4/12 経済産業省 平成23年度(2011年度)エネルギー需給実績を取りまとめました(確報) http://www.meti.go.jp/press/2013/04/20130412003/20130412003.html
4/10 JX日鉱日石エネルギー ファーストソーラー社とのパートナーシップ契約の協議開始について http://www.noe.jx-group.co.jp/newsrelease/2013/20130410_01_0944355.html
4/11 石油資源開発 北海道での原油産出テスト成功のお知らせ http://www.japex.co.jp/newsrelease/pdf/20130411_hokkaido_J.pdf
2013.4.13
70年代の石油開発業界
70年代の日本の石油開発をリードしていたのは帝国石油、石油資源開発、アラビア石油及びインドネシア石油の四社であった。帝国石油は石油開発の草分けである。日本でも江戸時代から新潟県や秋田県で石油が産出していた。地層の隙間から地上に染み出す黒く悪臭を放つ液体を人々は「臭う水(くそうず)」と呼び行燈の燃料として利用していたのである。明治以降工業的な利用が進むとこれらの地方に多くの石油採掘業者が生まれた。そして戦時体制下の昭和16年、これら中小業者を集約して国策会社帝国石油が設立された。
太平洋戦争に突入するや否や帝国陸軍は「石油の一滴は血の一滴」を合言葉にスマトラ島やボルネオ島に進駐、英国やオランダの石油施設を接収した。有名な「パレンバンの落下傘部隊」などがそれである。帝国石油の技術者たちも産業戦士として徴用された。しかし敗戦後の彼らに待っていたのはジャングルの逃避行という悲惨な運命であった。筆者は1990年前後に石油開発のためボルネオ島のミリに駐在したことがあり、その地で多数の日本人の墓を目にした。そのことについては後にも触れるが、ともかく帝国石油は日本の石油開発のルーツなのである。
戦後、石油をすべて欧米に握られた日本は何とか独力で海外の石油開発を手掛けたいと願った。「日の丸原油」構想である。こうして石油開発技術者を結集して昭和30年に設立されたのが石油資源開発であった。インドネシア・スマトラ島で石油開発を行うための北スマトラ石油開発が設立され、後にインドネシア石油と改称されたのである。
これら3社に対しアラビア石油は山下太郎が一代で作り上げた会社である。秋田県出身で石油について知識のあった山下は戦後満州から引き揚げると石油製品の輸出を目的とする日本輸出石油を設立した。しかし成果が上がらなかったため発想を転換して海外で石油を開発し日本に輸入することを目論んだ。その結果生まれたのがアラビア石油である。試掘一号井で巨大油田を掘り当てた山下太郎は、財界の重鎮石坂泰三及び「財界鞍馬天狗」の異名を持つ日本興業銀行の小林中を後ろ盾として石油業界に華々しく登場したのであった。
4社のうちアラビア石油は財界の後ろ盾を受けた純粋な民間企業としての性格を持っていたのに対し、帝国石油など他の3社はその生い立ちに政府の強い影響があったこともあり、アラビア石油と他の3社とはお互い他人行儀な意識があった。筆者が入社した当時のアラビア石油の社内には良く言えば自分たちは独立独歩の企業だという気概、悪く言えば3社を官製企業と蔑視する気風が強かった。
しかしながらその後アラビア石油には通産省(現経済産業省)の次官が天下り、最後には政府が前面に立って利権交渉を行う完全な政府主導型の企業に変わり果てた。これに対し他の3社は今も経営陣に官僚が天下っているものの、石油資源開発は民営化による自立を目指し、帝国石油と国際石油開発(インドネシア石油の後身)は合併により国際的な石油開発企業の一角を占めるようになった。
疑似官製企業となった上に没落したアラビア石油。かたや民間企業として発展しつつある国際石油開発帝石と石油資源開発。今や双方の明暗はひときわ濃い。
(続く)
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前田 高行 〒183-0027 東京都府中市本町2-31-13-601
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2013.4.10
1977(昭和52)年 胡蝶の夢の始まり
