一昨日から、Twitterに糸井重里さんが参加されました。
伝説のコピーライターvs140文字っていうのを楽しみに
しているんですが、普通に使われているようですね、
おならぷっぷーっておっしゃってますけれど。
それでも、140字のまとまりの中にしっくりとおさまる
つぶやきをされているなぁと注目しています。
さて、それで、糸井さんは初日に、翌日の「今日のダーリン」
(『ほぼ日刊イトイ新聞』のトップを飾る名物“コラムのようなもの”)
のテーマのリクエストを受け付けたんですね。
結局、その後、ツイッターのことを書きます、ということで、
募集からネタが使われることはなかったのですが、
僕もタイムリーにつぶやきを見ていたので、Replyを返していました。
それが、
「深夜のコンビニにたむろう腹をすかせているであろう野良猫に
おにぎりやロールケーキなどを与えてしまって良いものかどうか!」
というものでした。
ブログのネタになるので、今日はこのテーマについて
ちょっと語ってみます。
そうはいいながら、実際にそういう場面に、
去年のことでしたが遭遇していたんです。
人にすがるでもなく、ふらふらとただコンビニの駐車場付近をうろつきながら、
ゴミ箱の様子をうかがっている3匹のネコがいた。
どんな毛色のネコだったかは、もう忘れてしまいました。
ただ、真っ白なネコでも、三毛ネコでも、真黒なネコでもない
雑種だったと思います。
その中の1匹が、遠くで構える他の2匹と違って、人間との距離感、
つまり僕との距離感を、微妙な、つかずはなれずなところで
保っていたのです。
こんなところでウロウロして、相当腹を空かせているんだろうなぁ、と
僕は買ってきたばかりのロールケーキをみせてみました。
ネコは逃げず、近づかず。だけれど、僕のほうに注意を向けています。
ロールケーキを開封してスポンジのところをちぎって
ネコに手を近づける。ネコは軽くたじろぐものの、食べ物だとわかったようで、
顔を近づけます。そしてパクッと、僕の指から不本意な行為だといいたげに
こそげるように食べたのでした。そのときに、軽くネコの歯が指に当たったのですが、
それがなんとも心地よかったですね。ネコのほうからのコミットメントを感じられる。
その後、そのネコは美味そうにパクパクとスポンジをすべて平らげました。
残りの2匹のネコは遠くからどうしよっかっていう不安げでうらやましげな顔をして
こちらを眺め、若干近づいてきました。
まだ足りなそうだなと思って、僕はコンビニでおにぎりを買い足してまたネコにやる。
遠くのネコにもちぎってなげてやってけど、そっちはまるで手をつけない。
近くにいるネコはスポンジケーキを食べる時よりはまずそうに(贅沢!)
しょうがなく、腹の足しにと思ってかどうか知りませんが、そんな様子で
食べています。そしてそれは鮭のおにぎりだったのですが、
意外なことに、鮭は食べませんでした。匂いをかいでから、次を待っていました。
そういうわけで、「どうだ、エサをやった人間様だぞ」という気持ちで、
そのネコを撫でようとしたら、そのネコ、身体をくねらせて僕をかわして、
一瞬のうちに、3歩分くらい遠ざかり、いつでも逃げられる距離を作りました。
なるほど、これくらいじゃ自分は売らないよ、というなかなか見上げた野良ネコ
根性だなと納得して、僕は引きあげました。
野良ネコにエサをあげたことは良かったことなのか、
悪かったことなのか、考えてみます。
良い点は、そのネコの空腹を満たしてやったこと。
食わねば死んでしまいますからね。
悪い点は、人慣れさせてしまう危険性。
子どもや変な大人にいじめられたり、
保健所の人につかまってしまう。
そう考えると、何が良いかといえば、
ネコの習性を利用したような、狡猾な罠があった場合はしょうがないけれども、
ネコが必死になって、ヒトに捕まらないように気を配って、
彼の運動能力をもってしてやっと食物を手に入れられるようなしかけを
こっそり目立たない場所に作ってやればいいのです。
その場合、カラスなどに邪魔されない工夫も必要ですね。
なんなら、その装置を見はって、カラスが来たら脅かして、
ネコが来たらそっと、やるがままにさせておくのがいいのかもしれない。
たまにはネコの裏を掻いて、もう少しで捕まえられるところだった!というのを
演出してやって、学習させてやるのもいいでしょうね。
さっき書いた、僕がエサをあげたネコというのは、捕まらなそうで、
捕まってしまうネコだと思います。もう少しで、ヒトに「ニャーニャー」
甘える術を身につけるところのようにも思えます。
身の危険を感じるセンサーが鈍りだしているんですね。
それは、野良ネコとしては危ない。
僕の理想の野良ネコは(変なコトバ…)、うちの近所にうろうろしていますが、
人の姿を見たらバッと身体に力を入れて逃げ去るネコですね。
