まりはな屋

地方都市で、清貧生活  

お盆に

2004年08月13日 20時15分00秒 | 日々雑感
本屋で猫特集をしている雑誌があった。

普段はファッションやら映画やらを特集している雑誌だが

時おり総力あげて猫特集をする。

編集部に猫好きがいるのだろうか。

雑誌でもテレビでも犬や猫を扱うと評判がいいという。

それだけ世の中には犬猫好きが多いということだが、かくいうわたしもその一人だ。

よく犬と猫どちらが好きかという質問があるが

犬は好きだが猫は嫌いという人もその逆もいる。

そして両方好きという人も多い。

わたしも両方が好きだが犬を好きな気持ちと

猫を好きな気持ちはまったく違うので比べようがない。

ただ、物心ついた頃から何匹も飼い続けてきた犬に対して

猫は2匹しか飼ったことがないのでどうしてもその2匹が特別な猫になってしまっている。

とくに半年でいなくなってしまったオス猫に比べ

11年ほど飼ったメス猫はいろいろな意味でわたしにとっては特別である。

どこの飼い主もそう思ってるかもしれないが、わたしはこの子ほどきれいな猫を見たことがない。

模様は頭のてっぺんと尻尾が薄い茶色で他は真っ白。

ものすごくノーブルな顔立ちをしていた。

といっても初めて見たときのこの猫は目やにだらけでやせていて

小さな悪魔のような形相をしていた。

普通、子猫ってもっと可愛いもんじゃない?

