車中ではまず、牧さんと自己紹介をしあった。牧さんは一月に六十九歳になり、仕事は数年前までコンビニのオーナー兼店長を務めていたそうだ。もともと自営業だった自分の小さな酒屋を二十数年前にフランチャイズのコンビニにし、今は息子夫婦に経営を譲っているのだ、と。顔なじみの客の多いまずまず安定した利益の出ている店で、このご時世でも安泰なほうらしい。自己紹介が僕の番になり、スーパーの従業員をやっていることを教えると、同じ商売だね、と牧さんの顔はほころんでいた。
何年目なんですか? と聞かれて、二年目になったばかりです、と答えた。その前はどんな仕事をされていたのですか? とさらに聞かれた。
「Uターンするまでは札幌に居たんです。いくつかの職には就きましたが、目立った職歴はありません」
正直にすらすらと出た。職歴の無いことを見下すなら見下せばいいや、という半分やけになった気持ちと、頼まれてガイドを引き受けているのだから簡単にこっちを馬鹿にできるものか、という挑発的な気持ちが、べったり背中合わせになって勢いづかせたのだと思う。
牧さんはどうだったかというと、そうですか、とそれまでと同じ口調で頷くだけ。その後も僕に対していい加減な扱いなどせず、それまで通りの率直でなおかつ親しみを覚えさせる態度で接してくるのだった。運転席からたまにこちらをちらちら見る目の色にも変化は無かった。
構える必要が無くなり、それまでずいぶん肩に力が入っていたことを知った。間柴瑤子が突き付けてきたように、まさかピーターパン・シンドロームの言葉が飛び出してくることはないだろうけど、と考えてはいたのだけれど、僕の頭の中ではその言葉が意に反して連呼されていたのだ。
それから牧さんに、炭鉱博物館についての予備知識になりそうなことを話した。小学校高学年の頃に社会科の授業で教わった内容からの話なのだけれど、案外記憶していることに自分が頼もしく感じられた。石炭はメタセコイアという針葉樹が地中に埋まり長い年月をかけて炭化したものなのだとか、この土地の地質調査をして石炭を見つけたのは明治時代のお雇い外国人だったアメリカ人だったとか、意外とすらすらでてくる。牧さんは僕の言葉にはっきりとした相づちと、好奇心ありげな深い吐息をもって応えてくれた。
わずかな知識を一通り伝え終わると、僕と牧さんは少しの間、沈黙した。僕が小学生だった頃のこの町にはまだまだ炭鉱が動いていたし、人口は二万人を超えていて、つまり現在は六千人超だから、3倍以上にあたる規模を誇っていた。最盛期には十一万人を超えていたらしいのだけれど、それは僕がまだこの世に生まれ出る可能性すら無かった昔の時代だ。
親が炭鉱で働く子たちは、堂々としている子がほとんどだった。それどころか、自分の階級は高いのだ、と踏まえているかのように威張り散らす子もいた。それはもしかすると、威張り散らすような性向の子がたまたま、炭鉱夫の子だったに過ぎなかったのかもしれない。でも、炭鉱夫というのはこの町では偉いのだ、という周囲に満ちた空気に、建設会社社員の息子の僕はうっすら気づいていた。昭和後期に生きる町の人たちの間には歴然と力関係が存在していたのだった。明文化されない階級意識があり、当たり前に差別があった。僕はそのような町の空気を吸いながら育ったのだ。
牧さんに詳しいナビを求められて我に返る。そこの脇道に入ってください、あとは道なりです。そう教えて、三分ほどで駐車場に到着した。博物館の建物はそこから三十メートルほどの急坂を上ったところにある。
じゃあ、行きましょうか、と軽い足取りの牧さんは、上り坂で無口になり、呼吸が忙しくなった。ウォーキング慣れしている僕でもなかなかきつい坂道で、「堪えますね」と出した声にも大量の呼気が混じる。そのとき、上から話し声が聞こえてきたので見上げると、下ってくる青く短い髪の若い女が居たのだった。スマホで自撮りしながら、活舌よく大きな声で喋っている。二十代半ばくらいだろうか。黒皮のジャケット、いかめしいバックルと白いパンツ。立ち止まって撮影角度を変え、二階建ての博物館の姿を背景にしたり、今度は入口の向かいに並ぶ何本かの樹木を映しながら、「これがさっき解説したメタセコイアなんですよー。石炭になった木。すごいですねえ」なんてやっている。一列になって左側に寄った僕と牧さんの横を、女は自撮りとお喋りを続けながら通り過ぎていく。「ほんとうに真っ暗な、闇の世界の坑内で石炭を掘りだして、地上に持ち帰ったわけで。とても危険な仕事だったことは想像に難くないというか。そうやって危険をくぐり抜けてゲットした石炭は、闇からの栄養と言ってもいいんじゃないかな。……なんて、ちょっと気取った言い方ですね、ごめんなさい」。僕らとの位置関係をいつのまにか視認していたかのような滑らかな動き方だった。
