新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

何故我が国でHalloweenが流行るのかな

2014-10-29 07:39:58 | コラム
仮装のお祭りじゃないと思うのだが:

去る25日(土)に2003年以来11年振りに六本木に出掛けた時の地下鉄の中で、女子高生が制服を着たままで奇妙な化粧をしているのを見かけて「何事か」と奇異に感じたものだった。迂闊にもそれが”Halloween”の仮装の為のものと気付いたのは大分後のことだった。そこで解ってきたことは、我が国でも何の目的があるのか解らないこの仮装が、近年益々流行り始め、Dホーテ辺りでもそのためのカボチャや衣装を売っている状態である。

正直なところ、私は1993年末まで20年以上もアメリカに仕事で出張し続けていながら、彼の地でのこの大騒ぎが何であるかを知ろうとも思ったことがなかった。しかし、たった一度10月31日にこの行事に出くわしたことがあった。その日は本社内の至る所であの仮装をした人たちがごく普通に仕事をしているのが、私の目には不思議としか見えない光景に思えて「矢張りアメリカ人はこういう騒ぎが好きなのかな」と感じていた。

その日は事業部本部長の副社長とともに外出の予定があり、駐車場への近道でパーティションで仕切られた迷路のような他の事業部のオフィスを通り抜けていった。そこでは打ち合わせ用の椅子とテーブルで数名のスーツ姿の部員が座っていた。その横を「一寸御免よ」とすり抜けた副社長は、何と”You guys look great in businessman’s costume.”と声をかけ、”Thanks. We tried!.”という具合で受けていたのだった。

副社長のジョークと反応を和訳しても面白くないかも知れない「(今日は仮装の日だ。)君らのビジネスマンの仮装は格好良いぜ」に対して「有難う。何とか受けようとしてみたのだ」という辺りになるだろうか。私はこの辺りがアメリカ人のジョーク好きを表していると思う。

私は我が国でクリスマスを大騒ぎする商業化が全く好みではない。こういうことはこの空騒ぎだけに終わるかと思えば、今度はハロウィーンと来た。言うなれば軽佻浮薄である。そこで私なりにその背景に何があるかを考えてみれば、矢張り商業目的であのお祭りを殊更に採り上げて、あのような衣装やカボチャの”objet”(フランス語らしい)を売ろうという魂胆かなと想像している。

因みに、”Halloween”とはキリスト教に由来するようで”All Saints Day”=「諸聖人の祝日」のことのようだ。これは、この度初めて広辞苑やウイキペデイアで調べてみて知ったことだ。あの仮装をしている人たちはここまで調べているとは思えないが、どうだろう。

Newsweek 日本版 11.4号より

2014-10-28 13:20:20 | コラム
週刊AWACS氏のご指摘通りサウジアラビアでは:

この号の Cover story であり見逃せない読み物は「韓国 理不尽な現実」、 副題-「韓国、社会の歪みと「歴史問題」だろうが、私は週刊AWACS氏が指摘しておられたサウジアラビアの首切りを扱った“穏健サウジの「ぶった切り広場」”を興味深く読んだ。いえ、驚きばかりの内容だった。

実は、本日は国立国際医療研究センターで2科目の受診(受検?)があり、最初が09:00で二つ目が11:00だったので、待ち時間に大枚?¥460を叩いてNewsweekを購入した次第。十分に投資に見合う内容だったので、11:10に呼ばれるまでの2時間弱は退屈しなかった。

韓国を厳しく且つ鋭く分析した記事は諸賢にご一読を勧めたい読み物で、これまでに我が国の韓国問題の権威の方々が上梓された多くの力作と対比して読まれれば、興味もまた一入であろう。私は読み終わって「これでも韓国を世界の先進国と言う気なのか」と痛感した。民主主義国家としてはどうかという議論もあるが、私は多数決を原則とするこの主義はそもそも韓国には不向きではないのかと思う。

サウジアラビアの方は大袈裟な表現をお許し願えば、戦慄ものだった。読めば解ることだが、サウジアラビアがイスラム国の外国人ジャーナリストの首切りによる処刑を非難する資格があるのかと思わせられた。私には益々イスラム教徒その信者とは何かが解らなくなってきた特集記事だった。

バンガーナーかバムガーナ-か

2014-10-28 07:18:53 | コラム
またまたカタカナ表記論なのだが:

本日朝5時の室内温度は34度台。今日は国立国際医療研究センターに朝9時半と11時の予約があり8時半には出ていかねばならず、少し落ち着かないので、簡単な話題を。

昨日はアメリカのWシリーズをテレビ観戦。初めてSFジャイアンツの Bumgarner という左投げの投手を見た。張本勲はしきりにアメリカのMLBの質の低下を言うが、流石にWシリーズまで出てくるティームの質は彼が言うほど劣化していない。寧ろ立派なものだと思わせてくれる。投手たちはこのような短期決戦では投げる回数が少ないことも手伝ってか、当たり前のように150キロ台の直球を投げ続ける。我が国の第一線級ではこうまでは行かないと思うが。