それでも近所の公園で、知り合いの子供から途方に暮れたような顔で見せられたその悪魔を連れ帰ったのは

放っておいたらあきらかに死ぬと思ったからだ。

といってもうちには犬が何匹もいたし両親は猫が嫌いだし飼えるはずはなかった。

それが帰ることになったのは誰かもらってくれないかと相談するわたし達にぽつりと妹が

「うちで飼っちゃ駄目なの」と言ったからだ。

この妹はわけがあって10歳から家族とほとんど口をきかない。

話すと長くなるので書かないけど、末っ子で甘やかされてわがままで頑固だから

話さないと決めたら話さないのだ。

しかし学校では友達とも先生とも普通に話していたので仕方なく放置していた。

その妹が不意に喋ったものだから、じゃあ飼うかって。

ずるい。

まあそんなわけでこの子を「たから」と名付けて飼うことにしたのだ。

なぜ「たから」かと言えば悪魔のような形相とはいえ絶対に美人になるという確信があったからだ。

宝物のような猫になると思った。

その確信は当たり、たーちゃんはどんどんきれいな猫になっていった。

途中、姉と二人で家を借りたのでたーちゃんを連れて行った。

姉は男の家に入りびたりで帰ってこなかったがたーちゃんがいたのでさびしくなかった。

年頃になったら避妊手術をしなくちゃと思っていた。

生理があったのでそろそろかなと思いながらも盛りがこないので

どうしたもんかと様子を見ているうちにすごい事実に気がついた。

たーちゃんは不妊症だったのだ。

病院でそう言われたわけではない。

だけど一年たっても二年たっても盛りがこなかった。

オス猫が来ると怖い顔で威嚇した。

しかし子猫には優しくて拾ってきた猫の面倒もよく見たし

餌は子猫が食べ終わるまでじっと待って決して横取りするようなことはしなかった。

口がきれいな子で必要以上に食べなかったから、いつもスリムで

たぶん成猫になってからも3kgなかったんじゃないかしら。

きれいな見かけによらず鳥やねずみやトカゲを捕ってくるワイルドな一面もあった。

そんな神秘的なたーちゃんだったが、あまり人には懐かなかった。

そのうちにわたしは家に戻り代わりに妹がたーちゃんと暮らした。

たーちゃんのことは気にかけながらも家に帰れば犬の世話もあるし

妹にまかせっきりになってしまった。

具合が悪そうだと聞いて様子を見に行くと、もう相当に悪い感じだった。

そのまま病院に連れて行こうとキャリーに入れてしばらくすると苦しみ始めた。

あわててキャリーから出したがわたしと妹の見守る前で悶死してしまった。

あっけにとられるばかりの突然さだった。

すまないことをしたと思ってわたしは泣いた。

妹が「ごめん、ちゃんと面倒見なくて」と言ったが、そんなことはなかったので

今までたーちゃんと暮らしてくれてありがとうと泣きながら答えた。

ただ、わたしがもっと気を配っていたらもうちょっと長生きできたのにと思うと

今でも自分を責める気持ちになる。

たーちゃんはわたしにとって唯一無二の猫だし、これからもそうなんだろうと思う。

犬も猫も自分より先に死ぬのよね。

そのほうが安心ではあるんだけど。


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惑わせたり惑わされたり

2004年08月10日 20時48分00秒 | 日々雑感
人は見かけじゃないなんてことが建て前としてもまかり通っていたのはもうずいぶんと昔。

今は誰もが人は見かけだということをわかっている。

テレビのタレントは低年齢化し、より若くより可愛い子が求められている。

ただ、見かけだけじゃ駄目というのもまた多くの人が思うことだ。

わたしは若い娘や男の子が好きだがそれは人として好きなのではなく

可愛いペットを見るような気持ちで好きなのだ。

そこにあるのは対等な人間関係ではない。

まあ向こうもこっちを「おばはん」と思ってるかもしれないからそれはおあいこね。

見かけは大事とは思うが、時に見かけバカというかおしゃれバカになってる人がいて呆れる。

10代から20代前半くらいの子に多いが、異常に鏡が好きな人。

バスに乗ると前の席で女の子が大きな鏡を取り出し前髪を直し始める。

その時間がものすごく長い。

いつまでもいつまでも直している。

でもさ、前髪なんてバス降りてちょっと風に吹かれたらすぐ崩れるんだよ?

無意味だと思わない?

そしたら道端でまた鏡を出すんだろうか。

出すんだろうな。

で、その子はようやく鏡をしまう。

と思ったら1分くらいしてまた鏡を取り出して前髪を触る。

ひょっとして病気?

こんな子いっぱいいる。

なんなんだろうね、これは。

そこまでこだわるのは他人に対してなのか自己満足なのか。

見かけといえば昔の不良はよく「見た目や服装で判断するな」みたいなことを言ったので笑ってしまったけど。

だって、じゃあなんで不良っぽい格好をするんだろう。

単に好きなファッションというにはあまりに思想を持ったファッションである。

すなわちどっからどうみても不良っぽい。

不良っぽく見られたいからそういう格好をしているんだろうに。

今でいうなら金髪で下着のようなキャミソールでジーンズから半ケツ見せてる娘が

「派手って思われたくないし、いやらしい目で見ないで」って言うようなもんだわ。

ああ、こういう娘いるかも。

一体みんな、どんな風に人に思われたくてあんな格好をしているんだろう。

人なんか関係ないわ、自分のしたい格好をしてるだけというのはあり得ない。

だって必ず人に見られることを意識しているはずだから。

ぜんぜん関係ない話になるけど、この前テレビを見ていたら

障害のある犬と障害のある子供たちの交流の様子が流れていて

わたしはこういう感動ものは好きじゃないんだけど

「どうして犬と子供たちはこんなにも打ちとけられるんでしょう」と聞かれて犬の飼い主が

「犬は人間のあるがままの姿を受け容れるからです」と答えたのを聞いてはっとした。

以前に、もしも怪我や病気で顔にひどい傷を負い、

人に凝視されるか目をそらされるかという状態になっても

犬や猫は(その他の動物も)まったく気にせず接してくれるんだろうなと思ったから。

なんでそんなことを考えたかといえばいろいろな事情で

顔の形が変わってしまったりひどいやけどを負った人たちの写真を見たから。

まあ、動物だから気にしないのは当たりまえっちゃ当たり前なんだけど。

そもそも最初っから容姿の判断などしてないし、できないし。

わたしは障害のある人を差別したりいたずらにかわいそうがったり好奇の目で見ることはしない。

ただ、差別はしなくてもやはり区別はしていると思う。

足の不自由な人、知的障害の人、健常者とは違う・・・と。

その区別に悪意はない。

目がある以上、仕方のないことだと思うんだ。

美人とそうじゃない人を区別するのとなんら変わりないのかもしれないし。

その区別もどうかと思うが。

容姿なんて気にしなければ自分も楽になれるのにね。

動物のようにはなれないね。

※でも求愛のときには動物もさまざまに自分をよく見せようとするので

やっぱり彼らも容姿はある程度気にかけてるのかもしれない。
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笑いの未来

