読書。
『ストーリー・セラー』 有川浩
を読んだ。
「致死性脳劣化症候群」と名付けられることとなった、世界でひとつしかない奇病であり難病に患う妻。その妻は作家です。妻とのなれそめから語られていく、夫婦の物語でした。一人称にとても近い三人称視点での語りで、小説としてはどことなくくだけた感覚を覚えました。
というのが、本書のSide-A。もうひとつ、Side-Aと対になる、ほぼ同分量の物語Side-Bも収録されています。
著者の有川さんはラノベ出身のためか、軽めの文章なのですが、どことなく空虚なようでいて人肌の温度のしっかりある質感がよかったです。そして、ぐっと引き込まれるエモさもあります。
では、ここからは引用しながらになります。ネタバレにもなりますので、ご注意を。
__________
「何も起こってないときに普通に付き合ってる分には普通の善良な人たちだよ、って前に言ったよね」
彼女はそう前置きして話し出した。
うちの家族はね、私以外の皆が皆、現実に向き合う能力のない人たちなの。困ったことや悪いことが起きても、じっと我慢してたら、無視してたら、いつか何とかなるって思ってて、誰かがどうにか片付けなきゃどうにもならないことをいつまでもいつまでも先送りにする人たちなの。父は強がってるけどその筆頭で、しかも王様なの。たとえば母が「これは何とかしなきゃまずいんじゃない?」って言っても怒鳴りつけて黙らせる人なの。
父には何を言っても無駄なの。だから家族は昔から父には何も言えなかったし、今更もう何も言わない。そのくせ父は、自分で引っ張って引っ張ってこじれきってから「どうにかしろ」って家族の誰かに問題をなすりつけるのよ(p101)
__________
→Side-Aより。これってうまく言えてるなあ、と思いました。たとえば僕自身の、ごく近くの周囲、そしてちょっと遠めの周囲までの範囲なんかはたいていこのように「何も起こってないときに普通に付き合ってる分には普通の善良な人たち」だったりするんですよ。世間的にはどうなんでしょう? やっぱりありふれていたりしますでしょうか。……というか、かつての自分もそうでした(忘れるところでした)。とくにコミットせずとも、自然と解消していくのが、周囲のこじれやちょっとした問題だと思っていました。でも、解消しきれていないでうっちゃられるそういった問題が、水面下で積もりに積もっていって、目の前に顕れたときには横綱級になっていたりもするんです。うちの母親は先送りのこういうタイプだし、父親もごく家庭内のこと、介護の一コマだとかではこじれきってから「どうにかしろ」となります。肌感覚でわかるところでした。
__________
日曜日の夕方、彼女は一時間近くも病院をたらいまわしにされた。理由は後に詳しい友人が教えてくれたが、精神科や心療内科に通っている患者は、それだけで受け入れを拒否されるのだと言う。たとえ倒れた原因が脳卒中かもしれなくても、心筋梗塞かもしれなくても、精神病による通院歴があるだけで「精神病で緊急を要する症状は出ないので、受け入れはできない」と一まとめに蹴られる。彼はそんなことを知らなかったので、一一九番のオペレーターの指示のまま彼女の現在の通院状況と病歴や投薬内容を告げた。(p115-116)
__________
→Side-Aより。まず二点ほど指摘したいです。ひとつは、精神科や心療内科に通っていない患者でも、受け入れに1時間やそこらのかなりの時間を要することは珍しくないこと。もうひとつは、精神科や心療内科に通っている人はひとくくりに「精神病」ではないこと。精神病となると重いほうなのでしょうけれど、○○障害、○○症候群、など、精神病とまで呼ばれない疾患が多くあるものです。それを踏まえて言うのですけれど、さいきんは、精神科や心療内科には、もっと気軽にかかるべきだ、というもっともな論調がありますし、実際アメリカなどのように軽く来院できたほうが苦しみが軽くなると思います。でも、引用にあるように、救急時に受け入れを拒否されるなどの「選別」対象になってしまう。薬の管理が病院側でできないから入院はお断りなんて言われて拒否さることもあります。このあたりが社会的かつ世間的に解消されないと、精神科や心療内科に通うことへの障壁は低くならないです。また、そういった診療科へかかる人への差別も少なくなりません。気軽な感じで行けるというアメリカなんかは、救急時の扱いはどうなってるんでしょう?