1977年1月4日の「御用始め」は社長の年頭の挨拶の後、職場でコップ酒を酌み交わしながら同僚・上司と新年を寿いだ。和服姿の女性社員たちが新年の気分を盛り上げる。酔いが回り始めたところで他の部署を訪れ「今年もよろしく」などと挨拶し、適当なところで散会する慣わしであった。営業担当者たちはお得意先回りに出掛け、内勤者たちは和服姿の女性を引き連れて明治神宮に参拝、親しい男同士は雀荘に向かった。
当時の日本企業全体が高揚感にあふれていたが、特にアラビア石油の「御用始め」は以前の会社にはない華やかな雰囲気に包まれていることに強い印象を受けた。オイルショック(第一次)により売上高が急伸、経常利益日本一となり世間から一躍注目されているためであろうと自分なりに解釈した。しかし松の内が明けたあとも社内の雰囲気に大きな変化はない。世間には高度成長期のモーレツ社員があふれていたが、アラビア石油の中ではむしろ世間一般の「モーレツ」ぶりを蔑む社員が少なくなかった。夕方5時の終業時になると殆どの社員が帰り支度にかかる。残業を行うのは6時間の時差があるサウジアラビアの現場と打ち合わせる原油出荷部門や、期末決算(アラビア石油の決算期は12月であった)の経理部門など限られた部署であった。未だ社内に知人の少なかった筆者はそのまま郊外の自宅に向かうことが多かったが、昨年までと比べ余りに早い帰宅に妻が驚いたほどである。
それでも仕事に慣れ、社内の雰囲気にも慣れると居心地良さが体に染みついてくるものである。中途入社組に対する先輩たちの対応も温かい。そもそもアラビア石油そのものの歴史が若く、30代後半以降のベテラン社員は一人残らず他社からの転職組である。途中入社に対するアレルギーが無く、上下意識よりも仲間意識が強い。それは相手の名前の呼び方にも表れていた。苗字と名前を短く詰める呼び方はその代表的なものであった。
その一人に「エンリンさん」と呼ばれる部長がいた。本名は遠藤麟一郎。「エンリン」部長は好人物の中年男性であるが、仕事の切れは抜群であった。ただ連日酔いの醒めやらぬ赤ら顔で昼近くに出社、夕方は一歩会社を出ると連絡が取れなくなるというはみ出し者でもあった。アル中気味で既に体はボロボロ、翌年胃潰瘍のため53歳の若さで亡くなった。死後に元中央公論編集長で作家粕谷一稀が「二十歳にして心朽ちたり」を出版した。「エンリン」氏が海軍主計少尉として終戦を迎え、東大に復学、仲間とともに雑誌『世代』を創刊した異能の男であることをその本で知った。『世代』は戦後の思想の混乱期に一世を風靡した雑誌で、彼はその当時すでに「エンリン」の愛称でその人柄と才気煥発ぶりが広く知られていた、と著者の粕谷氏は追想している。「エンリン」氏がどのような経緯でアラビア石油に入ったか知らないが、筆者が見たころの「エンリン」部長はまさに「二十歳にして心朽ち」、自ら無頼の輩を演ずる痛ましい姿であった。
「エンリン」氏を含め普通の会社ではお目にかかれないような人物が社内には数多くいた。会社とは一割のデキる人間と一割のお荷物人間、残る八割が普通のまじめな人間で成り立っていると聞かされたことがあるが、アラビア石油はその比率が世間の会社と違っていたようである。それでも会社は日本一の高収益を誇っていた。すべて石油のおかげだった。
この年、国内では巨人の王貞治が本塁打世界最高記録を樹立、海外ではエジプトがイスラエルを承認、アラブ世界に大きな亀裂が生じた。しかし筆者にとってはアラビア石油における「胡蝶の夢」の始まりだった。
(続く)
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年来の友人が小説「湾岸戦争 男達の叙事詩」を出版しました。
これは1990-91年の湾岸戦争当時、ペルシャ湾に面した石油生産現場で戦火の中、命がけで原油積出を行った著者本人の体験をもとにしたドキュメンタリー小説です。過酷な環境の中での男たちの熱い思いに溢れた好著をおすすめします。
なお作者「伊吹正彦」は著者のペンネームであり、文中の会社名「日本アラブ石油開発」はアラビア石油のことです。
出版社:財界研究所
定価: 1,500+税
書評は下記をご覧ください。
http://sankei.jp.msn.com/life/news/130406/bks13040607520002-n1.htm
2013.4.7
日本一の高収益会社
1970年代半ばのアラビア石油は日本一の高収益会社であった。日本経済新聞発表「昭和50年度日経100社ランキング」で同社は売上高43位、経常利益1位にランクされた。1973(昭和48年)の第4次中東戦争でそれまで2ドル程度だった原油価格が10ドルへと5倍近く値上がりしていた(第一次オイルショック)。その一方、原油は地下の油田の圧力で自墳しており生産原価はオイルショック前後で殆ど変っていないのだからコストは低いままである。従って原油価格が上がれば経常利益も膨らむという寸法である。
