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荒葉一也のホームページ「OCIN INITIATIVE」が開設され、小説「ナクバの東」として続きを連載中です。
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退役将軍「シャイ・ロック」(1)
彼の名は『シャイ・ロック』。勿論本当の名前は別にあるのだが、世間では蔭で彼のことをそう呼んでいる。戦闘機のパイロットとして軍歴を歩み出した彼は、数次の中東戦争を経て空軍のトップに上りつめ、「将軍」の称号を与えられた。『シャイ・ロック』と言う呼び名は英国の有名な戯曲に登場する金貸しの名前とそっくりであり彼は決して喜ばない。だから面と向かっては誰もが彼のことを『将軍』と呼んでいる。ただ上機嫌な時や外国の要人との面倒な話をまとめようとするときだけ、彼は自らを道化役者に見立てて「私シャイ・ロックとしては---------」などと前置きを置くのである。シャイロックと言う言葉が持つイメージを逆用して、相手に畏怖心を与えることも彼の軍師的才能の一つと言える。
『シャイ・ロック』の生涯は常に戦争がつきまとってきた。既に70歳を超え空軍を退役しているが、今もいろいろな相談事を持ち込まれる。多分死ぬまで彼には戦争の影がつきまとうに違いない。
そもそも彼が生まれたのは第二次世界大戦が始まった1939年である。彼の父親はドイツ地方都市のゲットー(ユダヤ人居住地区)で散髪屋を営むごく平凡な市民であった。アシュケナジムと呼ばれる彼らドイツ国籍のユダヤ人達は社会的には蔑まれ生活は楽ではなかったものの、それなりに平和な暮らしを送っていた。
しかし第一次大戦後の混乱に乗じてナチスが台頭、1933年にヒットラーが政権を握ると事情は一変した。当初は政治犯を収容することが目的であった強制収容所がユダヤ民族を抹殺するための道具となった。ヒットラー率いるナチス党は「民族浄化(エスニック・クレンジング)」の旗印を掲げ、ゲシュタポによる組織的なユダヤ人狩りが始まった。
身の危険を感じた『シャイ・ロック』の父親はシオニズム運動に身を投じ、生まれたばかりの赤子の彼を連れてエルサレムに移住した。もし移住が数カ月遅れていれば残った同胞と同じ運命をたどり彼ら一家はこの世から抹殺されていたであろう。それは危機一髪のドイツ脱出であった。
「シオンの丘」に帰ろうと言ういわゆるシオニズム運動でエルサレムに移住した彼らに待ち受けていたのは厳しい民族紛争であった。当時のエルサレム一帯はイギリスの委任統治領であった。第一次世界大戦でドイツ・オスマントルコ連合と戦った英国は、勝つために策を選ばなかった。世界の金融を支配していたロスチャイルドなどのユダヤ資本家を味方に引き入れて戦費を調達する一方、現地ではアラブ民族をそそのかしオスマントルコに対するゲリラ勢力に仕立て上げた。
味方に引き込むためには当然その見返りが必要である。戦いに勝ったときの恩賞である。英国がユダヤ人とアラブ人それぞれに約束した恩賞。それはユダヤ人には2千年近く前に滅んだユダヤ人国家の再建を認めたことであり、一方アラブ人達にはオスマントルコが支配するアラブの地をアラブに取り戻すこと、すなわちアラブ民族国家の樹立を認めることであった。
(続く)
(この物語は現実をデフォルメしたフィクションです。)
荒葉一也:areha_kazuya@jcom.home.ne.jp