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それを訊いたら、正気に戻ってしまうような気がした。誰かを好きになる瞬間は、正気じゃない。(p185)
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→Side-Bより。人を好きになるときって、頭がヘンになっている状態だなんて聞いたり読んだりしましたけど、この作品の著者もそう思うんだなあと。というか、そういう認識でいて欲しいです、大前提としてみんなが踏まえていること、みたいに。「ああ、頭がちょっとヘンになってるんだね」とくすくす笑われながらも微笑ましいと思われて許容されるっていうようにです。
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あたしたちを助けてくれない世間体など知るか。あんたたちも含めて。(p212)
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→Side-Bより。あんたたち、というのは、こまごまと干渉してくる両家の親のことです。そうなんですよね、すごく困っていて、誰かに助けてもらえるならありがたいのに、助けてもらえることなんかまずなくて、でも、そんな周囲の世間体は守らないといけない、みたいな不文律というか、暗黙の常識みたいなものってあるなあといつも感じています。そう感じているからこそ、この一文に小気味の良さを感じて共感が芽生える、という。
というところでしたが、最後にひとつ。事後論理と事前論理について、さいきんぼんやり考えているのですけど、この小説は、…というか本作に限らず他の多くの小説がそうだったりすると思うのですが、事後論理でつくられている作品といった感じでした。つまり世界のいまの在り方をまず肯定して、そこから構築している、というような。カフカの「世界と君との戦いにおいては、世界の側につきたまえ」という言葉のその通りの実践という感じがします。そればかりか、ほんとうに常識というか、定石なのかもしれないなとも思えてしまいます。世界をひっくり返したいと思っても、まずは肯定から入れという意味かな、なんて、考えてしまうところです。そして、本作は、そういう意味では、世界の前提を疑って、そこに挑むというよりは、世界の盤上は揺るぎないものだ、とそこは疑わずに、その盤上で生きづらさを言語化し、その世界をひっくり返さない範囲で、つまり世界のルールを変えることなく(ときにルールが失われているための生きづらさもあったりするので、失われたルールを再登場させるなどもありますが)、格闘する、言い返してみる、モヤを取り払ってみる、今一度そのあたり常識のもともとのところに立ち帰ってみる、などしている感じがします(……と考えましたが、世界の側につく、というところはもっと考える余地があり、ちょっと怪しい論述になっていることを認めます)。
『ストーリー・セラー』 有川浩
を読んだ。
「致死性脳劣化症候群」と名付けられることとなった、世界でひとつしかない奇病であり難病に患う妻。その妻は作家です。妻とのなれそめから語られていく、夫婦の物語でした。一人称にとても近い三人称視点での語りで、小説としてはどことなくくだけた感覚を覚えました。
というのが、本書のSide-A。もうひとつ、Side-Aと対になる、ほぼ同分量の物語Side-Bも収録されています。
著者の有川さんはラノベ出身のためか、軽めの文章なのですが、どことなく空虚なようでいて人肌の温度のしっかりある質感がよかったです。そして、ぐっと引き込まれるエモさもあります。
では、ここからは引用しながらになります。ネタバレにもなりますので、ご注意を。
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「何も起こってないときに普通に付き合ってる分には普通の善良な人たちだよ、って前に言ったよね」
彼女はそう前置きして話し出した。
うちの家族はね、私以外の皆が皆、現実に向き合う能力のない人たちなの。困ったことや悪いことが起きても、じっと我慢してたら、無視してたら、いつか何とかなるって思ってて、誰かがどうにか片付けなきゃどうにもならないことをいつまでもいつまでも先送りにする人たちなの。父は強がってるけどその筆頭で、しかも王様なの。たとえば母が「これは何とかしなきゃまずいんじゃない?」って言っても怒鳴りつけて黙らせる人なの。
父には何を言っても無駄なの。だから家族は昔から父には何も言えなかったし、今更もう何も言わない。そのくせ父は、自分で引っ張って引っ張ってこじれきってから「どうにかしろ」って家族の誰かに問題をなすりつけるのよ(p101)
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→Side-Aより。これってうまく言えてるなあ、と思いました。たとえば僕自身の、ごく近くの周囲、そしてちょっと遠めの周囲までの範囲なんかはたいていこのように「何も起こってないときに普通に付き合ってる分には普通の善良な人たち」だったりするんですよ。世間的にはどうなんでしょう? やっぱりありふれていたりしますでしょうか。……というか、かつての自分もそうでした(忘れるところでした)。とくにコミットせずとも、自然と解消していくのが、周囲のこじれやちょっとした問題だと思っていました。でも、解消しきれていないでうっちゃられるそういった問題が、水面下で積もりに積もっていって、目の前に顕れたときには横綱級になっていたりもするんです。うちの母親は先送りのこういうタイプだし、父親もごく家庭内のこと、介護の一コマだとかではこじれきってから「どうにかしろ」となります。肌感覚でわかるところでした。