さて、Bumgarnerである。外国人には余り例がない横手投げに近い左利きの投手だった。球速は150キロを超えることも多いし、アメリカの野球で屡々見かける力任せの投げ方ではなくて、モーションもゆっくりしている良い投手だった。あれではRoyalsは手こずるだろうと思って見ていたが、矢張りヒットが4本に抑えられたゼロ敗だった。何も投手力の差だけではなく、GiantsはRoyalsよりも格が上だと見て取った。

さて、Bumgarner である。ここまでアルファベット表記を続けて来たのには理由がある。一寸NHKのカタカナ表記に疑問を感じたので、Wikipediaに訊いてみた。結果は「NHKはバムガーナーとしているが」とあって、この名字は「バンガーナー」と表示されていた。「そんなことどうでも良いじゃないか」と言われそうだが、この辺りにカタカナ表記の難しさというか、おかしな所があるものだ。

ファストフードというのかジャンクフードというのか知らないが、hamburger という食べ物がある。これを「ハムバーガー」と表記するかと言うことと同じだ。我が国では長く「ハンバーガー」とされている。これと同じ手法にすれば、確かにWikipediaが言うように「バンガーナー」ではないのかな。ここから先は上西俊雄さんにお任せしたい領域だが、アルファベットの”b”の前には”n”ではなく”m”とするという問題だろうか。

何はともあれ、バンガーナーは風格のある良い投手だった。Royalsの青木は”Aokie Dokie”というプラカードまで用意して貰っていたほど期待されていたようだが、シリーズは調子が上がっていないようで補欠扱いだったのは残念だった。この妙な応援のカードは、以前にレッドソックス在籍時の岡島投手が “Okie Dokie”と呼ばれていたののもじりだと考えているが。

アメリカという国 #4

2014-10-27 09:21:43 | コラム
アメリカをスポーツの文化を通してみれば:

今回は思案していないで、直ぐ書ける材料に取りかかることに。

私は以前から「アメリカ人との話題に窮したら、彼等の三大スポーツである野球、フットボール、バスケットボールの何れかに持っていけば必ず乗ってくるし、打ち解けた雰囲気になることを保証する」と言っていた。さらにこの三つに「アイスホッケー」を加えて四大スポーツと称することもある、念のため。

また「彼等はこの三大スポーツを学校教育で教えられているので、例えば我が国のなまじっかの野球ファンでは到底及ばないほどゲームに精通している」と書いた時に、アメリカ在住経験がおありの方から「子供たちの学校ではそういう体育の授業はなかった」とクレームを受けたこともあった。そういう地域か州もあるのだろうかと思うが。

私は幸いにして昭和24年(1949年)にたった一度甲子園の野球に出て、我々野球部以外の者たちも含めた大方の予想を裏切って優勝してしまった高校の出身であり、同じ組(今では「クラス」というカタカナ語しか残っていないようだが)に甲子園組が、後年の前高野連会長の脇村春夫君も含めて4人もいた。お陰様で彼等の影響を受けだだけに止まらず校内大会用に指導も受け、それなりの野球通を以て任じていたほど知識はあった。それに野球は本業にサッカー次ぎに熱中していた時期もあった。

W社に転じた1970年代後半には事業部が保有する King Dome のボックス席で初めてMLBの野球を見た時にはその質の高さと完備した球場の設備にも圧倒された。アメリカではここだけではなく、ワシントン大学の7万人収容のフットボール専用の Husky Stadium にも NCAA のフットボールを見に行く機会も与えられたし、サンフランシスコの Candle Stick Park でもフットボール観戦もさせて貰った。

そこで感心したことが幾つかあった。先ずはスタンドの勾配が急でフィールドとの距離が、我が国の有名なスタジアムの緩やかすぎる勾配の構造とは異なって、非常に近くて見やすい点だった。どれほど急かと言えば、おかしな譬えであることを怖れずに書けば「迂闊に後ろを振り向けば、我が国の女性とは違って見えることを何とも思っていないらしい女性たちが大XXを開いて座っていると解って、目のやり場に困るほど」なのだ。

次なる特徴は目下取り壊しにかかっていると聞く国立競技場のように、芝生にフィールド(ないしはピッチ)をその中央に設けてその回りに陸上競技のトラックを必ず付けてしまう万能型の設計がされていないことだ。このトラックを付けてしまうと、それでなくとも緩やかな勾配のスタンドの上部の席からはサッカーやフットボールが遙か向こうのところで展開されるので、見にくい事夥しいのだ。アメリカでは幸いに地価も安いのでこういう経済的な?事はされていないのが好ましい。

