Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『求道の落ち葉』(自作小説)

2019-11-03 00:00:15 | 自作小説9

 商業ビル群の間をあてなく歩いていても、雑踏にまぎれて街角で落ち葉を踏みしめながらたたずんでいても、この街で方々から聞こえてくる幾多の会話の一つひとつの言葉自体がもつ重量感覚は、やっぱりあの街とは違うように感じられる。発せられたての言葉に、体温というか、熱はあっても、重みがほとんどないのがあの街だった。まるで揚げたてを集めた天かすみたいな言葉ばかりにしか出合えなくて、そのせいでもたれた腹の底からよく吐き気を催した。
 関わる人たちからは、耳触りのいい嘘ばかりが飛びだしてくる。調子のいい作り笑顔ばかりが目につく。それがあの街の本性だと、住みはじめてほどなく理解し、自分もみんなと同じようにそうしなければならないのだ、と最初の頃は努力をした。大事なのは熱い軽さなのだ、と。
 すれ違うたくさんの人々の、各々が独りきりで歩いているときの暗く冷たい顔にだってそれこそ数えきれないくらい出合ってはきたのだが、でも、その表情の多くは街の本性をわかっているがための冴えなさではなかった。どこかひっかかりを感じながらも手にしっかりと握ったもののない、意識でつかみそこねている迷いがあっての冴えなさだ。そこらに無数に散在する鈍く明るい光に目がくらんで、てらいのないほんとうの光をしっかり見分けることができず、だから、ほんとうの光を発する光源が存在するかどうかの問いすら意識の網にかかっていない。ほんとうの光を発する光源を知ったならば、きっとその目や表情にだってほんとうの光は宿る。それはある種の安定で、たいてい目にするのは安定を欠いた薄く翳った表情なのだ。
 この表情同士の者たち。それは見知った者同士でもいいし、または何かのはずみで言葉を交わすことになった見知らぬ者同士でもいい、ひとたびなにがしかの関係を持って意思を通わせる局面になると、彼らの表情にはりつくのは偽物のそれだし、会話に熱はあってもほぼ中身がない。お互いに好感を持たせる表層的なテンション感覚がもっとも大事なものだと誰もが無意識に了解しているふうで、それが悪いだなんて決して言い切れないと考えはできるのだが、ちょっと吟味すれば浅薄な情報しかその中身にほとんど存在していないのが誰にだってわかるだろうに、そしてそういうあり方に対してすぐに飽きがくるものだろうに、それどころか彼らは、中身がどういう質のものなのか、有機的か無機的かそれこそが大事なのではないのか、と疑問を持ちもしないし、ゆえに誰も気にとめないまま時間は人々を押し流し、まっさらな情報交換だけを重んじる虚ろな言葉がそこらじゅうに満ちみちていく。それでいて、妙に屈託のない明るさが表情に溢れるのは、普段ひとりでいるときの安定を欠いた心をお互いにもたれかけさせることができるからだろう。安心はそういうすべでしか得られていないのかもしれない。そしてそんな安心に満足して、ひとりきりでいるときのどうしようもない寄る辺なささえ忘れてしまう。積み重ねていくものがなく、刹那的だ。
 大都会のこのような無意味さを身に沁みてわかる者だけが知る、きしるような痛み。かといって、ほんとうの光を発している光源を探し当てられもしないのだから、ただただ、ぐらりぐらりと、痛む心は揺られもする。懇意にしていると言えるくらいの人たちにもこんな状態を理解され得ないのがわかれば、さらにはその痛みによって自分が骨だけになるまで削りとられ続けていくような気がしてくる日々からは逃れようがないらしいとのじわりとした諦念を抱くようになれば、誰だっていつ大都会を去るかを考えださずにはいられなくなる。飛田陽一のような人間はえてしてそうだった。
 大都会を離れて、彼の選んだ街は札幌。今は十月の終わり。ここではもはや晩秋にあたるらしいのだが、まもなく訪れるであろう冬になれば、雪が音もなく積もるなか氷点下の外気温にさらされる凍てつく風景のただなかに、佇立するように生涯初体験の北国生活をしていることになるのだろう。
人口は多い方だが、ここで見る人たちはあの大都会ほど無意味さに侵されてはいないように見えた。無意味さのなかで生きることは、意味のなかで生きるよりもずっと体力を使う。バイタリティが無ければ生きていけない。無意味に対して莫大な体力を使うこと、それは少し引いた目で見れば野蛮にみえるものだ。札幌の人々にはあの街ほどの野蛮さを感じない。だからたぶん彼らは、あの街の人々よりも意味に生きている。
 かといって、それは時間を節約しようだとか、効率化しようだとか、そういう種類の意味ではない。それだったら、あの街の方がずっと意味を重く帯びている。陽一が考える意味と無意味は、人が心休まるような時間に関心を持つ対象の中身だったり、コミュニケーションの仕方だったり、つまり結果ではなく、過程の部分で試される行動のありかたでのものだ。意味とは、人肌の温度、とも言える。それは揚げたての天かすのような空虚な熱烈さではない。
純粋なところまで突き詰めた無意味な関心や無意味なコミュニケーションには、まったく土臭さはないし血は一滴も通っていない。純粋な情報交換しかない。現実にはその無意味さに、土臭さの度合いや血の通っている割合がいくらあるのか、要はどれくらい土の匂いが強くどのくらい血なま臭いかを特別な嗅覚の部分でとらえて、全体として意味と無意味のどちらに針が振れているかを、人は無意識に判断する。
 陽一は音楽を仕事にしているから耳を酷使するがまだそっちは頑丈で、都会生活で麻痺しそうになったのはそういう意味では鼻の方だった。天かすの熱い油臭さのような匂いばかり嗅がされたから、意味を感じさせる生命力のある匂いを渇望したのだ。気がつけば土の匂いを思い、湯気立つくらいの血の生々しい匂いの刺激に飢えたのだ、意味と無意味の領域で。
 
「え? そうなんですか。知ってます、その歌。飛田さん、もしかして、すごい方なんですねえ」
 陽一の向かいに座る永松真由瑠が小さくちぎったフレンチトーストのかけらを口に運ぶのを止めて、それまで控えめに伏せていた瞳を急にきらきらさせながら陽一に注意を向けたので、まるで唐突に雲海から抜けでた太陽が照らしだした大地のように、その言葉によって陽一のそれまでの疲れた表情をがらりと一変させる喜びの表情が出現した。単純に、嬉しかったのだ。思っている以上に、自分の作品が世の中に届いていて。
「ありがとう。でも、作曲家として世に出ても、世に出せた曲はそんなに多くないですからね。シングルは八曲。で、あとはカップリングかアルバム収録の曲なんです。自分個人の作品も出したことはないし、俺はコンピューターを使った打ち込み派なんですけど、ライブで演奏もしないし、音楽業界の隅っこでなんとか食べていってるタイプなんですよね」
 小さなベーカリー並木屋の二席しかないちょっとした言い訳程度の狭いイートインスペースを占拠して初めて陽一と真由瑠は語らっている。この個人経営のパン屋を何気なく見つけ、たまたま買って食べたシュトレンの美味しさに驚いて陽一はここに通い始めた。真由瑠とは店ですれ違う程度ではあったが何度も顔を合わせてはいた。二人はお互い気になるかならないか程度の関心しか示しあっていなかったし、心の裡も同様だったから、ここのオーナーである話好きのおばあさんが仲介してくれなければ話をすることもなかったかもしれない。