僕らが入口の重いガラス製扉まで来たときにはもうあの女の明るい声は聞こえず、牧さんが、「ああいう人、実際にいるんだね」と架空の存在を何かの間違いで目にしてしまったような言い方をする。僕自身もああいった仕事の最中の人に出くわしたことは無くて、「動画配信者って、珍しかったですね」なんてそっけなく答えた。
受付で牧さんが入場料を払おうとすると、町民だった僕は免許証の提示を求められ、無料になった。一階の展示ルームには五十センチ四方ほどの石炭のオブジェがある。ただの大きな石炭の塊といえばそうなのだが、てかてかに黒光りするくらいに磨きこまれている。この町で採掘される石炭は実に良質で、最盛期には北海道の石炭生産量の20%を占めた、と解説板に書いてあった。牧さんはこの町が石炭で繫栄していた同時代を生きていて、時代の趨勢(すうせい)を知っていたし、壁にかかっている戦後から昭和中期にかけての、いくつもの写真パネルを見て懐かしがっていた。僕はガイドをするように頼まれていたが、博物館までの道案内が終わってしまうともう出番はないなという気になっていた。博物館に公開されている具体的な情報の量と奥深さを読解する能力は、おそらく牧さんと同等でしかなくて、役立てるとするなら、その情報について対等な立場で話し合う相手になるしか余地はないと察したので、努めて牧さんに話しかけることにした。
階段で二階に上がると、展示は石炭の多岐にわたる利用方法の解説から始まり、石炭から石油へと国の施策が転換されて町が斜陽を迎えていったことや、戦時中までの朝鮮人や中国人の強制労働、ガス突出や坑内火災などの事故、炭鉱労働者と炭鉱会社社員の間の格差と差別などの、負の側面を見学者に問うてくる内容へと変わっていった。簡単に白黒つけられる問題でもなく、僕と牧さんは、気の乗らない議論を続けながら、少しずつ疲れていった。
二階の展示が終わり、そこから地下へ降りるように指示する案内板があった。エレベーターに乗ったころには石炭関連の話題に触れるのはもう嫌になって、今回のガイドにあたっての信条からは反するのだけれど、僕からはなにも話しだせなくなっていたし、牧さんだって一言も発しなかった。物憂げな僕らは借りてきた猫のようにエレベーターで運ばれた。
エレベーターの箱から降り、地下に足を踏み出すと、傍らの棚にヘルメットが置いてあり、僕らは緩慢にそれを装着した。そこからは明治から現代までに至る採掘作業の変遷をたどる、貧相な蝋人形によって再現された展示を見る真っすぐな道になっていた。なんとも薄気味が悪く、ここでも僕らはほとんど言葉を交わさなかった。牧さんは覇気がなくなった目で瞬きを繰り返していて、へたり込んできているに違いない気分をもはや変えたそうに見えたし、そんな牧さんの様子に共鳴するもののあった僕もおそらく同じような陰鬱な表情をしていただろうと思う。蝋人形たちに勝るとも劣らず、僕たち二人も貧相な面持ちへと変貌していった。
居心地がいいですよね、なんて痛烈な皮肉を言おうかどうか迷ったが、牧さんの顔を見てそれはやめにしておいた。息詰まる展示ゾーンを抜けると、最後の展示となる模擬坑道の入り口に行き着いた。
照明は最小限しかついていなくてとても暗く、足下だって砂や小石の模擬坑道の有り様だった。しかし牧さんの目の輝きが復活しだしているらしいのが声の調子からも伝わってくる。薄っぺらくなっていた存在感がふくらみを見せる。
「坑道を歩けるなんて、ちょっとできない体験だよね」
「ですね。大昔に実際に仕事していた坑道だそうですよ」
牧さんは喜んでいるけれども、僕はそこに満ちた暗闇が気障りだった。それは息苦しさのようなもので、一瞬、ここの空気で肺を満たすことすら躊躇われもした。体内を侵食されてしまいそうな不気味な不安があり、そんな暗闇へのなにかしらの抵抗感が瞬時に生まれ出たのだ。でもそれは気苦労のようなもので、いつも通りに呼吸をしたって、少々埃っぽい匂いのする空気を吸い込む程度に過ぎないのは頭ではわかってはいたのだけれども。
「牧さん、これ、一人だったら心細くなりそうですよね」
僕は後ろの牧さんを振り返って、足を滑らせてバランスを崩したりしていないか気にする。手すりから手を離せない。牧さんは一歩一歩足場を確かめながら後ろをついてきていた。暗闇のせいで、上っているのか下っているのか判別が難しい。
