カタカナ語は英語の勉強に悪い影響を与えていないか:
ここでは“「英語」ではなく「科学としての英語」に対する“English”乃関係と”する方が適切かも知れないと思うが「英語」で押していく。忌憚なく言えば、我が国の学校教育で教えられているのは“English”ではなく「科学としての英語」であるという意味。
私は英語の勉強だけではなく、自国語でも「耳から入ってくる言葉の影響が最も大きく、且つ直ぐ覚えられる効果がある」と確信している。ところが、何事につけても「全ての硬貨には両面がある」もので、耳から入ってくるだけで学習効果があるのだ。「だが、そこには効果だけではなくカタカナ語には正しいEnglishを学ぶ為には悪影響を与えるという硬貨の裏面がある」と長年主張してきた。
即ち、私は「カタカナ語は我が国における正しい“English”の学び方と、言わば英語力を上達させる為には何の役にも立たないだけではなく有害であると看做している」のである。特に、自分が思うことを国語=日本語で表現する能力の成長をも妨げているのだとまで考えている。
そう言う根拠は「カタカナ語の99%以上は本来の英語の意味とは異なる使われ方をしている」からである。一つだけ例を挙げておけば「ケースバイケース」と言ってしまうと、これは英語では「一件ごとに」という意味になってしまい、「個々の場合によって」とはならないのだと知るべきだ。
テレビで多用されるカタカナ語:
これらが最も悪影響を与えているのだ。ここからは思い付くままに、そううカタカナ語の例を挙げていこう。
コンパクト、シンプル、オープンする、オープンさせる(応用編にはリニューアル・オープンやグランド・オープンがある)、プライベート、スタッフ、キャプテンシー、スリッピー、ゲットする、チョイスする、ジューシー、フルーテイー、クリーミー、スパイシー、プラ-べート・ブランド(PB)、バトンタッチ等々とキリがないが、これらは全て英語本来の意味とはとは無関係に使われているか、我が国における造語であって英語ではないのが困るのだ。
私は「こういう言葉を日常的に使うことを止めよとまでは言わないし、使うのは勝手である」と言ってきた。更に「本当の英語ではこのような使い方はされていないと認識した上で使いなさい」とも繰り返し指摘してきた。私は2008年に「カタカナ語に相当する本当の英語ではどういう言葉か表現になるか」も纏めて21世紀パラダイム研究会で発表した。こういうおかしな言葉を使い慣れてしまうと、国語での思考力と表現力も劣化する危険性があるとも考えているとも指摘してきた。故に、ここでは敢えて上記のカタカナ語を英語にすればどのような英語になるかの解説はしない。
カタカナ語の表記の難しさ:
私は既に“security”と“fury”を例に挙げて、ジーニアス英和とOxfordの間に存在していた発音記号に混乱とでも言いたい違いがあったことも指摘した。私はこの違いを見て、我が国で最初にカタカナ表記をした人(私は「カタカナ語製造業者」と呼んでいるが)がどのような基準で、大胆にもカタカナ語にしたかが解らなくなってしまった。即ち、私は誰でも初めて見る英語の単語に接した際には、躊躇わずに英和辞典も英英辞典を引き、発音記号まで見るものだと信じてきたが、かの製造業者たちはその簡単な手間すら省いていたのではないのかと皮肉っていた。発音記号を見てあれば、あのような英語離れしたカタカナ表記にはなるはずが無いと思っている。
私は彼等が英語の言葉を見て「ローマ字読み」をしていただけで、それ以外の何物でもなかったのだろうと思っていた。だが、「フューリー」と「セキュリティ-」のUK式とUSA式の間の発音記号の違いを知って、些か混乱させられた。
そこに何気なく聞いたテレビのCMで、恐らく何とか言うデイズニーのアニメ(これだってカタカナ語だ)の主題歌(なのだろう)を松田聖子と松たか子が歌っていて、“I will follow you .”を「フォロー」と言っていたのを聞いた。これは「ローマ字読みをしたな」と思った。彼女らは学校で“O”は「オ」と読むとしか教えられていなかっただろうし、学校年齢前から親しんでいた「ローマ字読み」をしているのだから、彼女らには罪はないと解釈した。
同様な例に“holiday”がある。これは我が国では躊躇うことなく「ホリデイ」とカタカナ表記され、且つ発音されている。だが、ジーニアスでもOxfordでも「ハラディ」であり、USA式では「ハーラディ」に近い記号が出ている。話しを“follow”に戻せば「ファロー」と「ファーロー」である。細かい揚げ足をとるなと言いたい向きもあるだろうが、私にはそのような見方をせずに「何でこのようなおかしなカタカナ表記をしたのか」と、寧ろ腹立たしいのである。ズバリと言えば「嘘の発音を教えるな」なのだ。