「真由瑠さんはどんなお仕事をなさっているの?」陽一がそう尋ねると、真由瑠はまた長い睫毛で隠してしまった目で語るように言った。
「工場で働いているんです」
「なにを作っている工場なんですか?」まだその造作をきちんと覚えていない真由瑠の顔を早く覚えたいような気持ちで、伏せられた彼女の目を下から覗きこむように尋ねた。
「パン工場なんです」そこで真由瑠は、うつむいたままではあるが、なにかが吹っ切れたように目尻を柔和に垂れさせ、ひときわやさしく無防備な印象の表情になって続ける。これが彼女の素に近い顔なのかなと陽一は思う。自然だった。
「……ふふ、こうやってパン屋さんにくるパン工場作業員っておかしいでしょ? でも、ここのパン、おいしいし、それにとってもかわいいんですもの」
 そこで、カウンターで話を聞いていたにこにこ笑顔のおばあさんが口を挟んできた。おばあさんは濃緑の首かけエプロンをしている。溌剌としてはいるが、七十五歳は過ぎているのではないか、と陽一は勝手な目測をしていた。
「真由瑠さんはうちに来てくれるようになってもう長いわよね。ほんとうにパンが好きな子なの。うれしいわ」こう言ってから思い出したように、「そうそう、真由瑠さん、飛田さんにはあのことを教えてあげなさいよ。飛田さんは音楽を作るような方なんだからお話しするべきよ。あなたとはまるで見当違いのタイプの方ではないわよ、きっといろいろ共通点があったり理解してもらえたりするでしょうから」とひとりで大きく頷いてみせた。躊躇しはじめた真由瑠に陽一は、是非聞きたいな、と微笑みの表情を自然と深めて促した。しかし、真由瑠はだんだん落ち着かなげに視線を動かしはじめ、表情にはにかみをのぞかせながら困っている。今すぐ席を立ってもおかしくないくらいだ。しかし、せっかくの機会だったし、陽一はまだ真由瑠と話をしたかったから、
「では、先に俺の話をしますよ。聞いてもらえますか?」と逃げ腰の真由瑠を安心させるようにちょっと顔を近づけ視線を同じ高さに合わせて見つめ、そしてはじめた。
「どうして札幌へ引っ越してきたか。ここから話しますよ。まあ、松山でも金沢でも仙台でもよかったことはよかったんだけど、北海道には子どもの頃から憧れがあって。大自然に囲まれていて、魚介類だとか野菜だとか食べものがおいしいし、水も空気も素晴らしくてっていうイメージ。いつか暮らせたら楽しそうだなと思ってた。でも、周りが自然でいっぱいすぎてもそういうのに馴れてないから暮らしていくのは大変かなと思って、北海道一の都市、札幌を選んだわけ。すごく中途半端でしょ? 俺はまるでたくましくない男なんでね」テーブルの上の紅茶のはいったマグカップを所在なげに触りながら、真由瑠は黙って話を聞いている。
「表現上の問題なんだよね、よくある、行き詰まりってやつ、きっかけは。すごいヤツがでてきたんですよ。ライバルにするには高みに居すぎるだろってくらいすごいんだ。歳なんて俺より七つか八つか下なのに、それが逆に、現代を見据えてちょうどうまく育つには恵まれた時代を過ごしてきたっていうのかな。まあ、それは俺のやっかみなんだろうけど。音楽でもなんでもそうだと思うんだけど、個性をいかんなく発揮することで商業性が損なわれるってけっこうありがち。生まれながらのポップスターでもなきゃ自分を表現してそれが大勢の心を気持ちよく捉えるなんてなかなかできないものですよ。個性のありかの、人間の芯の部分って、露骨にだしちゃうと他人にとっちゃ気にくわない部分だったりするから。その個性を強く表現に活かすとなれば、出来あがったものを聴いて、自分は気持ちいいしこれってすごいぞって思うけれど、他人が聴けば自分勝手なものができちゃってるのが二十秒も経たないうちにわかっちゃうものだし、全然おもしろくない。だから、曲作りを生業にするなら、商業性を身につけなくちゃならない、と俺はそう考えてきてそうしてきたんです。自分の個性を全面に出さずにバランスを考えてコントロールしながら調整する。つまり、個性を味つけ程度に小出しする。そうやって愛想を振りまくような曲作り生活をしてきましたよ。でも、八方美人が孤独のように、俺もそのうち寂しくなってきた。……いや、裏方じゃなくて表に出るアーティストとしてやっていくならもっと個性を考えつつ、それからの段階で聴き手の聴きやすさも考えつつのやり方でいいでしょうね。それだったら、これほど寂しさを感じなかったかもしれない。でも俺は、自分は前に出ないで裏方として、アイドルだとか歌い手さんに手段を与えたいほうなんだ。だから、俺の話をもしも聞く人が聞いたらふざんけんじゃないなんて張り倒されるかもしれない。そういう感覚はあります」陽一はだいぶぬるくなってしまったコーヒーをひとくち啜る。真由瑠は話の続きを静かに待っている。
「で、そうそう、すごいヤツの話。そいつも裏方稼業志向の人間で曲提供だけやっていて、アーティストにはなりたくないらしいって噂なんだけど、やってることがアーティスト顔負けなんですよ。とがっててさ、それでいて聴き心地がよくてクセになるのを作るんだ。俺、プロなのに、そいつの曲にうっとりして何度も何度もリピートして聴いちゃったくらい。もう、分析もそっちのけで。一流なんだよ、くやしいけど。俺みたいに、アーティストになれないタイプだからって作曲やアレンジだけやってるの、プロとしても半端だよな、って痛感したんだ。それからね、これじゃいけないと一念発起して渾身の一曲を作ってみた。別に依頼があったわけじゃない。自分から挑戦したくなったんだな。それで苦心の末、仕上がった。でも、その曲がまた陳腐でね、恥ずかしいったらない。もう環境を変えて根本からやり直そうと決めた。それが、札幌に来た理由の、そうだな、三割くらいかな」
「え、三割なんですか」久しぶりに口をきいた真由瑠があっけにとられた顔をしている。
「そう、三割。俺はひとつの理由だけで人生を大きく転換していくタイプじゃないんですよ。というわけで、残りの大方はもう少し仲良くなってから話します」陽一が軽く笑いだすと、真由瑠もつられて、声をあげて屈託なく笑った。
「次こそ、あなたの話をしてくださいよ。興味がある」真由瑠は陽一の表現者としての話を聞くことができたので、これまでずっと告白みたいなものは苦手ではあったが、それじゃ、と授業中に自分だけ手をあげて発言するときみたいに勇気をふるった。
「聞いてくれますか? そんなもったいぶるような話じゃなかったんですけど。飛田さんと同じように三割だけ話しますから」陽一は真顔でプッと吹いてから、わかりました、と了承した。
「わたしの夢は、みたいに、きらきらしたものとしてじゃなくて、もっと現実的なものとして、わたしの目標は、と言いたいんですけれど、それは絵本を作って多くの人に楽しんでもらうことなんです。大きな、大きな、目標です」いつしか真由瑠の頬にほんのり赤みが差している。手はやはり、カップを包みこみながらゆっくりとさすったままだ。
