Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

怒りたくなかったら人を型にはめない。

2024-05-02 22:32:49 | 考えの切れ端
たとえば子どもに「こうしなさい!」と指図する親がいる。それは子どもに「教える」のではなく「型にはめている」。型にはめるのは、子どものためになることではなく、親自身のためになること。型にはめておくと、自分が楽だからだ。

これ、介護もそういうケースがある(うちの親父がそうだ)。薬の時間だからこっちへこい、早くしろ、何度言わせる、この薬から順に取れ、すぐに水を口に入れろ、早く飲み干せなどなど、一から十まで指図をして型にはめ通しにしたりする。それで少しでも滞ると激怒する。自分が楽にならないから。

日常に於いて、人を型にはめ通そうとするのはかなりの暴力だ。また、型にはまらなかったときに激怒し怒鳴り散らすそのエネルギーはまったくの無駄使いであるし、怒鳴り声を聞かされるほうには少なからずダメージがあって、Win-Winならぬ、Lose-Loseになっている。なのに、型にはめる行為を選択するのは、実に愚かしい。

「型にはめる」と、その対象者も行為者も人間性を失うことになる。軍隊、兵士を考えてみればわかる。型にはめて人間性を失くさせて(機械にしてしまう)、それで人殺しができるようにしている。

社会を考えてみても、「社会の歯車」という言葉があるように、人を型にはめることは、人を人間性から遠ざけて機械のようにすることにあたる。でもふつうは、社会(仕事)という場ではなんとか折り合いをつけてやっていくものだけど、家庭の場でも型にはめるという行為をし続けると、型にはめるほうもはめられるほうもおかしくなってしまうだろう。まっとうな人間性に反している行為なのだから(人を尊重する姿勢とは真逆なのだから)。

家庭という、型にはめられない場所で過ごせる時間があるから、社会に出ているときには型にはまっていられるとも言えそうだ。ならば、なおさら、家庭(仕事以外の時間)では型にはめない、はめさせないことが大切になるのではないのだろうか。

というわけで、家庭という場、仕事から離れている時間に、自分が楽をしたいからといって他者を型にはめるのはよしたほうがいいんじゃないだろうか、ということでした。疲れているのはわかるのだけれど。型にはめていると安心(つまり不安が源にある)なのもわかるけれど。

そして、その不安を生じさせるのが孤独感であることも知っているのだけれど。

型にはめなければ、それがうまくいかないときに怒るなんてことも生じないので、怒りたくなかったら人を型にはめないことだ。そういった「怒りのコントロール方法」もあると思う。
Comment    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 『詩の誕生』 | TOP | 『ストーリー・セラー』 »

post a comment

Recent Entries | 考えの切れ端