私自身でこの疑問に答えれば「一般に我が国の学校で英語を教えておられる先生方は、特に“O”は「オ」と読めて教えているだけのことで、何も知らない生徒たちは素直に従っているだけのこと」となるのだ。念のために付け加えておけば、“follow”を「フォロー」と言おうと「ファロー」と発音しようと、恐らく我が同胞たちが気にしていると思う「外国人に通じるのか」という点では問題なく分かって貰えるとは思う。その点では“holiday”を「ホリデー」と発音しても、大方のアメリカ人は解ってくれると思う。
自説を曲げるかの如きことを言えば「実際には「フォロー」でも「ファーロー」でどちらでも良いのであり、自分が思う事と表現したい内容を、やさしい単語を使って文法的に正確に表現出来る力を養う事こそが肝心だ」なのである。だが、私の持論では「発音が綺麗で正確である事は七難隠す」のである。ここでは「アクセントも正確であるべきだ」という要素も含まれている。
学校教育の問題点:
私の主張は「本当の英語にはない遣い方をするおかしなカタカナ語を製造して、遍く普及させるのは悪い事であり、英語力の向上の妨げになる」と「学校教育では言葉の遣い方と発音が正しいのか正しくない点も問題であるが、アメリカ式と英連邦との発音と綴りの違いくらいは常識としてを教えて置くべきだ」である。
更に言えば、私が問題にしたい事は、我が国では未だに「『アメリカ語は下品』で『クイーンズ・イングリッシュこそが上品で正調である』と思い込んでいるんでいる、官庁も一般人も多いのではないか」である。例を挙げてみると、目下新型コロナウイルス制圧の第一線にあって奮闘しておられる「厚生労働省」の英語表記で「労働」が“Labour”となっているのだ。このUK式の綴りは「ワード」では受け入れて貰えないのだ。
即ち、アメリカ語では“labor”となっている。「中心」は“center”だと思っておられる方は多いと思うが、UK式では“centre”なのである。近頃発見した興味ある例に、私が忌み嫌うジャニーズのガキどもの集団に“ABC→Z”というのがあると知った。その発音では“Z”を「ズイ」としているのだ。これはアメリカ式であり、我が国の学校教育では「ゼッド」または「ゼット」となっている。正しくは「ゼッド」であって、UK式だ。だから「マジンガーゼット」と聞こえる歌があるのだ。あれは“Z”なのだから、UK式だ。
私は学校教育では何処かの時点で「アメリカ式と英連邦式の間には綴りも発音も明らかな違いがある」とキチンと教えておくべきだと信じている。戦後70年以上を経て、アメリカに安全保障条約で守られている我が国が、事もあろうにUK式の綴りを霞ヶ関の中央官庁が使っているのは、アメリカに失礼ではないだろうか。もしも、トランプ様の目に止まれば、激しくお怒りになるのではないかな。
ここでは“「英語」ではなく「科学としての英語」に対する“English”乃関係と”する方が適切かも知れないと思うが「英語」で押していく。忌憚なく言えば、我が国の学校教育で教えられているのは“English”ではなく「科学としての英語」であるという意味。
私は英語の勉強だけではなく、自国語でも「耳から入ってくる言葉の影響が最も大きく、且つ直ぐ覚えられる効果がある」と確信している。ところが、何事につけても「全ての硬貨には両面がある」もので、耳から入ってくるだけで学習効果があるのだ。「だが、そこには効果だけではなくカタカナ語には正しいEnglishを学ぶ為には悪影響を与えるという硬貨の裏面がある」と長年主張してきた。
即ち、私は「カタカナ語は我が国における正しい“English”の学び方と、言わば英語力を上達させる為には何の役にも立たないだけではなく有害であると看做している」のである。特に、自分が思うことを国語=日本語で表現する能力の成長をも妨げているのだとまで考えている。
そう言う根拠は「カタカナ語の99%以上は本来の英語の意味とは異なる使われ方をしている」からである。一つだけ例を挙げておけば「ケースバイケース」と言ってしまうと、これは英語では「一件ごとに」という意味になってしまい、「個々の場合によって」とはならないのだと知るべきだ。
テレビで多用されるカタカナ語:
これらが最も悪影響を与えているのだ。ここからは思い付くままに、そううカタカナ語の例を挙げていこう。
コンパクト、シンプル、オープンする、オープンさせる(応用編にはリニューアル・オープンやグランド・オープンがある)、プライベート、スタッフ、キャプテンシー、スリッピー、ゲットする、チョイスする、ジューシー、フルーテイー、クリーミー、スパイシー、プラ-べート・ブランド(PB)、バトンタッチ等々とキリがないが、これらは全て英語本来の意味とはとは無関係に使われているか、我が国における造語であって英語ではないのが困るのだ。
私は「こういう言葉を日常的に使うことを止めよとまでは言わないし、使うのは勝手である」と言ってきた。更に「本当の英語ではこのような使い方はされていないと認識した上で使いなさい」とも繰り返し指摘してきた。私は2008年に「カタカナ語に相当する本当の英語ではどういう言葉か表現になるか」も纏めて21世紀パラダイム研究会で発表した。こういうおかしな言葉を使い慣れてしまうと、国語での思考力と表現力も劣化する危険性があるとも考えているとも指摘してきた。故に、ここでは敢えて上記のカタカナ語を英語にすればどのような英語になるかの解説はしない。