「不勉強だったから、ほんとうにものを知らないし知識も教養もぜんぜんなんですけれど、小さいころから絵を描くのは好きでしたし物語を読むのも好きでした。中学にあがる前までは、好きだった絵本の続きを、買ってもらったスケッチブックに自分の思うように描いていくっていう遊びに熱中してました。誰にも教えない秘密の遊び。自分で続きを作った絵本の内容は、とっても人にお見せできるようなものではないんです。でも、その遊びの時間が、振り返ればすごく幸せな時間だったんです。描いてストーリーを作っていくことしか頭になくて、気分は軽やかで、なんていうか、ぽっかぽかでした。でも、中学生になると運動系の部活に入っちゃって、だんだん描くことをしなくなります。部活がこれまた、なかなか楽しかったからなんですが。陸上なんですけど。高校も続けて、いつしか体育会系になっちゃってました。その間、絵本とは真逆のところにいたと思います。で、高校を卒業して、もう勉強はしたくなかったから就職しなきゃだったんですけど、これだというところがなくてコンビニでアルバイトを三年しました。中学や高校の友だちは進学していたり、道外に就職したり、どんどん疎遠になっていって、独りの時間がすごく増えました。そんなときにふと絵本を思いだしたんです。小さかったころ大好きだったなあって、押し入れにしまいこんでいた収納ケースからひっぱりだして次から次へとめくってみました。そうすると、なぜか昔みたいに絵や中身に引き込まれて読むことができないんです。心の底からまったく楽しめなかったんです。わたし、ずいぶん、昔の自分とかけ離れたところに来てしまっているな、と思いました」
 陽一は足を組み直して頷いた。
「今の永松さんからは体育会系って雰囲気はほとんど感じないな。しっとりしていて、言葉遣いからも、いかにも読書が好きそうに見える」
「それは、そこからのわたしの文化的生活の深さにあるんですよ」真由瑠はそう笑って、目を細めた。十五時近くなり、パンの販売スペースに客が増え始め、カウンターで話を聞いていたおばあさんも陽一たちにばかり気を配っていられない様子だ。
「というと、昔のように絵本に気持ちがなじんで感覚が戻るまで頑張ったんですね。どのくらいかかりました?」
「一年近くかかりました。その一年の間にコンビニのバイトをやめて、少ししてから今のパン工場で働き始めたんです。もう三年になります。コンビニって接客業ですから、自分のなかの外向きな性格が幅を利かしがちなんですね。パン工場のほうは黙々と作業をしますからある程度自分の内にこもったままでもいられると思ったんです。今になればそんなことはないなあとわかるんですけれど。家で絵本を読んで少しずつ取り戻していくかつての自分にあったある種の成分みたいなものが、接客の仕事をしているうちに、そのつど外向きな自分へと切りかわることでまた少しずつ失っていくような気がしたんです。それじゃいけないと思って、仕事を変えました。そう決心するまで、絵本を読む感覚を戻すことは自分にとってすごく大事なことなんじゃないかと感じていたんです。と同時に、絵本を作ってみたいと思い始めました。職場が変わっての環境の変化によるっていうよりも、きっと気分の切り替えがうまくいったためなんでしょうけれど、感覚が戻ってきましたし。そのときから、参考になるかなあ、と昔のスケッチブックを見返してみました。そしたらかなり落ちこみもしたんですが。美化していたんでしょうかね。才能はどこに、みたいにでした」
「すでに何冊か仕上げたものはあるんですか?」
「完成させたものは何点かあります。やろうと思えばネットで公開もできるでしょうし、電子書籍にもできると思います。けれど、わたし、紙の本の手ざわりだとか質感だとか好きですから、ちゃんと紙で書籍化してもらえるようになるまでが目標です。そのためにはやっぱりよいものを作らないと相手にされない。まだまだですね」
「絵って、今はパソコンで描くんですか?」
「初めは水彩で描いて、それからパソコンに取り込んでいろいろいじくります。でも、そっちの作業のほうが体力が要ります。飛田さんは打ち込みで作曲をされていますもんね、体力勝負じゃありませんか?」
 陽一はあごに生えたくしゃくしゃの短いひげを左手で撫でながらしばし考えてみたがよくわからなかったので、もう長い間やってるから馴れっこだし意識したことはないですね、と答えた。
「わたし、陸上をやって体力をつけてきたのに、パソコンでの仕事に使う体力はないみたいなんですよ。飛田さんはタフなんですねえ」真由瑠は、村で皆に愛されている御神木を眺めるような、尊いものを見上げる目を陽一に向けた。
 陽一は陽一で、真由瑠への興味にどんどん満たされていっている。間違いなく、この街で初めて探し当てた水脈だ。すぐ枯れてしまう気のせいみたいな水源なのか、こんこんと湧き出で続ける泉になる水源なのか、まだわからない。しかし、そうであっても真由瑠にはどうしてか、わくわくした。彼女は可能性のタネを持っている。水脈と可能性のタネ、そのどちらも備えている者を見つけたときほど想像力が広がることはない。そのどちらかだけで人は進歩してはいかない。陽一とまったく畑違いの作物のタネに水源から引いてきた水をやり、育てている。陽一のこれまでの経験や作りあげてきた方法論が、たとえ彼女の育成している独自の作物に対してほとんど応用が効かなくて助けにならないとしても、彼女が育てていくそのさまを見守っていたいし、つまづけば肩を貸してあげたい。もしも将来うまくいったならば心の底から讃えてあげたい、という気持ちになってきていた。
 一方で真由瑠も、自分が大切にしている種類の話が通じる陽一に、これまでひとりきりでやってきたためにずっと堅くこわばってしまっていた自分の心のなかのある領域がほぐれていくのをはっきり感じとっており、どうやらこのときの対話は、お互いがお互いを細い糸で結びつけた瞬間になったようだった。真由瑠はこんなにいっぺんに自分のことを話したことはなかった。ゆっくりと、自分でも確かめるように陽一に話していたのだった。
「では、今もなにか描いていらっしゃる? どういうテーマを扱っているのか、教えてもらいたいな」
「今は新しいのに取り組もうとしている段階で、まだ固まってはいないんです。前に仕上げたものは、命のサイクルをテーマにしました。森のなかで起こっていることをかなり長い時間感覚でとらえてみたんですが、自分でもおもしろいなあとはあまり思えなくて、ちょっと残念でした」
「なかなか雄大なものをテーマに選ぶんですね」
「力が足りなかったです。だから、今構想中のものは、前回とは考え方を変えていくつもりです。今度は抽象的なものを伝えるものにしたい。絵本に描く絵ってほとんどが具体的なものですけれど、具体的な絵から抽象的なものを読みとれるような絵本を作ってみたいんです」
「様々なものに通低しているなにかを、目に見える形で描かずに心に見える形で描くってことでしょうか。想像をかきたてるものを描く?」
「そこまで難しいことを拾っていこうとは考えていなくて、もっとありふれたものをいろいろな角度から眺められたり、再発見できたりするものにしたいですね。もう言っちゃいますけど、テーマはあたたまるものにしたいなって」
 あたたまるものか、と陽一は遠くないうちに真由瑠が描きあげるであろう絵本の印象を大雑把に想像してみた。が、やはり、どちらかといえばありきたりで凡庸だと感じた。斬新さがイメージできない。
「たとえば、どうアプローチして描いていきますか?」