2004年08月09日 22時36分00秒 | 日々雑感
NHKなんか見ないから受信料を払うのは嫌だという人がいるが

わたしは子供の頃からNHKをよく見ていたので驚いてしまう。

民放のドラマやマンガもそれなりに見たが、

朝と夜の7時には必ずNHKのニュースがかかっていた。

だから今でもニュースといえばNHKだ。

自分の意見を押し付けるキャスターもいないし

偏った報道や確認できない情報は流さないし。

とかく野暮ったく固く真面目でつまらないというのがNHKの評価だが

ドラマとか、なかなかいいもの作るんだけどな。

スポンサーを気にしないからこその番組もあるしね。

ただそんなNHKも妙に面白いことをしようとすることがあって

だけどどこか垢抜けないのがまたNHKのいいところ。

NHKって、目の付けどころはいいんである。

ただ、もっと面白いやり方をすぐ民放に真似される。

昨今のお笑いブームも元はといえばNHKの「オンエアバトル」が火つけ役なんだと思う。

それがすぐに民放に似たような番組を作られてしまったが出来は今ひとつだ。

オンエアバトルが10組中、高得点の5組しか放映しないのに対し

民放はちょっと人気が出るとやたらに露出させる。

番組を埋めるために今ひとつのネタや今ひとつの芸人さんも出させる。

こうしてあっという間にレベルは下がり人々は興味を失ってブームは終わるのだろう。

ハイエナのような消費ぶりだ。

わたしくらいの年代だと「漫才ブーム」なんてのも経験しているんだけど

消費されつくしたあとに残るのはほんの一握りの芸人さんだけだ。

もっとも、どんな消費のされ方をしても残る人は残るのだから

それが実力世界の淘汰というものなんだろう。

テレビのつまらないバラエティー番組で内輪話で盛り上がるのが

芸人さんの幸せな姿というわけでもないかもしれないしね。

案外、表舞台(テレビ)から去って本来の舞台に戻ってからが芸人としての本領発揮だったりしてね。

それにしても。

漫才やコントを頭ひねって考えるより、弱い者いじめで卑しい笑いを取るほうが楽なんだろうなあ。

それで本人は楽しいんだろうか。

見てるこっちはちっとも面白くないんだけど。
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群れを離れて語ろう

2004年08月08日 19時51分00秒 | 日々雑感
わたしの中の「民主主義」というのは「多数決」というイメージがある。

みんなでよく話し合って、一番多い意見に決めましょうというイメージ。

このイメージが正しいかどうかは別にして。

大体、政治の仕組みは難しくてわたしにはよくわからないし。

ただ、いつも思うのは大人数の意見は正しいのか?ということ。

正しいかどうかではなく、賛成の多い意見に従うということはないだろうか。

小学三年生のとき書道の時間に誰かが「墨をなめると身体にいい」と言い出し

クラスのほとんどの子がなめる騒ぎになったことがある。

わたしは、根拠もないのに墨なんかなめる気になれなかったのでなめなかったが

そのときの、なめた子たちのテンションの高さは目を見張るものがあった。

まあ、ちょっとしたおふざけ、あるいは馬鹿騒ぎといった感じで

さめた目で見ているわたしのほうが嫌な子だったのかもしれないが。

同じ頃、クラスで催眠術が流行った。

おそらくテレビでそういう番組をやったのだろう。

クラスのリーダー格の女の子がみんなに催眠術をかけ、みんな

「かかった、かかった」と大騒ぎになった。

わたしだけどうしてもかからず、変なのと言われてしまった。

今思えば、単純な子はかかったような気になり賢い子はかかったふりをしていたんだろう。

子供の頃から、そういうときにうまく立ち回ることが出来なかった。

長じてからは、うまく立ち回ろうとも思わなかった。

気持ち悪いんだ、意思と関係なくみんなと合わせることが。

それ以上に、なんの疑問も持たずにみんなと同じことをする人が気持ち悪い。

気持ち悪いというより怖い。

独裁者も嫌だけど、むしろわたしは集団の狂気(使い古された表現だが)のほうが怖い。

独裁者を独裁者に押し上げるのは集団の狂気かもしれない。

民主主義でも共産主義でも社会主義でも人は時として集団になる。

集団の中の安心感、一体感、陶酔感、どれもこれもわたしには怖い。

たとえ他人と同じ意見、思想を持とうとも行動は個人で取るべきだと思う。

そうじゃないと、数を頼みにするだけの乱暴な集団になってしまうから。
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力まないことほど続く

2004年08月07日 20時11分00秒 | 日々雑感
これといった趣味のないわたしだが、なんと20年以上切手を集めている。

コレクションの王道ともいえる切手蒐集。

しかし、もしも合コンで「切手集めが趣味です」と言ったなら一気に引かれそうだ。

でもわたしの子供の頃って本当に切手集めが流行っていて

たぶん、昭和30年から50年くらいまでに生まれた人って

多かれ少なかれ切手を集めた経験があるんじゃないかしら。

わたしの祖父という人が切手集めをしていたせいもあり

珍しい切手を分けてもらったりして、姉妹三人それぞれハードカバーの蒐集帳まで持っていた。

今も持っている。

他の姉妹はどうか知らないけど、わたしはいまだに細々と蒐集を続けている。

どんな風に細々かというと、自分では買わない。

記念切手の発売にも興味がない。

家や会社に届いた郵便物に貼られた珍しい切手を集めるだけ。

記念切手を貼ってくる人って結構いるのだ。

そんなわけでわたしのコレクションは使用済み切手が多いのだが

別に将来の値上がりを期待して集めているわけではないので構わない。

ただ、やたらと真ん中にスタンプが押されてるときがあって

せっかくのきれいな絵が台無しである。

機械がすることとはいえ、無粋だ。

たまに蒐集帳を開いて眺めると、祖父にもらった切手が美しいままに貼られている。

幼心にもこの切手は美しいと思ったものだ。

そんな体験が、いまだに蒐集を続けさせているのかもしれない。

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