第三は観衆の多くはそれぞれの競技のルールや試合運び等々に始まって、選手たちの上手さや特技などの精通しており、彼等の会話を聞いていれば我が国の誰の意向を帯して言っているのかと疑いたくなるようなお為ごかしの当たらず障らずの毒にも薬にもならぬ解説よりも、遙かに聞き所が多くて為になるのだ。彼等は皆一様に阪神タイガースどころではない地元ティームの熱烈なファンだが、決して贔屓の引き倒し的な単純なファンではないとことが凄いと思わせてくれる。

これは我が国がバブル景気に沸き立ってアメリカの不動産を買いまくっていた頃のことだった。当方が得意になってフットボールの蘊蓄を傾けて観戦中の大学フットボールを批評していたところ、後ろの席から声がかかって「あんた日本人だろう。フットボールを良く知っているのは解った。だが一言だけ言っておく。日本が幾ら景気が良いからと言って我々のフットボールまで買収するような真似をするな」と。その辺一帯の観衆に大受けだった。私はどんな顔をすれば良いのかと戸惑ってしまった。

最後に「これがアメリカか」と思わせられた Safeco Field の広ーい駐車場でのこと。私は車をいじらないので気にしたこともなかったが、2000年にこの新球場に元の上司と出かけた時のことだった。未だ試合開始まで時間があったので駐車場は空いていた。彼はその後の予定があって場外に出やすい場所に停めた。すると、そこに料金徴収係がやってきて、「料金が高いがより球場に近いところが空いているがどうする」と尋ねた。元上司はこの場所で結構とばかりに数ドルを節約できたのだった。

我が国の競技場の駐車料金が如何なる体系に競って資されているかなどは知る由もないが、この Safeco Field の球場との遠近で料金を設定するやり方には「アメリカだな-」と痛感させられたものだった。

ワールドシリーズと日本シリーズとの違い

2014-10-26 17:20:02 | コラム
悲壮感漂う日本シリーズ:

昨25日は午前中にアメリカはMLBのローヤルズ対ジャイアンツのワールドシリーズ(Wシリーズ)の第4戦目を途中まで見てから、別途に論じた第995回武藤記念講座参加のため外出し、帰宅後の18時からは日本シリーズ(Nシリーズ)の第1戦を最後まで観戦した。

Wシリーズの方は第3戦目までを少しは見てあったし、過去のシリーズの試合を見た経験からも言えることで、言うなれば「力と力の壮烈なぶつかり合いで、目に物見せてくれるぞ」という悲壮感などは希薄であり、それなりの緊張感を見せるものの勝つためには力の限りを尽くすというゲームの展開である。時には選手たちが感情も露わに衝突もするが、感情論には先ず流れていかない。

一方の我が国の野球は何処まで行っても甲子園野球の延長線上にあり、と言えば野球関係者から白状が来るのはほぼ間違いないと思っている。その意味は甲子園の野球は地方予選を勝ち抜いてきたとは言え、言うなれば”sudden death”のトーナメント方式なので、一試合ごとに負ける訳にはいかないと慎重に事を運んで、少しの機会でも逃さないように犠牲を払うバントで走者を得点圏内に送っていこうとする作戦を指すのである。細かく丁寧な試合運びだ。

そこに漂う非常に緊張した悲壮感まで漂う感覚はアメリカではあり得ないことで、言うなれば玉砕戦法式に「次なる作戦はなく、鍛え抜いた練習の成果を期待しており、失敗な許されない」という感覚の厳しい試合なのだ。一方のアメリカ式では力と力の勝負であり、最初のプランが失敗した場合に備えて第二の作戦が用意されている世界だ。この辺りが私が常に指摘する”contingency plan”があるゲーム運びである。

アメリカ式を極論的に言えば、何処まで行ってもビジネスであり、大雑把であるとも形容したいほど個人の技量に賭けており、各人もまた「やってやろうじゃないか。見ていろよ」という感覚で試合をしている。我が国のような「ティームの為に、苦労してきた皆のために」であり、言うなれば我が身を犠牲にすることを厭わない美しい精神を持って戦っているのだ。アメリカ人はこういう個人の世界を「個人のcredit」等と言っている。我が国ではかかる個人のためという精神ではスポーツをしていないと思う、特に事全国大会やNシリーズともなれば。

話しが長くなった。そういう精神とよって来たるところが違うシリーズでありながら、昨夜はTBSで北野武が「メッセンジャーとスタンリッジ(本当はスタンドリッジだろうが)が投げ合い、ゴメスとマートンが打って、呉が試合を締めたと言うが、外国人ばっかりで日本シリーズか」と皮肉っていたのがとても印象的だった。