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日曜日の夕方、彼女は一時間近くも病院をたらいまわしにされた。理由は後に詳しい友人が教えてくれたが、精神科や心療内科に通っている患者は、それだけで受け入れを拒否されるのだと言う。たとえ倒れた原因が脳卒中かもしれなくても、心筋梗塞かもしれなくても、精神病による通院歴があるだけで「精神病で緊急を要する症状は出ないので、受け入れはできない」と一まとめに蹴られる。彼はそんなことを知らなかったので、一一九番のオペレーターの指示のまま彼女の現在の通院状況と病歴や投薬内容を告げた。(p115-116)
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→Side-Aより。まず二点ほど指摘したいです。ひとつは、精神科や心療内科に通っていない患者でも、受け入れに1時間やそこらのかなりの時間を要することは珍しくないこと。もうひとつは、精神科や心療内科に通っている人はひとくくりに「精神病」ではないこと。精神病となると重いほうなのでしょうけれど、○○障害、○○症候群、など、精神病とまで呼ばれない疾患が多くあるものです。それを踏まえて言うのですけれど、さいきんは、精神科や心療内科には、もっと気軽にかかるべきだ、というもっともな論調がありますし、実際アメリカなどのように軽く来院できたほうが苦しみが軽くなると思います。でも、引用にあるように、救急時に受け入れを拒否されるなどの「選別」対象になってしまう。薬の管理が病院側でできないから入院はお断りなんて言われて拒否さることもあります。このあたりが社会的かつ世間的に解消されないと、精神科や心療内科に通うことへの障壁は低くならないです。また、そういった診療科へかかる人への差別も少なくなりません。気軽な感じで行けるというアメリカなんかは、救急時の扱いはどうなってるんでしょう?
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それを訊いたら、正気に戻ってしまうような気がした。誰かを好きになる瞬間は、正気じゃない。(p185)
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→Side-Bより。人を好きになるときって、頭がヘンになっている状態だなんて聞いたり読んだりしましたけど、この作品の著者もそう思うんだなあと。というか、そういう認識でいて欲しいです、大前提としてみんなが踏まえていること、みたいに。「ああ、頭がちょっとヘンになってるんだね」とくすくす笑われながらも微笑ましいと思われて許容されるっていうようにです。
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あたしたちを助けてくれない世間体など知るか。あんたたちも含めて。(p212)
__________
→Side-Bより。あんたたち、というのは、こまごまと干渉してくる両家の親のことです。そうなんですよね、すごく困っていて、誰かに助けてもらえるならありがたいのに、助けてもらえることなんかまずなくて、でも、そんな周囲の世間体は守らないといけない、みたいな不文律というか、暗黙の常識みたいなものってあるなあといつも感じています。そう感じているからこそ、この一文に小気味の良さを感じて共感が芽生える、という。
というところでしたが、最後にひとつ。事後論理と事前論理について、さいきんぼんやり考えているのですけど、この小説は、…というか本作に限らず他の多くの小説がそうだったりすると思うのですが、事後論理でつくられている作品といった感じでした。つまり世界のいまの在り方をまず肯定して、そこから構築している、というような。カフカの「世界と君との戦いにおいては、世界の側につきたまえ」という言葉のその通りの実践という感じがします。そればかりか、ほんとうに常識というか、定石なのかもしれないなとも思えてしまいます。世界をひっくり返したいと思っても、まずは肯定から入れという意味かな、なんて、考えてしまうところです。そして、本作は、そういう意味では、世界の前提を疑って、そこに挑むというよりは、世界の盤上は揺るぎないものだ、とそこは疑わずに、その盤上で生きづらさを言語化し、その世界をひっくり返さない範囲で、つまり世界のルールを変えることなく(ときにルールが失われているための生きづらさもあったりするので、失われたルールを再登場させるなどもありますが)、格闘する、言い返してみる、モヤを取り払ってみる、今一度そのあたり常識のもともとのところに立ち帰ってみる、などしている感じがします(……と考えましたが、世界の側につく、というところはもっと考える余地があり、ちょっと怪しい論述になっていることを認めます)。
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