★Massy’s Opinion
・東日の業務部時代
僕が入社した‘57年4月配属された部署が業務部業務課。やっていた仕事は、仕入れ、営業所からの受注に対して車を引き当てる。そして、陸運事務所へ登録に行く。
車両庫があり、そこから営業所へ回送する。これらが主な仕事。要するにデイーラーの仕事の心臓部分である。課員は女子一名で総勢6名。販売台数は月700台位。当時は、「メーカーと陸運事務所は気狂いだから、逆らうな」と言われていた位両方とも高圧的だった。僕より先輩が居たのだが、皆逃げて、新入社員の僕に仕事を押し付ける。ある日、白地手形帳を一冊メーカーに持って行けと言われた。白地手形を渡すなんて「生殺与奪の権利」渡すのと一緒命を預けるような物、しかも、それを一冊である。「へえ、これを僕がもって逃げてしまったらどうなるんだろう?」と考えながらメーカーに届けた事を今でも鮮明に覚えている。それくらいノンビリしていた時代だった。この時代大型日産トラックも取り扱って居たし、ユーザーの希望はどんどん細分化してくる。従って、いやでも「道路運送法の保安基準」を勉強せざるを得なくなった。車の発注は3ヶ月注文と言って3ヶ月毎にメーカーに発注をする。これが狂うと長期在庫が増えるしこの予測には神経を使って、学校で学んだ「需要予測」を我が家で数人の課員と深夜まで議論した物である。当時、メーカーは興銀が、特定な企業や官庁に配る「調査月報」を可なり利用していたので、それを一部まわして貰うようにした。その時、「月報」を貰いに行った男は、それが縁か興銀の女性をお嫁さんに貰って、今でも円満な家庭を持っている。 兎に角、310型の発売以来、車は売れに売れた。当時は吉原工場で生産されていたので、輸送が間に合わない。夕方、会社が5時に終わると、6時の在来線で新橋から吉原まで行き、10時半位に着く。陸送屋のプールから車を持ち出して、沼津を通り箱根の旧道を走って帰る。何回も深夜の箱根越えを遣った物だ。最高記録は吉原~東京品川まで、2時間45分がベスト・タイムだった。ガソリンは15Lが定量だが、箱根の下りはエンジンを切って節約し、5リッターはガソリン券を次に回す...一度、同行した仲間が小涌園の近くで左側の崖に落ちた事がある。隊列を崩して先頭に出た車が落ちたのである。その後の対処は、長くなるので省くが、本当に最高の対処をした物である。箱根街道を通り掛かるトラックを止めて、500円払ってロープを借り崖の中腹から引き上げた。幸い車は太い木の幹に引っかかり左側のドアーは大破したが、運転者も怪我が無く、自走できたので、ユックリ走らせ、「事故の報告」を先ずしようと部長のお宅へ走った。朝の5時頃である。報告をして詫びると、部長は「それでO君(運転者)はどうした?」「事故車を運ばせて居ます...」「馬鹿!そんな可哀相なことをするな人の命の方が大事だ...」と怒られた。それ以来、「心の暖かい人だなあ」と反省すると同時に部長が好きになり、この人が社長だったらいいなあと思った。「確かに事故を起こした人間は心乱れていただろうな...」兎に角、残業は月70時間位、上司より掃除の叔母さん達が「業務は遅い」と一番良く知っていた。月末は布団屋から貸布団を借りてきて会議室で寝たり、本当に良く働いた物である。誰一人残業が嫌だなんて言う者はいなかつた。まあ会社の販売台数が伸びればいろいろな問題も起きてくる。メーカーの中でも有名に成るし、僕の希望は、「オフラインし立ての車のハンドルを握りたい」と言う希望を持っていたが、当時、検査課長だった後藤さんが一度だけ乗せてくれた事がある。気持ちよかった。新車の匂いが忘れられない。