「ページをめくるたびに、あたたまるものの種類が変化していくようにします。最初は、体感的にあたたまるものを。字面どおりのものですね。ふかふかの帽子。あつあつのラーメン。」
「おでん、だとか、手ぶくろ、だとか。うたた寝しているときに人にかけてもらった毛布」
「いい線いってます。それから、暖炉。犬。猫。ふとったキタキツネ。夕焼け。できたてのポップコーン。どうですか、前に挙げたものより、ちょっと気持ちに働きかけるような要素が増えたでしょう?」
「ははあ。高まり、深まりしていく構成なんですね。さらに次の段階になるとどんなのが出てくるのかな」
「真っ赤な飴玉。手書きの便せん。満開のヒマワリ、ですね。もっと種類を考えて、そこからこれだというのを選別して決めたいんです」
 陽一は、ちゃんと深堀りして考えている真由瑠に感心し、今回の絵本は力をつけるための踏み台にでもなればいいだろう、と考えた。
「形が見えてきましたよ。なかなかやりますね」
「まだ続きます。スタンディングオベーション。キス。ありがとうの言葉と気持ち。この先もまだ追求したいんですけれど」
 そこでやや間があった。陽一の表情がみるみる無機質なものになっていく。それまでスムースに会話を運んでいたリズムを急に、一方的に無かったことにされてそっぽを向かれたみたいな気持ち悪さを一瞬真由瑠は感じ、どうしたのだろうと心配になった。そのとき、陽一はトーンを落とした声で小さく呟いた。
「……土、そして血」
 真由瑠にはすぐに意味がわからなかった。
「え、ええと、それもあたたまるものですか。うわあ、果てまでいった感があります」
 そう真由瑠がいくらか身を前へ乗り出して言葉を受けたのだが、陽一の耳には届いていないようだった。彼は窓外に流れる風を眺めているかのように真由瑠には見えた。いや、もしかすると、何も見てなんかはいず、意識が急激に思念のなかに埋没してしまったのかもしれなかった。
 陽一が顔を向けた先の落ち葉たちがくるくると弧を描きながら車道へと動いていく。真由瑠は、これと同じようなミニチュア版竜巻の中心部に駆け込んで遊んだ日のことを思い出していた。風によって無遠慮に車道のただなかへと移っていった落ち葉たちはそこで自分たちを捕らえていた力から不意に解き放たれて散開し、動きを止めた。風は、落ち葉たちをかまうのに飽きてしまったかのように、どこかへ走り去っていった。放縦に見えて自らを持てあます、実のところ不器用なその精神の軌跡を見せつけて。風に振り回された挙句、気まぐれに放り捨てられてしまった落ち葉たちは、それから急速に風景へ溶け込み、あっという間に個性を失った。

 降っては消えしていた雪があたりに残ったままになり、風景全体が白をまとい始めた。その頃の陽一は自室で『ニーチェ入門』や『ハイデガー入門』などの哲学入門書を手当たり次第に渉猟していた。コンペ用の作曲作業にとりかかろうとしてもあまり気が乗らなかったせいもある。ソファに陣取ると、これらの本を数ページ読んではその内容を転がすように考えた。そしてまた数ページを繰り、午前中のうちにベーカリー並木屋で購入してきた数個のパンのうちのバターロールをかじるとブラックコーヒーで飲み下して大きな息を吐く。舌に残ったバターのまろやかさと香りがコーヒーの味わいを豊潤にした。そのような一日のワンシーンがすべてを象徴するような日々を、陽一は過ごしていた。
 並木屋ではすれ違いが多くなった。たまに真由瑠と顔を合わせてもちょっと言葉を交わす程度で、まとまった会話をする機会はなかった。彼女とはラインを交換していたから、陽一は、はじめての雪景色に別世界感を覚えます、だとか、おすすめの美味しい札幌ラーメンのお店はありますか、だとか、絵のほうの調子はどうですか、だとかそれほど頻繁ではなかったにせよメッセージを送った。真由瑠は実際の会話以上に文字のコミュニケーションでは気さくだった。体育会系の世界に生きてきた証を感じさせるはきはきした言葉遣いのときもあったし、陽一が特に気にいったのはどのメッセージにもさりげない心づかいがこもっていたところだった。自分のことだけをくどくど書くことはなく、文面には毎度こちらを気にかける内容が少なからず含まれているし、訊ねたことへの答えには様々な角度から考えてみたであろう補足が小さく付けたされていた。急いで応えてほしいメッセージを送ったことはなかったが、そういう種類の場面でも正確にこちらの意図を汲んで、簡潔で明快な返信をくれるだろうことがうかがえるくらい、真由瑠からのメッセージの文面は想像力に満ちていた。
 陽一の真由瑠への好感度は少しずつ高くなっていったし、信頼だってできると思いはじめた。この先、もっと仲良くなれそうな気がしたし、長い時間をかけて広く深い話だってできそうだ、と楽しげな期待感も生まれていた。
 しかし、雪が姿を消すまで、陽一と真由瑠はきちんと顔を合わせることはしなかった。外界に広がる一面の白色が、その人知れずもつ秘めた魔力を使って気まぐれに二人の運命に悪戯し、すれ違いをし続けさせたわけではもちろんない。また、短い陽がやっと照っているときでさえずっと雪に囲まれ始終白色ばかりが目に映る長い時節を過ごすことで、二人を内向的にすぎる心理状態にしたわけでもない。陽一は年が明けてから意を決し、重い腰をあげて明確な休みなどは設けずやれるだけやろうと作曲を始め、その結果、並木屋にすら足が向かなくなったのだったし、真由瑠は仕事明けでも休日でも、他に新たなテーマをいくつか見つけたこともあり絵本に没頭しどおしだったのだ。そのため、二人の再会は遅くなり、五月、新緑の季節にかなうことになった。
 
 雨に濡れた新緑は、元気さにみなぎっていながらもかすかな憂いを帯び、車窓を流れていく風景はほんのり気だるげな印象を与えるものになっていた。春にしては気温も低く、陽一は灰色の薄手のダウンのファスナーを最上部までしっかりあげていたし、一方の真由瑠はフードのついたデニムのジャケットを紺色のセーターの上に着こんでいた。真由瑠の運転で彼らが向かった先は、札幌から一時間ちょっとの距離に位置する道央の秋張市。この街で石黒という男性に会うことになっている。
 真由瑠が陽一の存在を石黒に教えてもよいだろうか、と尋ねるメッセージを送って来たのは三月の中旬だった。彼女が参加しはじめた、SNS内の文芸等による創作活動をする人たちのコミュニティで石黒と知り合いやりとりをするようになった、と書いていた。道内に限定しない全国区のコミュニティだが、実際はそれほど人数のいない小規模な集まりであったため、札幌市内から参加しているのは真由瑠のみ。しかし、石黒は近郊の秋張市に在住していたため、お互い親近感から自然と多く意見を交わすようになったらしい。石黒の創作分野は川柳と詩作だったから、絵本を作る真由瑠とは詩作の部分で共鳴した。詩的な短い言葉を使っての絵本作りにも真由瑠は挑んでいたからだ。谷川俊太郎や茨木のり子の詩作に関する著作を教えてもらい、読んでもみた。真由瑠は今回、完成させた絵本のうち一番新しいものを携え、石黒に意見を聞くつもりだ。以前、陽一との話に出た「あたたまるもの」の絵本はまだ完成途上にあり、持ってきたのは森の中で道に迷ってしまった子猫を題材にした冒険ものの絵本だった。