カタカナ語の表記の難しさ:
私は既に“security”と“fury”を例に挙げて、ジーニアス英和とOxfordの間に存在していた発音記号に混乱とでも言いたい違いがあったことも指摘した。私はこの違いを見て、我が国で最初にカタカナ表記をした人(私は「カタカナ語製造業者」と呼んでいるが)がどのような基準で、大胆にもカタカナ語にしたかが解らなくなってしまった。即ち、私は誰でも初めて見る英語の単語に接した際には、躊躇わずに英和辞典も英英辞典を引き、発音記号まで見るものだと信じてきたが、かの製造業者たちはその簡単な手間すら省いていたのではないのかと皮肉っていた。発音記号を見てあれば、あのような英語離れしたカタカナ表記にはなるはずが無いと思っている。
私は彼等が英語の言葉を見て「ローマ字読み」をしていただけで、それ以外の何物でもなかったのだろうと思っていた。だが、「フューリー」と「セキュリティ-」のUK式とUSA式の間の発音記号の違いを知って、些か混乱させられた。
そこに何気なく聞いたテレビのCMで、恐らく何とか言うデイズニーのアニメ(これだってカタカナ語だ)の主題歌(なのだろう)を松田聖子と松たか子が歌っていて、“I will follow you .”を「フォロー」と言っていたのを聞いた。これは「ローマ字読みをしたな」と思った。彼女らは学校で“O”は「オ」と読むとしか教えられていなかっただろうし、学校年齢前から親しんでいた「ローマ字読み」をしているのだから、彼女らには罪はないと解釈した。
同様な例に“holiday”がある。これは我が国では躊躇うことなく「ホリデイ」とカタカナ表記され、且つ発音されている。だが、ジーニアスでもOxfordでも「ハラディ」であり、USA式では「ハーラディ」に近い記号が出ている。話しを“follow”に戻せば「ファロー」と「ファーロー」である。細かい揚げ足をとるなと言いたい向きもあるだろうが、私にはそのような見方をせずに「何でこのようなおかしなカタカナ表記をしたのか」と、寧ろ腹立たしいのである。ズバリと言えば「嘘の発音を教えるな」なのだ。
私自身でこの疑問に答えれば「一般に我が国の学校で英語を教えておられる先生方は、特に“O”は「オ」と読めて教えているだけのことで、何も知らない生徒たちは素直に従っているだけのこと」となるのだ。念のために付け加えておけば、“follow”を「フォロー」と言おうと「ファロー」と発音しようと、恐らく我が同胞たちが気にしていると思う「外国人に通じるのか」という点では問題なく分かって貰えるとは思う。その点では“holiday”を「ホリデー」と発音しても、大方のアメリカ人は解ってくれると思う。
自説を曲げるかの如きことを言えば「実際には「フォロー」でも「ファーロー」でどちらでも良いのであり、自分が思う事と表現したい内容を、やさしい単語を使って文法的に正確に表現出来る力を養う事こそが肝心だ」なのである。だが、私の持論では「発音が綺麗で正確である事は七難隠す」のである。ここでは「アクセントも正確であるべきだ」という要素も含まれている。
学校教育の問題点:
私の主張は「本当の英語にはない遣い方をするおかしなカタカナ語を製造して、遍く普及させるのは悪い事であり、英語力の向上の妨げになる」と「学校教育では言葉の遣い方と発音が正しいのか正しくない点も問題であるが、アメリカ式と英連邦との発音と綴りの違いくらいは常識としてを教えて置くべきだ」である。
更に言えば、私が問題にしたい事は、我が国では未だに「『アメリカ語は下品』で『クイーンズ・イングリッシュこそが上品で正調である』と思い込んでいるんでいる、官庁も一般人も多いのではないか」である。例を挙げてみると、目下新型コロナウイルス制圧の第一線にあって奮闘しておられる「厚生労働省」の英語表記で「労働」が“Labour”となっているのだ。このUK式の綴りは「ワード」では受け入れて貰えないのだ。
即ち、アメリカ語では“labor”となっている。「中心」は“center”だと思っておられる方は多いと思うが、UK式では“centre”なのである。近頃発見した興味ある例に、私が忌み嫌うジャニーズのガキどもの集団に“ABC→Z”というのがあると知った。その発音では“Z”を「ズイ」としているのだ。これはアメリカ式であり、我が国の学校教育では「ゼッド」または「ゼット」となっている。正しくは「ゼッド」であって、UK式だ。だから「マジンガーゼット」と聞こえる歌があるのだ。あれは“Z”なのだから、UK式だ。
私は学校教育では何処かの時点で「アメリカ式と英連邦式の間には綴りも発音も明らかな違いがある」とキチンと教えておくべきだと信じている。戦後70年以上を経て、アメリカに安全保障条約で守られている我が国が、事もあろうにUK式の綴りを霞ヶ関の中央官庁が使っているのは、アメリカに失礼ではないだろうか。もしも、トランプ様の目に止まれば、激しくお怒りになるのではないかな。