「私はあなた方にお金がないことを知っている。そんなものをもらうためにきたのではない」とそっぽを向いたいう。

 そのため彼の遺品は鉛筆とノート、パソコンと粗末な机と布団ぐらいだった。そこからたくさんのミンヨン村に関する未発表の論文や詩が見つかった。彼は詩人であった。

 週末には一人、村の反対側の斜面に登り、梅里雪山を眺め、星を眺めては満足そうにしていた。その姿はさながら「神仙」であった、と村人は言う。

 記者が目を付けたのは、まず、彼の経歴だった。中国人ならだれでもあこがれる「一流」の経歴の持ち主だったのだ。   (つづく)
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市場の「目」

2008-05-02 21:18:52 | Weblog
写真はシーサンパンナ南部のモンルンにて。同地は高名な植物学者が都会から隠れるようにつくった大規模な熱帯植物園で有名だが、都市に脱皮しそこねた中途半端な田舎、といったところ。
 大都市でもないのに若者はズルズルっとサンダルをひきずるように歩き、物乞いも多い。
 早朝、目抜き通りを散歩すると、豚を散歩させるおじさんらに出会う。田舎なら放し飼い、上海などの大都市ではペットとしても飼われる豚だが、このムチを片手に散歩するおじさんの狙いはなんなのだろう。豚のメタボ対策として、中途半端なこの町ならではの風景なのかもしれない。

【「ウル目」のペンギン】
 以前から目には敏感だった。小学生の頃は、漫画雑誌のこわーい目のあるページを切り取り、中学では、歴史教科書の能面の目に耐えられず、そのページをのり付けした。そのために「東山文化」の暗記はできなかったが、目のためならやむを得ない、と納得していた。

 こんな私にとって、最近、耐えられない場所がある。JRだ。駅のホームの自動販売機の横に大きく見開かれたペンギンの目。なんという無造作な置き方なのだろう。ところどころの駅では心ある人もいるのか、目を隠すようにぴったりと缶ゴミの箱を設置してあったが、ごく普通の自動販売機ではいけないのだろうか。

 以前からSuicaのペンギンの目は、媚びたような,「ぼく、かわいい?」ともいいたげな上目づかいと、意識的になみなみの線でウル目を表現したあたりが苦手だった。単純なデザインなのに、線に細心の注意が払われているのか、念がこもっているように感じられるのだ。もしかしたら、それだけデザイナーの技量が優れているのかもしれない。理解はできるが、公共の場であの目はひどい。

 そういえば、魚の目も苦手だ。あの見開かれたビー玉のようなギョロ目。だから、魚は目をみないように調理し、イカは食べたい一心で、ほぼ目をつぶって、さばいている。

【おだやかな微笑みの謎】
 そこでふと、気がついた。中国の市場に並んだ肉の顔はどれもおだやかだった。横浜の中華街のものほどではないが豚はにっこり笑った顔になっている(舌、耳など部位別に日本の中華街でも売られてますね)。トリは瞑想したような顔にも見える。牛は頭ではなく、尻尾が看板がわりだったから、なにか意味があるのだろう。

 ともかく市場の「顔」はいずれも目をつぶっていた。当然、最初のころは、その迫力におののいたが、やがて受け入れられるようになった。

 もちろん、肉となった側としては命をなくすのだから、断末魔の顔付きになるのが自然なはずだ。これはどういうことだろう。田舎の料理店でおばちゃんが慣れた手つきで一発で首をチョンと切り、血抜きして、料理の材料にしていた。そこでは特別なことをしている様子はなにもなかった。それなのに料理されてきたトリの顔は、目をつぶってすましていたのだ。

 市場で豚の頭は日に一つだけだったから、一頭だけ特殊な加工を施しているのだろうか。以前、夫が中国の農家でと畜シーンに出くわしたときには、生きながらにのど元から血抜きされる豚の痛ましい声が響いていたというから(心臓が止まると血抜きができず、臭みがでる、とのこと)、ほほえみ顔には、なんからの技術が必要なのだろう。このことを考えると深みにはまってしまうのだが、ともかく生きた姿を知ったものをいただくと、食べる、ということは命を「いただく」ことだと、素直に理解できたのである。
 わかってはいるのだが、私は今でも相変わらずイカの目を見ないように捌いている。
  
*先週の予告と違う内容になってしまいました。次回こそです、はい。

 
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