 石黒が指定した場所は、秋張市のおよそ真ん中に位置するベーカリー兼カフェの店だ。旧道沿いの何軒かの自営業の店が集まる区域にあるというのだが、そこに近づくにつれ陽一の憂鬱な気分が少しずつ深まっていった。石黒という人物に不信感を感じていたからではない。指定された店は知的障害者たちがスタッフとして切り盛りしていると聞いたからだった。
 陽一が小学校低学年の頃、同じクラスに知的障害を持つ女の子がいた。勉強についていっているようにも見えず、運動もよくできず、トイレに行く前に粗相をしてしまうこともかなりあった。女子のなかにはその子の面倒をみるというか、まめに声をかけ世話をする子もいたのだが、馬鹿にしたり暴言を投げつけたりする子どもたちが男子を中心に何人かいて、先生はその都度説教をして怒っていたが、そのようないじめは無くならなかった。陽一はいじめとは関わらずに、でも助けることもせずに傍観し続けていた。一度、声をかけてみたことがあったが、瞬く間にその子の表情が曇ってわんわん泣きだしてしまい、彼女に近しい女子たちからは冷たい視線を投げつけられ、そんなつもりじゃないんだと弁解しても聞いてもらえず無実の罪の苦しみを知った。それから、知的障害を持つ女の子にどういう気持ちと態度で接するのがよいのかまったくつかめなくなり、それだから傍観してしまうといった姿勢から逃れることができなくなった。その女の子が三年生になって転校するまでの間ずっと同じクラスにいながら、知的障害とはどういった状態でどう対応するものなのか陽一には最後まで理解できなかった。ただ、よく大きな声で泣いていたのが強くはっきり記憶としてある。そして、今の陽一にも関わり方が理解できているかといえばそうではない。女の子が去った後も、その記憶に対してまるで拒否反応を起こすようにして避けてきたぶん、理解が進むことはなかったのだ。
「永松さんと会うときってパン屋絡みになるね」
「そうですね、飛田さんのイメージにはパン屋さんがくっついています」真由瑠は、ふふと笑う。
「石黒さんは四十過ぎてる人なの? 投稿した作品が新聞に載るくらい上手なんだって?」半年前よりもくだけた口調で話す陽一は、運転免許をもっていない。広い北海道に移住すると決めても札幌のような主要都市を選んだ理由の大きな一つが、地方都市だと車を持っていないと買い物にだって困ることを知ったからだった。
「ご自分では、じじいです、っておっしゃってますけど、まだアラフォーですし、話が全然合わないくらいの世代間ギャップはないと思いますよ。作品はいくつか拝見したんですが、もう楽しい感じでした」二人が乗っているのは真由瑠のダイハツ製軽自動車で、車内は甘い香りがした。よくあるように、芳香剤が強すぎて頭が痛くなるというようなこともなく、その香りはちょうどよい加減で車中を漂いやわらかく鼻をくすぐった。
「俺のことはどこまで話してるのかな。興味をもってくれたみたいだけど」
「飛田さんが教えてくれたことは全部。そういえば、飛田さんの作品集はCDにして持ってきてくださったんですか? 動画サイトにアップされていない曲も聴いてみたいって石黒さん、楽しみにされていましたが」
「申し訳ない、忘れてしまった」
 運転しながら、真由瑠がわあと天井を見上げるので、陽一はあわてて彼には似つかわしくなく腰をかがめるような態度で謝り、お屋敷の忠実な下男がさりげなく主人に進言するように彼女に前を向くよう促し、なんとかその場を平常に帰すことができた。
 正午少し前に到着して真由瑠が石黒に電話すると、店内にいるという。二人が店のよく磨かれたガラス張りのドアを開けると、いらっしゃいませー、という女性の幼げな声での元気なあいさつがカウンター内から二つ重なって飛んできた。そこには白い帽子を被ってカジュアルなつくりの薄いベージュの制服を着た二十代後半くらいの屈託のない笑顔の女性たちがいた。続けて、今度は低く太い声で、再びカウンターのなかから、ようこそ、と聞こえた。石黒さんですね、と真由瑠が歩み寄ると、お待ちしていましたよ、とひょろりと背の高い男性が影から顔を出し微笑みをみせた。彼の太い眉と澄んだ目を見て、陽一から、はじめましての緊張感がすうっと引いていった。第一印象からうち溶けやすさの伝わってくる人物だったからだ。真由瑠が陽一に、言ってませんでしたけど、石黒さんはここの店長さんなんです、と教えてくれた。
 奥の席を案内され、陽一と真由瑠はボックス席に隣り合って腰を下ろした。まだカウンターにいる石黒が、お二人ともお昼はまだでしょ、食べてって、と言いながら売りもののパンをトレーにいくつか見つくろい、スタッフの女性にコーヒーを三つ頼んでいた。そしてもう一人のスタッフに石黒は会計をお願いしていた。店長、百円おおいー、の声とともにとても愉快そうな笑い声が高く轟き、しばらく収まらなかった。石黒は頭に右手をやりながら半笑いで唸っている様子で、二人のスタッフはさらに可笑しさがこみ上げているようだった。
 陽一にはやはり子供の頃の知的障害を持つ同級生が思い出されていた。あのほがらかな二人の女性も、軽度なのかもしれないが知的障害を持つ人たちだ。たとえば彼が今、席をたって彼女たちのほうへ歩いていき、天気の話でもいいけれど、害の無いような話で声をかけたとしよう、その途端にあの二人の表情が今日の空模様のようにみるみる曇って、雷雨のように声をあげて泣きだす、それ以外の可能性はないような気がした。間違っても、そうですよね、なんて笑顔で返してはこないだろう。陽一には、自虐的でもある妙な自信があった。
「お待たせ」石黒はやっとのことで陽一たちの向かいの席につき、お好みのものをどうぞ、と様々な種類のパンをすすめてくれた。陽一は刻んだ玉ねぎ入りのマヨネーズソースをたくさん乗せたものとくるみを練り込んだものを選んだ。割合サクサクとした軽い食感で香ばしく、苦味が控えめのコーヒーに合って美味しかった。真由瑠は赤肉メロンパンをかじっている。
「ご存知でしょうけど、秋張市は財政破綻してからもう十年以上が過ぎて、いまだ再建が果たせていない。人口の減り具合っていったら恐ろしい速さなんですよ。うちみたいな障害者施設が市内には他にもいくつかあるんですが、どこも、少しでも街を力づけるようなことができやしないかって考えてますよ。人口が今の三倍も四倍もいた頃は僕らはまったく目立たずに暮らしているような感覚があったかもしれません。それが、いろんな公共施設や商業施設、会社や組織が無くなっていったためでしょうか、残っている自分たちが街のためにやれる役割があるんじゃないかって思うようになって。主体性っていうのかなあ、芽生えましたよね。その一環がこのベーカリーカフェですよ。スタッフをやってくれている人たち、最初はひるんでいたんですが、もうけっこうやりがいを感じてくれているみたいで、よかったなってこっちも元気になって店やってますよ。それに常連さんがついてくれてもいるんです」
「ちゃんとわかっているわけではないんですけど、秋張市は大変ですよね。でも、美味しいパンが食べられるところって、よい点だと思います」真由瑠は、このメロンパン、とても気に入りましたと満足そうに顔をほころばせた。陽一は、なにを言ったところで歯の浮いたような印象を与えてしまいそうだったから、真由瑠の横で頷いただけで黙っていた。カウンターからスタッフの女性たちがこちらを眺め、話を聴き入っている風だったため、少し警戒したのもあった。
