社会人大学の卒業式記念講演は、ピアニスト辻井伸行さんの母である辻井いつ子さんが講師だった。プロフィールを簡単に紹介する。
■プロフィール
1960年(昭和35年)、東京に生まれる。東京女学館短大卒業後、フリーのアナウンサーとして活躍。1986年、産婦人科医の辻井孝と結婚。1988年に生まれた長男・伸行が生後まもなく全盲とわかり、絶望と不安のなか、手探りで子育てをスタート。持ち前の積極性と行動力で伸行の可能性を引き出した。子育てに悩む親御さんが集まって、意見交換をするサイト「辻井いつ子の子育て広場」を開設。自分の経験が少しでお役に立てればと各地で講演活動も行う。
講演は、1時間ほどであったが、全盲で生まれた息子がプロのピアニストになるまでの涙あり笑いありの苦闘の物語を淡々と話してくれた。アナウンサーだっただけに話は滑らかで、嫌味もなく情景が目に浮かぶような話に、ずっと引き込まれた。
初めての出産だったが、1日目で息子の目がおかしいということがわかったそうである。他の子供は、しっかり目を開けて母を見ているのに、自分の息子だけは何時までも目を閉じたままで、母親の直感でおかしいと思ったそうだ。その後、いろいろ検査した結果、生まれながらに全盲で生まれた子だとわかる。初めての子が、障害を持って生まれたことを知った時は、母として耐え難い辛い気持ちになっただろうと推察する。
しかし、辻井さんは、そこでめげなかった。子育ては80%母親の役目と思い、片っ端からいろんな本を読んだそうだ。いろんな本の中で「フロックスはわたしの目」―盲道犬と歩んだ十二年―の著者と出会ったことにより、普通の子と同じように育てることがいいと知り、気持ちが楽になったという。
ただ、普通の子として育てるということは簡単ではない。自然の美しい場所、買い物、人ごみの中などいろんな場所へ息子を連れて行った。そこの様子を言葉で伝えたり、触らせたりして色のイメージを育てたという。そんな経験をつませることで、海のブルーが好きだと息子が話した時は、感激したそうだ。息子の頭の中に、母が頭に浮かべた色のイメージが見事に伝わったのだろう。
そして、生後八ヶ月で息子に音楽の才能があることに気づく。息子は、ショパンの「英雄ポロネーズ」のCDが好きで、音楽をかけると手足をばたばたさせて喜んでいた。だが、CDが壊れ、別の演奏家の同じ曲のCDを買ってきてかけたが全然喜ばない。もしかしてと思い、まったく同じCDを買ってきてかけると前と同じように喜んだと言う。この時、息子は演奏者を聞き分ける耳を既に持っていたのである。
辻井さんは、ハンディを持った子には好きなことをやらせたいと思い、特別親のほうから押し付けるようなことはしなかったそうだ。息子が音楽を好きなことがわかり、おもちゃのピアノを与えた。2歳の時、ピアノで遊んでいると、いつの間にか「ジングルベル」が弾けたという。驚くと共に、息子を褒め称えた。息子は、お母さんに褒めてもらいたくて更にピアノがうまくなっていく。やがて5歳になった伸行少年は、旅行先のサイパンのホテルでリチャード・クレーダーマンの曲を演奏し、周囲にいた外人の観光客の絶賛を受ける。この出来事が、ピアニストの道を目指したきっかけになったそうだ。そして、小学1年生で盲学校生のピアノコンクールで優勝、17歳でショパンコンクールのセミファイナルまで残り、20歳でヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールで日本人初の優勝を果たし一躍日本一有名なピアニストになってしまう。まさに、母子で勝ち取った感動的なエピソードである。
辻井さんの子育てについての言葉で、子は親に無条件に褒めてほしい、努力した過程を褒める、否定的な言葉は使わないといった話が特に印象に残る。そして、人間の持つ可能性に驚くと共に子供に育てられたという話は大いに共感した。また、先のことばかり考えることより、今日を目一杯クリヤーすることを考えて生きていったほうが前に進めるという話も納得できる。こんな話を子育ての時期に聞いていたら、子育てがもっと変わっていたのかもしれないと反省もした。