「ほんとだね。まるで安全装置を外された場所に突然、移されてしまったような気がするしね。でも、ここで実際に昔の人たちは作業してたんでしょ。当時の雰囲気の何割かは当時のままここに保存されてるんじゃないかっていう思いがしてる。勘違いなのはわかっているけど。でもそれこそ明治期や大正期なんかは、ランプ片手に真っ暗闇の中へ足を踏み入れての労働だっただろうからさ、メンタルの面でもかなりの過重労働だったろうなあ」
ところどころで息継ぎを挟みながら、牧さんはそう言った。闇の中をランプの灯りを頼りに石炭を掘り、地上にもたらした人たち。時代を超えて、そんな現場に僕らは立っていた。
僕にも思うところがある。この町の来歴をあらためて知ったことで、いくつか気づいたことがあったし、アナロジーとしての小さな発見もしていたのだ。
模擬坑道から抜けると、身体にまとわりついていた暗闇の余韻を、降り注ぐ陽光がすっかり洗い落としてくれる気分だった。世界が元に戻った思いがした。
僕らは二人とも、どちらから促されるでもなく自然と、うわーっと大声を出しながら背を伸ばした。そうして、また自然とお互いを見合って、小さく笑いあった。さっぱりとした達成感だった。
牧さんの車に戻り、エンジンをかけた状態でしばらく休んだ。
「どう思いました? 私はねえ、やっぱり二階の展示の重々しさが堪えましたよ。でも、模擬坑道を歩けたことはいい経験になりましたね。全体としてはなかなかボリュームがあったかもしれない」
座席のヘッドレストのあたりで腕を組み、そこへ頭を乗せるようにした牧さんが、前方の風景を眺めながらうっすらと微笑んだ。目じりに深いしわが寄っている。
「僕も同じく二階の展示は堪えたんですが、それでも外国人強制労働者への差別、炭鉱労働者と炭鉱会社社員との差別、炭鉱従事者と一般市民との差別といったところが気になりました。どうしてかというと、そういう町で育ってきたんだな、ってちょっと残念な思いがしたし、僕の中にも自然とそういったものが、つまりこの町の世間から受け取ってしまったものがあるんだろうな、と思えたからです」
「荒くれ者やならず者と言われるような人たちも多くて、全国からさまざまな人たちが吹き溜まりのように集まった町という側面もあったんだねえ」
「そうですね。で、今や離散していく方向にある。人口は六千人台ですから。長い日本の歴史からみたら、刹那的な町なのかもしれないですよ」
なるほど、と牧さんは同意してくれた。
「歴史の泡沫(うたかた)の町、か」
そう言いながら、牧さんはエアコンの設定温度をいじって風量を抑えた。助手席からずっと運転席のほうを向きながらしゃべっている僕の脳裏に、入口のあたりで擦れ違った動画配信者の女の言葉が不意に思い浮かんできた。
「牧さん、覚えてますか、青い髪の女の人」
牧さんは、ああ、と間の抜けたような声を出すと、記憶を探るように視線が虚空を舞った。
「動画配信の仕事の真っ最中だったね」
ようやく牧さんがこちらへと体の向きを変えて、僕らは向かい合うかたちになった。僕は話したいことのイメージをぐるりと簡単に頭の中で確かめると、青い髪の女の言葉をなぞった。
「まず、闇の世界である坑内で掘りだした石炭を、地上の世界に持ち帰った、って彼女が言っていて。その話の最後に聞こえたのが、石炭は闇からの栄養、っていう言葉でした」
牧さんは小さく何度も相づちを打った。僕は続けた。
「石炭の使い道の展示があったじゃないですか。けっこういろいろあるなあ、と見てたんですが」
「暖房の燃料として使えたし、蒸気機関の動力にもなったし、火力発電所の燃料として電気を生むし、ガスも取れたし、肥料や医薬品なんかの化学製品にも加工されたってあったね」
記憶力がいいな、と思った。
「ほんと、あの人の言ってたように、闇の世界から栄養分を頂戴してきたっていう感じがしました。エネルギー源が闇の世界にあって、そこから採掘してきたものが、光の世界で生きるには欠かすことのできないものとして役立つっていうふうに、僕も彼女の言葉を繰り返してみながら考えていたんです。ちょっと話がややこしくなるんですが、これって、一人の人間を例にとってみても同じことじゃないかって思えて」
牧さんはまじまじと僕の顔を見つめてくる。