 そんな挨拶にあたるおしゃべりが一息つき、ややあって石黒が真由瑠の絵本を見たいと言った。トートバッグから取り出した絵本は、パソコンから印刷したものを大きなクリップで止めただけの簡素なものだった。書類の束状の、まるで企画書みたいな絵本を差し出されても外面よりも中身がよほど気になるらしく、受け取った石黒はすぐに絵の細部にまで見いるように目を見開きゆっくりと読み始めた。その間一言も声に出さず、正面から相手にぶつかっていく戦士のように、それは静かで真剣で好意を持てる姿だった。
「絵が詩的だね。水彩のやさしいタッチが心地いいなあ」
 読み終わって、また最初のページからめくり始めながら石黒はやや高めの鼻から大きな息をふうと吐いた。陽一も事前に車内で読ませてもらっていたので、
「絵の描かれていない空白の部分の使い方も上手いなあと思いました」と感想を言うと、
「そうだね、絵のサイズも配置も、もちろん色合いも計算されている。センスだよね」と、石黒は自分が褒められているかのように照れた感じに表情を崩した。
「ストーリーはどうですか?」真由瑠は褒められて満足も調子づきもしていない。まだ不安と期待が彼女のその胸を淡く混沌とさせていた。
「展開がわかりやすいし、子どもを楽しませるストーリーになっているね。子猫が恐怖に負けないで冒険していくさまは、読んでいる子どもたちみんな、自分自身を子猫に重ね合わせて物語に入りこませるんじゃないかな。ストーリーもおもしろい。でも、厳しいかもしれないけど、絵とストーリーにちょっと統一性がないというか、相性が悪いように感じるんですよねえ」
 真由瑠は眉をやや八の字にした困り顔の笑顔で細かく訊ねる。
「この手のストーリーだと、もっとはっきりした画風の方が、受けがいいのでしょうか。でも、わたしの絵はこういう感じだから、じゃあストーリーをもうちょっと落ち着かせたらいいでしょうか。……それだと、どういう読み手を対象にしていることになるんだろう」
「今のままのこの絵本でも、読者はつくとは思うけれどたぶんごく少数で、商売になるくらいつくとは思えないんですよね。多くの子どもたちに届くような門戸の広さを持った作品を目指すなら、絵とストーリーはがっしりとお互いの手をつないだ方がいい。まあ、仮にだとしても、この作品のストーリーのトーンを落としてそれで調和がとれた状態になった作品が、作品としての強度を持つかどうか。そこは難しいかもしれない」
 そっかあ、と肩を落としちょっと猫背になった真由瑠に石黒は続けた。
「いや、良いか悪いかでいったら、この作品は良いと思うんです。なんかでたらめを言ってるみたいだけど違うんだ。この作品はちょっとバランスが悪いみたいに言ったけどさ、それぞれの要素の質って高いよね。客観的に見る目が永松さんの中に少しずつでもできてきたら、あなた、ポン、ポン、ポンって階段を駆けあがっちゃうよ」
「俺も、この作品はこれからのためのステップになってるんだと思う。悲観することはないんじゃないかな」と陽一も石黒に同意して真由瑠を評価した。
 カウンターにいたはずのスタッフの一人がいつの間にか陽一たちのテーブルの横まで来ており、恥ずかしそうに小さな声でもじもじとコーヒーのおかわりをすすめてくれた。石黒が、お二人とも飲むよね、と言葉だけの確認をしてスタッフにおかわりを頼んだ。石黒は、ありがとう、とスタッフに感謝を伝え、その後に二言三言なにか話しかけ、スタッフの女性は、はい、だとか、そうですよ、だとか短い言葉で返してからカウンターへ戻っていった。
 すべての人がそうではないとしても、多くの知的障害者の人たちは、語彙は少ないし表現は単調なほうだし、解釈できない仕草や挙動を取ることもあることを、陽一はスタッフの後ろ姿を眺めかつての同級生を重ね合わせながら思っていた。石黒はにこにこして障害を持つスタッフたちとコミュニケーションしている。言葉をうまくつかって作りあげた詩や川柳がそれらを投稿した新聞に掲載されるまでの技量を持つ彼が、複雑な言葉を使えない障害者との関わりに何を見てどう感じているのか、陽一にはわからなかったし、少し怪訝な気持ちにすらなるほどだった。手がかりも足がかりもない謎として、それは陽一の気持ちを、水泳で息継ぎを二度続けて失敗したかのようなあたふたと落ち着かないものにした。
 うわべだけのコミュニケーション。熱い軽さ、とかつて陽一が大都市で人々の発している空疎な言葉に嘆息したことがあった。石黒の、女性スタッフたちとのやりとりが、うわべだけなのかどうかはっきりわからなかった。ただ、いつからか渇望していた、土と血、と陽一が表現するものは、女性スタッフたちのほうにはどうやら宿っているな、とあいまいにではあるが、感じてはいた。
 テーブル上では、話題はこれまで陽一が作った音楽へと移っていた。陽一の代表作を石黒は動画サイトで何度も聴きこんでくれていて、今まで自分にはなかった世界が拓けたみたいだ、とずいぶん気に入ってくれた様子だった。
「飛田さんはこういう若い子に受けのいい楽しい音楽をたくさん書いてらっしゃって、きっと精神年齢が若いのかな。若いときの自分を失わずに年齢を重ねてきたように思えるなあ。創作アイデアはどんどん湧きでてくる?」
「そういう時期ももちろんあります。ハイになってる状態が続く時期」
「いいなあ。僕はもういろんな意味で枯れてきてるよ。たくさん水をやっても吸収が悪いしね。これからは逆に枯れてきたのを売りにしていかなきゃならなくなってきた」
 そんなことないですよ、と真由瑠が笑顔を向ける。そこで陽一の口を突いて出たのが
「……俺は、落ち葉なんです」だった。二人の視線を一手に集めた陽一は、
「樹液が通っているわけでもない、土に帰ったわけでもない、踏みしめられたり、風にもてあそばれたり、俺はそんな落ち葉のように宙ぶらりんの存在という気がするんですよね」と、ため息をつくように言った。
「落ち葉は落ち葉で美しい。地面を彩るよ。枯れた段階で山を彩るけれど……そうか、僕もまだ枯れても役に立てるな。それはいいとして、やっぱり飛田さん、あなたはまだまだ緑の葉っぱに見えるけど」
「行き詰まりはあるんですよ。札幌に越してきたのも、都落ちしたような、それこそ落ち葉になった、みたいなためでしたし。緑の葉っぱではないですね。現実的にどうだからだとか、うまくいえないけど」
「仮にだよ、本当に飛田さんが落ち葉なのだとしても、悲観するべきじゃないよ。うん、そうだ、今度は十月にまたこの街で会いましょうよ。永松さんは新しい絵本を完成させて見せてくださいよ。飛田さんにはこの街を見てもらう。紅葉がきれいなときだから、落ち葉のあなたに閃くものがあるかもしれない」
 真由瑠は同意して、描きまくります、と約束した。陽一もなんとなく、また来ます、と応える。
 カウンターではスタッフの二人が売れたパンを紙袋に詰め込んだり、忙しそうだ。いつのまにか、レジに並ぶくらいお客さんがいた。石黒が気づいて腰を浮かせたので、陽一と真由瑠は今日の礼をいい、石黒を手伝いに立たせた。