■プロフィール
1960年(昭和35年)、東京に生まれる。東京女学館短大卒業後、フリーのアナウンサーとして活躍。1986年、産婦人科医の辻井孝と結婚。1988年に生まれた長男・伸行が生後まもなく全盲とわかり、絶望と不安のなか、手探りで子育てをスタート。持ち前の積極性と行動力で伸行の可能性を引き出した。子育てに悩む親御さんが集まって、意見交換をするサイト「辻井いつ子の子育て広場」を開設。自分の経験が少しでお役に立てればと各地で講演活動も行う。
講演は、1時間ほどであったが、全盲で生まれた息子がプロのピアニストになるまでの涙あり笑いありの苦闘の物語を淡々と話してくれた。アナウンサーだっただけに話は滑らかで、嫌味もなく情景が目に浮かぶような話に、ずっと引き込まれた。
初めての出産だったが、1日目で息子の目がおかしいということがわかったそうである。他の子供は、しっかり目を開けて母を見ているのに、自分の息子だけは何時までも目を閉じたままで、母親の直感でおかしいと思ったそうだ。その後、いろいろ検査した結果、生まれながらに全盲で生まれた子だとわかる。初めての子が、障害を持って生まれたことを知った時は、母として耐え難い辛い気持ちになっただろうと推察する。
しかし、辻井さんは、そこでめげなかった。子育ては80%母親の役目と思い、片っ端からいろんな本を読んだそうだ。いろんな本の中で「フロックスはわたしの目」―盲道犬と歩んだ十二年―の著者と出会ったことにより、普通の子と同じように育てることがいいと知り、気持ちが楽になったという。
ただ、普通の子として育てるということは簡単ではない。自然の美しい場所、買い物、人ごみの中などいろんな場所へ息子を連れて行った。そこの様子を言葉で伝えたり、触らせたりして色のイメージを育てたという。そんな経験をつませることで、海のブルーが好きだと息子が話した時は、感激したそうだ。息子の頭の中に、母が頭に浮かべた色のイメージが見事に伝わったのだろう。
そして、生後八ヶ月で息子に音楽の才能があることに気づく。息子は、ショパンの「英雄ポロネーズ」のCDが好きで、音楽をかけると手足をばたばたさせて喜んでいた。だが、CDが壊れ、別の演奏家の同じ曲のCDを買ってきてかけたが全然喜ばない。もしかしてと思い、まったく同じCDを買ってきてかけると前と同じように喜んだと言う。この時、息子は演奏者を聞き分ける耳を既に持っていたのである。
辻井さんは、ハンディを持った子には好きなことをやらせたいと思い、特別親のほうから押し付けるようなことはしなかったそうだ。息子が音楽を好きなことがわかり、おもちゃのピアノを与えた。2歳の時、ピアノで遊んでいると、いつの間にか「ジングルベル」が弾けたという。驚くと共に、息子を褒め称えた。息子は、お母さんに褒めてもらいたくて更にピアノがうまくなっていく。やがて5歳になった伸行少年は、旅行先のサイパンのホテルでリチャード・クレーダーマンの曲を演奏し、周囲にいた外人の観光客の絶賛を受ける。この出来事が、ピアニストの道を目指したきっかけになったそうだ。そして、小学1年生で盲学校生のピアノコンクールで優勝、17歳でショパンコンクールのセミファイナルまで残り、20歳でヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールで日本人初の優勝を果たし一躍日本一有名なピアニストになってしまう。まさに、母子で勝ち取った感動的なエピソードである。
辻井さんの子育てについての言葉で、子は親に無条件に褒めてほしい、努力した過程を褒める、否定的な言葉は使わないといった話が特に印象に残る。そして、人間の持つ可能性に驚くと共に子供に育てられたという話は大いに共感した。また、先のことばかり考えることより、今日を目一杯クリヤーすることを考えて生きていったほうが前に進めるという話も納得できる。こんな話を子育ての時期に聞いていたら、子育てがもっと変わっていたのかもしれないと反省もした。