「うん。それはおもしろい話だと思うよ。闇の中に、闇の化身のような漆黒の石炭が眠っている。その闇の化身が地上の世界のエネルギーになる。まずそういう話だったね。それで次の話だけど、一人の人間だって闇を抱えているわけだ。表沙汰にできないような闇を抱えていたりする人も多いもんだよ。そこから反省して学ぶことって、闇から石炭を発掘して地上で活かすことと似てるんじゃないかっていう。そういうことかな?」
話が早いな、と牧さんに驚きながら、言いたいことをもう少し言葉にしていく。
「そうなんです。さらにですよ、博物館という存在自体が、石炭の歴史を闇に葬らないための抗力となってるじゃないですか。じゃないと、学べないから。学びを放棄してしまうから。たとえば、闇に葬る、っていう言い方がありますが、これって放棄することでしょう? この町は、過去に生んでしまった闇の数々を闇に葬ってしまわないで、光の世界、要は地上の世界でエネルギーにしようとする姿勢でいますよね、博物館の存在を使って」
牧さんが大きく頷いてくれた。僕はさらに言葉にしていく。
「なんていうか、博物館で扱ってる種類の闇は、光のエネルギーにまで昇華させるのは難しい種類のもののように考えられてしまうんだけれども、でもそこから何かを抽出してそれをエネルギーに変えるために頑張ろうとしている姿勢、というふうにもとれると思えるんです。または、将来の世代のエネルギーになるかもしれないから、今はせめて残す努力をしているというような。その意志表示としての博物館でもある」
もやもやっとしていたものをだいたい言葉にすることができた。まだなにか、そのもっと先に大事なことがあるような予感があったのだけれど、そこをはっきりさせるところまでは到達できなかった。それでも牧さんには響いてくれたようだった。
「あなたが言ったことはおもしろいですよ、とても。そうなんだなあ、エネルギーって闇からくるものが多いのかもしれない。その由来をたずねてみれば、たいてい闇に辿り着いたりするのかもしれない。興味深いね。それはそうと、あなたはこの町で生まれた方なんですよね?」
「そうです。僕の母方の祖父が炭鉱夫でした。まだ若いときに亡くなったので、会ったことはないんですけどね」
「ああ、そうでしたか。そりゃあねえ、あなたがこうして一つの知見をここで得たのは、運命的なものじゃないか、って思いました」
「この町に生まれたことで無条件に背負ってしまうものとの対決なんだと思います。別に戦わなくたっていいんでしょうけど、どうしてなのか僕はこれを闇に葬れないみたいで」
自分でもそれとわかるような苦笑いがこぼれ出る。笑顔の牧さんに肩を叩かれた。
「まあでも、あなたが言ったように、闇の部分を闇に葬らないっていう役割を担った博物館がこうやってあるんだから、孤独ではないと思いますよ」
こういう町に僕は生まれ育った。大人同士や子ども同士での階級意識のみならず、子どもと大人の関係にも階級意識や差別意識があり、それに抗う意識もまたあったのだろうと思う。そしてそれは子どもたちの間だけの意識よりも、もっと複雑だったのではないだろうか。ある子どもがある大人を見つめる目。ある大人がある子ども見つめる目。それは数多くの個別の組み合わせの中のひとつひとつとしてその都度生じるもので、この町の世間の中をおそらく生きづらくもしていたのかもしれない。いや、それが生きやすかった人も多くいただろう。重ねがさね、複雑な世間だったのだろうと思う。
牧さんとはそれから名物のカレー蕎麦を食べた。注文して運ばれてくるまでの間に僕たちは電話番号の交換をした。蕎麦は、濃いめの味つけのカレーだしがとろりとして熱々で、相変わらずの旨さだった。牧さんにも満足してもらえたようで、とてもおいしいねー、という力強い一言のあと、勢いよく啜っていた。
牧さんがかなりの映画好きだという話を聞いたり、接客小売業の将来について話し合ったりしながらダムへと向かい、見学が終わると道の駅までの道筋を教えて、僕は自分の家の近くの道で車を降りた。道の駅は僕の家からでも車で五分程度の場所にあったからだ。もう午後三時近かった。牧さんは何度も何度も、ありがとう、と握手を求めてきて、また来ます、と手を振りながら去っていった。どうしてもと言われたけれど、ガイド料は辞退した。牧さんの車が遠くのカーブを曲がり終えるまで僕は手を振っていて、そんな自分の様子にずいぶん照れたのだけれど、最後までやめなかった。
さて、帰ろう、と歩きはじめると、道の傍らにムスカリが何本も身を寄せ合って咲いているのが目に入った。今年はほんとうによく咲き誇っている。
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