それでいてちゃんと生き延びている。そこのところ、人を選ぶ目を
持っているのかもしれない。そういうのもすごく必要ですね。
飼いネコの寿命は10年以上でしたっけ。
野良ネコの寿命は4年くらいだそうです。
栄養が足りずに病気になったり、車に轢かれたり、
北海道だったら、極寒を越せないネコもいるんだろうなぁ。
それでも、そういった野良ネコたちの、自然死した姿って
ヒトには見せないですよね。
ニャンコたちにもなにかしら誇りみたいなものがあるんですかね
(いや、他に何か理由がありそうです)。
野良ネコが人間の言葉をしゃべれたら、なんて言うでしょうか。
寿命が短くても、その生き方が性にあっているからいいんだ、と
きっぱり言うでしょうか。家ネコとして、肥えた身体で目を細めて、
始終眠って、そこそこ長生きするようなネコはなんと言うでしょう。
外部の刺激を知らないまま、幸せです、と言うだろうか。
じゃあ、ネコとして、どう生きるのがもっとも幸せかといえば、
野良ネコのごとく外の世界を闊歩し、飼いネコのごとく
お腹が空けば、ヒトになれなれしくエサをもらう。
嵐や寒さに見舞われれば、家に入れてもらい、
病気になれば面倒を看てもらう。あとは、恩を感じることもせずに、
自由に走り回っている。そういうのがネコ世界の理想なんじゃないかって
思いますね。イヌはまた全然違いますよね。ネコと先祖は一緒らしいですが。
それでも、僕に限らず、
野良ネコがかわいそうだ、哀れだと言うヒトはたくさんいるでしょう。
しかし、それって、豊かになった現代人の驕りなのです、たぶん。
自然界では、異種間、同種間での生存競争が行われますが、
そんな中でも、彼らの幸せ、つまり充実した生を送らせるようにしむけることが
できるならば、それは人間の科学や思想が相当進歩し、生活に本当の余裕ができた
っていう証拠になる行動になるような気がします。
ま、でも、自由放任こそが生物界のためだなんて考え方が主流になりそうですけどね。
コンビニで会ったあのネコは、体つきから言えば、まだ若いネコでした。
ショコタンみたいな子に拾われているのが一番良いのだけれど、
生きててほしいなぁって、無責任にも思ったりします。
夜更けに響け、彼らの声なき声。
伝説のコピーライターvs140文字っていうのを楽しみに
しているんですが、普通に使われているようですね、
おならぷっぷーっておっしゃってますけれど。
それでも、140字のまとまりの中にしっくりとおさまる
つぶやきをされているなぁと注目しています。
さて、それで、糸井さんは初日に、翌日の「今日のダーリン」
(『ほぼ日刊イトイ新聞』のトップを飾る名物“コラムのようなもの”)
のテーマのリクエストを受け付けたんですね。
結局、その後、ツイッターのことを書きます、ということで、
募集からネタが使われることはなかったのですが、
僕もタイムリーにつぶやきを見ていたので、Replyを返していました。
それが、
「深夜のコンビニにたむろう腹をすかせているであろう野良猫に
おにぎりやロールケーキなどを与えてしまって良いものかどうか!」
というものでした。
ブログのネタになるので、今日はこのテーマについて
ちょっと語ってみます。
そうはいいながら、実際にそういう場面に、
去年のことでしたが遭遇していたんです。
人にすがるでもなく、ふらふらとただコンビニの駐車場付近をうろつきながら、
ゴミ箱の様子をうかがっている3匹のネコがいた。
どんな毛色のネコだったかは、もう忘れてしまいました。
ただ、真っ白なネコでも、三毛ネコでも、真黒なネコでもない
雑種だったと思います。
その中の1匹が、遠くで構える他の2匹と違って、人間との距離感、
つまり僕との距離感を、微妙な、つかずはなれずなところで
保っていたのです。
こんなところでウロウロして、相当腹を空かせているんだろうなぁ、と
僕は買ってきたばかりのロールケーキをみせてみました。
ネコは逃げず、近づかず。だけれど、僕のほうに注意を向けています。
ロールケーキを開封してスポンジのところをちぎって
ネコに手を近づける。ネコは軽くたじろぐものの、食べ物だとわかったようで、
顔を近づけます。そしてパクッと、僕の指から不本意な行為だといいたげに
こそげるように食べたのでした。そのときに、軽くネコの歯が指に当たったのですが、
それがなんとも心地よかったですね。ネコのほうからのコミットメントを感じられる。
その後、そのネコは美味そうにパクパクとスポンジをすべて平らげました。
残りの2匹のネコは遠くからどうしよっかっていう不安げでうらやましげな顔をして
こちらを眺め、若干近づいてきました。
まだ足りなそうだなと思って、僕はコンビニでおにぎりを買い足してまたネコにやる。
遠くのネコにもちぎってなげてやってけど、そっちはまるで手をつけない。
近くにいるネコはスポンジケーキを食べる時よりはまずそうに(贅沢!)