 外は依然、濃灰色の雨雲が空一面に広がっていて、一定のペースで小さな雨粒が落ち続けていた。雨粒は線となり地上へぶつかるとぴちゃりと弾ける。そんな路面が陽一には騒がしかった。真由瑠の胸にはまだメロンパンの幸せな甘い香りが満ちている。陽一は店を出ると、手のひらをかざして受けた雨水をしばらく眺めてからズボンでぬぐい、じゃあ、帰ろうか、と真由瑠を振りむいた。真由瑠にとってはそんな雨音も、心地のよい三拍子のリズムだった。
 
 
 
 十月のある日。よく晴れていた。山間の道路を走っていく。
 周囲を壁のように包み込む山々の斜面はその色合いでにぎやかだ。黄が楽しげに笑い転げ、橙が陽気に歌い、朱が照れながらも抱擁しあう。そんな谷間の道路を、陽一と真由瑠を乗せた軽自動車が疾走していく。ふたたび、秋張市の街中へと。
 十一時前に石黒の店に着き店内を覗いたが、石黒は店の裏にいるという。着いた時からなにかを燃やす煙と臭いが立ちこめていたからこれはと確信して二人で裏へ回ると、石黒は膝上くらいまでのドラム缶に落ち葉をくべてたき火をしていた。
「やあ。まだ焼けてないけど今日は焼き芋をごちそうするよ。寒いでしょ、ほらほら二人ともこっちへ」
 ドラム缶は加工してあって、下に窓のように空いた口があり、そこから落ち葉や枯れ木をくべられるようになっている。開け放たれたてっぺんには網が敷いてあり、そこにアルミでくるんださつまいもが四本、小さくじゅうじゅうと美味しそうな音を響かせ甘く香ばしい匂いを漂わせながら転がしてあった。立ち上る煙の量もなかなかのもので、風向きによって陽一も真由瑠もその直撃を受けるときがあり、燻製になる、と笑いながらその都度立ち位置を変える。それでも、真由瑠は、あたたまりますね、と嬉しそうだった。
「どうだい飛田さん、燃料となって燃えていく落ち葉を見てどう思う。あなたはこの前いらっしゃったとき、自分は落ち葉だと言っていたけれど、こんなにものエネルギーを秘めていることには気付いていなかったでしょ」火かき棒をドラム缶のなかにつっこみ燃え具合を確かめながら石黒はさわやかな声で言った。
「落ち葉っていう死んだものが、燃やすことによって熱を放ち煙となり灰となっていくんですね。俺も最後にぱっとひと花咲かせられるってことかな」そう言い放ちはしたものの、陽一は腕組みをしてなおも考え続けている。
「僕は言葉を扱うのが比較的得意だからこういうことを言うんだけど、あのさ、言葉って言の葉ともいうじゃない。つまり言葉は言語の葉っぱなんだよってね。じゃあ、言の葉が落ち葉の状態になってるのってどういうときだろう?」
陽一は、はっとした。それは都会で味わってきた幾多の言葉がそうだったのに思い当たったからだった。
「重みがないし、カラッカラに乾いているし、っていう死んだ言葉ってありますね。大都会の言葉ってその傾向が強いと経験上思いますよ。俺はすごく嫌いでした。あんなの中身のないてんぷらだ、てんかすだ、って。できたては熱いし、ちょっと食べるには美味しいけど、食べ過ぎるともたれて吐きそうになる。俺はもう食傷したっていうか、金輪際天かすは食べたくない、そういう言葉が渦巻く場所にいたくないと思って大都会を出てきたのが一番の理由なんですよ」
「ふうん、飛田さん、それが重要な七割の部分の理由なんですね。前に札幌に越してきたわけを話してくれたときは、これは三割って言ってたの、覚えてますよ」木切れでさつまいもをつついていた真由瑠が陽一を振り返った。
「そうだよ。言いたくても、なんて言えばいいかわからなかったんだよ。やっと石黒さんに引き出してもらった感じ」
 石黒が、いいかい、と真由瑠の目の前のさつまいもを火かき棒で転がした。じゅう、とひと際大きな音がした。
「天かすみたいな言葉か。でも、そんな天かすみたいって言われるタイプの言の葉が、落ち葉と一緒だとしたら? さっきの話じゃないけど、落ち葉はこうやってね、たき火の燃料になるじゃないか。なんだか言葉遊びをしているみたいだけど、それでもここのところを考えてみるのって面白いし大切かもしれないよ」
「そうですね。死んだ言の葉、落ち葉。燃やせば人をあたためるし、焼き芋だって焼ける。死んだ言葉も使い方次第だってことですかね?それこそ言葉遊びの材料として使えたり」
「うんうん。たとえば駄洒落や冗談なんていう言葉遊びは落ち葉を燃やすことのわかりやすい例かもしれない。それと、燃えなくても落ち葉は養分になるね。土になる。そのあたりはどうだい?」
 陽一はまたしても、はっとした。ジグソーパズルのピースが埋まっていくように、だんだん全体像に近づいていく気配がする。
「かつて樹液がかよっていた葉が枝から落ちて、そのうち土になる。死んだ言葉も、もしかしてそれらをうまく組み合わせることで有機的に働くんだろうか? 落ち葉が分解されることで養分としての土になるように。そうだ、樹液は植物の血液みたいなものだから、落ち葉から土と血が連想されるな。土と血。永松さん、覚えてる?」
 真由瑠は、顔が熱い、と言ってたき火からすこし距離をおき、覚えてますよ、あたたまるものの絵本の話をしていた時でしたね、と紅潮した顔を陽一に向けた。
「土と血とはけっこう奥深いところまでそのあたたまるものの絵本の話題は進んだんだね。さて、焼き芋も焼けてきた頃だし、そろそろ店の中で永松さんの絵本を見せてもらおうかな。飛田さんとの落ち葉の話はまたそのあとにしよう」
 四本の焼き芋を新聞紙でくるんで、石黒は陽一にもたせた。
「先に入っていて。火の始末をしていくから。それと、一本、うちの二人のスタッフにあげてくれるかな。半分こにしてって」
 言われるまま、二人は、こんにちは、と店内に入った。前回とは違う二人の女性スタッフが、店長のお客さんですね、と迎えてくれて、陽一が焼き芋を渡せば、二人ともやったあ、と笑顔がはじける。そして、前回と同じ奥の席へと案内してくれた。
 ごそり。テーブルの上に置かれたクリップ留めの書類の束。あたたまるものの絵本だ。真由瑠は車中で絵本を見せてくれなかった。着いてからのお楽しみです、とやや形式ばった調子。真由瑠は満を持して公開しようというちょっとした遊び心に気持ちを委ね、陽一の申し出を断ったのだった。陽一は心の裡で苦笑した。本当は早く誰かに見せたいくせに。クリエイターの気持ちは本来そういうものだ。
 しばらくして、カウンターの奥から石黒の声が聞こえてきた。どうやら裏口から店内に入ったようだ。やがて、三つのコーヒーカップをトレーに乗せた石黒がやってきた。
「おまたせ。焼き芋をかじりながらじゃ原稿が汚れるね。焼き芋はあと。絵本にしよう」
 陽一は真由瑠と隣り合って座っていたのだが、向かいに座る石黒が絵本を読む段になると、これでは自分は読めないことに気づき、俺もいいですか、と彼の隣に移って、いっしょに読み始めた。真由瑠は姿勢をよくして、絵本を読む二人を静かに見守っているが、心臓は高鳴っていた。
 絵本は、以前、真由瑠が陽一に語ったように、具体的なあたたかいものからどんどん抽象的なあたたかいものへとページをめくるごとに少しずつ変化していった。水彩の絵が柔らかく、色づかいとタッチが、もうそれだけであたたかい。あと数ページのところまで来ると、ワンテーマで見開き二ページが使われていて、なんと陽一の言った「土」と「血」も扱われていた。絵の訴求力と、単語だけなのが多い短めの文章との合わさり方が見事で石黒は息を飲んだ。文章の内容と絵の力が一体となって、テーマが読む者のこころにせまってくる。しめくくりのページには、草原で馬に寄り添う少女の淡い絵が描かれていた。添えられた言葉は、「ひとりじゃない。ひとつじゃない」。