因みに石油精製販売業日本一の日本石油の場合は売上こそ4位であったが、経常利益104位とアラビア石油の後塵を拝している。つまり石油産業では原油生産こそ利益の源泉であり、精製販売業は利幅が薄い。前者は「川上部門」、後者は「川下部門」と呼ばれており、収益面では「川上」が「川下」を圧倒している。これは当時も今も変わりはなく、アラビア石油は日本石油よりも高収益会社だったのである。
しかし経常利益が日本一だからと言って税引き利益も日本一といううまい話にはならない。その年の同社の税引き利益の順位は105位であった。超過利潤をサウジアラビア政府に召し上げられるからである。1960年にOPEC(石油輸出国機構)が結成されて以降それまで世界の石油業界を牛耳っていた「セブン・シスターズ」或いは「メジャーズ」と呼ばれる国際石油会社と産油国の力関係が大きく変わった。それは1973年の第4次中東戦争でアラブ産油国が石油を武器として発動、米欧日の先進国に揺さぶりをかける「オイルショック(第一次)」を引き起こしたことでピークに達した。この時あわてふためいた日本政府は三木副総理(当時)を政府特使として中東8カ国に派遣、日本がイスラエルに加担することはなくアラブの盟友であると申し開きを行い石油の対日禁輸を漸く解除してもらった。知られざるエピソードではあるが、この時アラビア石油は三木特使とサウジアラビア政府首脳との会談の橋渡しを行ったのである。1959(昭和34)年に操業を開始して以来十数年にわたり築き上げてきたサウジアラビア政府との信頼関係があったればこそであろう。
オイルショックは日本全体として見れば大きなマイナスであったが、民間石油企業であるアラビア石油にとってプラスであったことは間違いない。それまで殆ど知られていなかったアラビア石油の名前が「日本一の高収益会社」として世間に認知されたこともその一つである。なおこの年の売上高No.1は新日本製鉄であり税引き利益日本一はトヨタ自動車であった。特にトヨタは売上高、経常利益もそれぞれ3位、2位という超優良企業だった。同社はその後現在まで40年近くの間、売上、利益のトップ企業であり続けている。それに比べほんの一時期とはいえトップ企業ともてはやされたアラビア石油は40年後に消えていこうとしている。盛者必衰の理ではないが、運命の儚さを見るのはアラビア石油で働いた筆者としては何とも切ない気持になる。
(続く)
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4/1 JX日鉱日石エネルギー 入社式における社長メッセージについて http://www.noe.jx-group.co.jp/newsrelease/2013/20130401_01_1016062.html
4/1 コスモ石油 平成25年度入社式の開催について http://www.cosmo-oil.co.jp/press/p_130401/index.html
4/1 昭和シェル石油 入社式挨拶(要旨):代表取締役CEO 香藤繁常 -Good listener の大切さ- http://www.showa-shell.co.jp/press_release/pr2013/040102.html
4/1 JX日鉱日石開発 アラビア石油株式会社の子会社の株式譲受け完了について http://www.nex.jx-group.co.jp/newsrelease/2013/20130401_01_1020080.html
4/1 住友商事 米国コーブポイントLNGプロジェクトとの天然ガス液化加工契約締結ならびに液化天然ガスの売買に関する基本合意書の締結について http://www.sumitomocorp.co.jp/news/2013/20130401_153001.html
4/2 国際石油開発帝石 アフリカ モザンビーク共和国Area 2 & 5鉱区権益(探鉱鉱区)の取得について http://www.inpex.co.jp/news/pdf/2013/20130402.pdf
4/3 コスモ石油 Hyundai Cosmo Petrochemical (HCP)株式会社新設パラキシレン製造装置の竣工記念式典が執り行われました http://www.cosmo-oil.co.jp/press/p_130403/index.html