しょうがなく、腹の足しにと思ってかどうか知りませんが、そんな様子で
食べています。そしてそれは鮭のおにぎりだったのですが、
意外なことに、鮭は食べませんでした。匂いをかいでから、次を待っていました。
そういうわけで、「どうだ、エサをやった人間様だぞ」という気持ちで、
そのネコを撫でようとしたら、そのネコ、身体をくねらせて僕をかわして、
一瞬のうちに、3歩分くらい遠ざかり、いつでも逃げられる距離を作りました。
なるほど、これくらいじゃ自分は売らないよ、というなかなか見上げた野良ネコ
根性だなと納得して、僕は引きあげました。
野良ネコにエサをあげたことは良かったことなのか、
悪かったことなのか、考えてみます。
良い点は、そのネコの空腹を満たしてやったこと。
食わねば死んでしまいますからね。
悪い点は、人慣れさせてしまう危険性。
子どもや変な大人にいじめられたり、
保健所の人につかまってしまう。
そう考えると、何が良いかといえば、
ネコの習性を利用したような、狡猾な罠があった場合はしょうがないけれども、
ネコが必死になって、ヒトに捕まらないように気を配って、
彼の運動能力をもってしてやっと食物を手に入れられるようなしかけを
こっそり目立たない場所に作ってやればいいのです。
その場合、カラスなどに邪魔されない工夫も必要ですね。
なんなら、その装置を見はって、カラスが来たら脅かして、
ネコが来たらそっと、やるがままにさせておくのがいいのかもしれない。
たまにはネコの裏を掻いて、もう少しで捕まえられるところだった!というのを
演出してやって、学習させてやるのもいいでしょうね。
さっき書いた、僕がエサをあげたネコというのは、捕まらなそうで、
捕まってしまうネコだと思います。もう少しで、ヒトに「ニャーニャー」
甘える術を身につけるところのようにも思えます。
身の危険を感じるセンサーが鈍りだしているんですね。
それは、野良ネコとしては危ない。
僕の理想の野良ネコは(変なコトバ…)、うちの近所にうろうろしていますが、
人の姿を見たらバッと身体に力を入れて逃げ去るネコですね。
それでいてちゃんと生き延びている。そこのところ、人を選ぶ目を
持っているのかもしれない。そういうのもすごく必要ですね。
飼いネコの寿命は10年以上でしたっけ。
野良ネコの寿命は4年くらいだそうです。
栄養が足りずに病気になったり、車に轢かれたり、
北海道だったら、極寒を越せないネコもいるんだろうなぁ。
それでも、そういった野良ネコたちの、自然死した姿って
ヒトには見せないですよね。
ニャンコたちにもなにかしら誇りみたいなものがあるんですかね
(いや、他に何か理由がありそうです)。
野良ネコが人間の言葉をしゃべれたら、なんて言うでしょうか。
寿命が短くても、その生き方が性にあっているからいいんだ、と
きっぱり言うでしょうか。家ネコとして、肥えた身体で目を細めて、
始終眠って、そこそこ長生きするようなネコはなんと言うでしょう。
外部の刺激を知らないまま、幸せです、と言うだろうか。
じゃあ、ネコとして、どう生きるのがもっとも幸せかといえば、
野良ネコのごとく外の世界を闊歩し、飼いネコのごとく
お腹が空けば、ヒトになれなれしくエサをもらう。
嵐や寒さに見舞われれば、家に入れてもらい、
病気になれば面倒を看てもらう。あとは、恩を感じることもせずに、
自由に走り回っている。そういうのがネコ世界の理想なんじゃないかって
思いますね。イヌはまた全然違いますよね。ネコと先祖は一緒らしいですが。
それでも、僕に限らず、
野良ネコがかわいそうだ、哀れだと言うヒトはたくさんいるでしょう。
しかし、それって、豊かになった現代人の驕りなのです、たぶん。
自然界では、異種間、同種間での生存競争が行われますが、
そんな中でも、彼らの幸せ、つまり充実した生を送らせるようにしむけることが
できるならば、それは人間の科学や思想が相当進歩し、生活に本当の余裕ができた
っていう証拠になる行動になるような気がします。
ま、でも、自由放任こそが生物界のためだなんて考え方が主流になりそうですけどね。
コンビニで会ったあのネコは、体つきから言えば、まだ若いネコでした。
ショコタンみたいな子に拾われているのが一番良いのだけれど、
生きててほしいなぁって、無責任にも思ったりします。
夜更けに響け、彼らの声なき声。