 陽一は、腕をあげたな、と鼻息荒く真由瑠を讃えた。石黒も目をしばたたかせながら、これはいい、これはすごい、と何度もうなずいてみせた。真由瑠は、ピンと張りつめていた糸がゆるんだように椅子の背もたれに体をあずけると、はあっ、と一息だけ漏らした。
 その後、焼き芋をかじりながら、三人はなかなか言葉をつなげていくことができない。とはいっても、三人を包んでいる空気が気まずいものであるはずがなく、それはある種の幸福感によるためだった。不意にとつとつと、陽一、そして石黒が短い言葉で絵本の感想を述べる小さな瞬間が生まれるが、それが途絶えたときの沈黙がまたあたたかかった。真由瑠が最高潮の興奮からいくぶん覚め、饒舌に作成中のエピソードを語りだすまで、この心地よく、「よいもの」に圧倒された時間は続いた。
「永松さんの作ったあたたまるものの絵本は、きっと現代の人たちが求めているものだよ。僕はそう思う」最後までめくられたページを元に戻し、再びあらわれた絵本の表紙部分を眺めながら石黒が言う。
「土と血、使ってくれたんだね。このことを理解してもらえたどころか、この絵本で、俺自身が気付いていなかったところまで表現してくれたね。やさしくわかりやすく教えられたっていう感じがする」
「飛田さん、あのときは土と血って言って、すごく遠くまで行っちゃったなあと思いはしたんですけども、でもこれって重要な部分にくさびが打たれてるなって感じもしてたんです。そのときの感覚を忘れずに何度もイメージして、考えて、取り入れさせてもらうことにしたんです」真由瑠は、両手の指の付け根のあたりまで伸ばした袖をこすり合わせる仕草で言った。
「俺さ。この話の流れで言うのもなんなんだけど、小学生の同級生に知的障害を持った女の子がいて、彼女とうまく接することができなくて。その記憶が魚の小骨のようにひっかかりながら生きてきたところがあってね。俺が、土と血を求めて、そういうところに敏感でこだわりがあったのは、たぶん、その同級生の女の子に対する思いによるんじゃないかって、今気付いた」
「どういうことだろう?」石黒が陽一へと身体の向きを変えた。
「彼女には声をかけただけで泣かれてしまったんです。そのあとの学校生活では、ただ遠巻きにして彼女を眺めているだけ。知らんぷり。その子がいじめられていても、困っている様子でも。どうしていいかわからなくて。そのわからなさは大人になってもずっと解けない難解な問題だったんです。それが、今、やっと、なんだか、なんていうか」
「わかった、というより、悟った?」
「はい。土と血を強く求めるっていうことは、自分に土と血のようなあたたかさが備わっていなかったことへの重い後悔の念のあらわれなんだと思います。あのとき、同級生の女の子に何もしてあげられなかった、方法もなにもわからなかった、そんな自分に決定的に足りなかったものが、他人をあたためるものだった。土と血だった。だから、きっと意識の深いところで自分を責めていたんですよ。それがいつしか大都会の人たちの言葉に吐き気を感じだす。彼らにあたたかみのない自分自身を投影して嫌悪し始めたんでしょうね。まったく俺は情けないヤツだよ」
「飛田さん、自分を責めないでくださいね」真由瑠の目はまっすぐやわらかで、陽一にはそれは慈しみを感じさせ心を閉じてしまう妨げになった。石黒が言葉を継ぐ。
「うちの店のスタッフ相手でもやっぱりどうすればいいかわからなかったかい?」
「そうですね。どうしよう、と思いました。言葉遣いに気をつけた方がいいのかな、とか、わかりやすい言葉を選ばないと、とか考えたり」陽一はうつむき、小さくて申し訳なさそうな笑い声をあげた。
「そうかあ。言語表現がつたなくても、それを発するところにこそ大切ななにかがある。それこそ、落ち葉の話に近いじゃないか。たき火しながら話したさっきのあの話だ。中身のない言の葉は落ち葉のようなものだったね。落ち葉には、落ち葉になっても幹や根から受け継いだエネルギーが残っているんだよ。だから、燃えるんだ。落ち葉だって、あたたまるもの、なんだよ」大量の落ち葉にくるまれば布団代わりにもなるし、と石黒はにこやかにおどけてみせ、そして、
「結局ね、言葉っていうのは、実は、表現されたそのままのものってわけじゃないんだって」と陽一の肩を何度か軽く叩いた。
 言葉はそのままのものじゃない。そうか、と陽一はその言葉を何度も頭の中で繰り返してみた。今日は何度も心を揺さぶられる経験をしている。土と血は、落ち葉にさえ備わっているものなのだ。
「言葉を発するその手前の段階を考えてみるんですね? なぜ言葉を発するのか、そこのところが重要なところだと」
「そう。声をかけたい。感じていることを伝えたい。そうやって他人に繋がりたい思いって、どうだい? よくよくそこのところを考えてみると気持ちがあたたまってきやしないかい? 人ってものがかわいらしく、愛らしく感じられてくるでしょ」
「でも、これって、みんながわかっていることじゃないですよね。今までの俺みたいに全然わかっていないって人、たくさんいるでしょう? 大都会の人たちなんて、彼らを思い起こしてみても、まったくっていう感じがする」
「大都会の人たち……いや、現代の人たちだってみんな、あえいでいるんだよ。すぐに落ち葉になる言葉、それが大都会らしいというより、もはや現代らしいと言ったほうがいいかもしれない。他人と繋がりたくて、生まれでた言葉が落ち葉であってもそれを使うんだ。落ち葉が朽ちて土となりまた養分として木に流れていきまた葉っぱになって、そして落ち葉になり土になりを繰り返す。壮大なものだよね」
「それって儚いけど、なんだか愛おしく感じるサイクルですね」
「だから、人は人をやめられないんだよ。話をするのだって止められるものじゃない。僕なんか実にそうだよ。はははは」そして、
「ひとりじゃない。ひとつじゃない。……そうだよね」と石黒は真由瑠の絵本の言葉をなぞり、真由瑠に目配せをした。

 車から手を振って石黒と別れた。石黒は陽一と真由瑠の車が見えなくなるまで手を振り続けてくれた。
 帰り道、車窓を流れていく紅葉の景色が、行きのときよりも鮮やかに見えて、陽一のこころのどこか、ずっと乾いていた部分が一気に潤っていくような気分を彼にもたらした。ほんとうの光を発するその光源のひとつを見つけたからかもしれない。そんな穏やかで生きいきとした様子の陽一の表情を横目で見た真由瑠が言う。
「この街に、なんていうか、奇跡がありましたね」
 奇跡か、と小さくつぶやいた後、陽一はしっかりとした口調で言った。
「永松さん、君が起こした奇跡だよ。ありがとう」

 長い橋をぬけて、両脇に溢れんばかりの落ち葉を溜めた道路を走っていく途中、陽一は脇に車を止めてもらって助手席から降りてみた。かさかさと風に鳴り、ときには吹き飛ばされもする落ち葉の音を聴く。もしかすると、もっと耳を澄ませば、自分に似たタイプの落ち葉から発せられる言葉が伝わってくるのではないか、と陽一はふと思うのだった。
 
【了】
 
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