★Massy’s Opinion
・野球部時代(集めたメンバー数字はポジション)
一人一人に出身校や甲子園経験とか、これまでの野球プロセスがあった。「どうしてこんな選手がレギュラーになれないんだろう?」と言う選手も多かった。硬式野球を遣る前提で選手を集めたがグラウンド用地の取得が車の置き場になってしまった。仕方無いので軟式でやることになり東京都の連盟に加入申し込みに行くと、メンバーの説明等をしても港区のCクラスから出ないと「駄目」と言われた。集めた連中を軟式で遣ることに説得するのが大変だった。硬球から軟球に変わると中々慣れるまで良い当たりはしない。一年目有りとあらゆる大会にエントリーして、81試合全部トーナメントをこなした。町の早朝野球レベルが相手で、兎に角、順番に階段を上がって行かなければならず、皆、「俺たちは六大学で遣ってきたんだぞ」と文句を言う。煩かったな。勿論、港区のCクラスで優勝。殆ど石川君が投げたが、彼は、よく僅差のゲームでタイムリーエラーが出ると、「バックの7人は敵だ。キャッチャーの黒沢だけが見方だ」と言っていた。
1960年チーム結成以来、2年目は、丸特でAクラスに上がった。20チームで日通、日石,等硬式から降りてきた連中が居て強豪ばかりだった。 ‘62年忘年会で、僕のした挨拶。「皆、一年間有難う。まあ、色々、不満もベンチ批判もあったろうが、僕のサインを見落としたのは、EとMだけだ。でも、皆4年間(大学時代補欠)試合していないんだから仕様が無いよな。来年も怪我無く頑張ろう...」
当時一人W大出の内山君を僕の家に2食付、月4500円で下宿させていた。年令も近いし一番僕に文句を言う奴だった。お袋を合宿の伯母さん扱いにして、「お母さん、パンツ 洗っておいて...」お袋が、「いくら親しいと言ってもチョッと何とかしなさいよ」こんな具合だから試合中もいちいち「早稲田ではね...」と言い出せば、明治出は、「明治ではね...」と文句を言う。‘63年の大会は、緒戦、駒沢球場で宿敵「東京トヨペット」(立教の準硬式OBが主体)と当たった。ゲーム前の円陣を組んだ時に、このW出の内山君が「今年は、ベンチの批判は止め様よ」と言って呉れた。「嬉しかったな。ああ人を動かすのには忍耐がいるよな」去年の忘年会の時の僕の挨拶が効いたのかな...とつくづく感じた。この年は黒田(日大三高甲子園~早稲田)も加入して左腕2枚で港区優勝、東京大会で優勝して東京代表になって全国大会に出ることになった。この東京都大会では、後のプロ野球のスターになった中日小川投手、巨人の黒江選手のいた「立正佼成会」と「油研工業」に勝ったのが大きかった。油研工業戦では、1点を争うゲームで6回に1死1塁、2塁で4番の木村に回って来た。カウント2ボールノーストライクになりヒットエンドランのサイン(サインは皆、this ball)を出そうかと思った。「いや、一球待とう」サインを出すのを迷ったが木村が一番好きなインハイに絶好球が来た。木村君は見逃したけれど打ちたかったなと言う顔をして恨めしそうに僕を見る。次のボールでエンドランのサインを出した。彼はプルヒッタアーだけど巧くレフトセンター間に快打して結局、2点入って均衡を破った。忘れられない「見逃した時の木村君の顔」と「僕の迷い」である。全国大会では、2回戦で「三協精機」に接戦で敗れたが、向こうの4番にエース黒田のインローの決め球をスタンドに打ち込まれたのが、鮮明な記憶である。集めた選手は、皆、攻守走のどこかに欠陥がある。セカンドの遠間君は肩が弱い。そこで、ライトの正面より右側は遠間君の中継、後皆、ショートの植木君の中継、練習時間が短いからこの指示を徹底するために。紙に書いてコピーして、渡した。後に、「マッサンの方が野村の『ID野球』より早かったよな」と言われた。練習にペーパーを渡すなんて考えられなかった時代だった。会社の中では、負けてくると『もうやめちゃえ...』と言う人も出てくる。巨人軍みたいに何時も勝たなければ駄目だった。しかし、皆良く動いてくれたよな。東日本大会で新発田に遠征した時、門田と屯所君が夕飯終わるとバットを振っていたのが今でも眼に浮かぶ。
・早稲田:遠間4、平野3、内山7、小宮9、渡辺6、黒岩9、村松7、森5、平井6、黒田1、応援団坂本、岩上
・立教:石川1、黒澤2、藤井3、門田4、井戸崎1、
・明治:木村8、植木6、加藤1
・上智:松本4
・専大:浅野1
・早実:北島6
・大宮商:桃谷2、富永1、清水4、丸山1、加藤5、本橋6、関根7
・関東一高:荒川8、大山6、大槻1、 (大山君は都大会の決勝の延長戦で、決勝打を打ったが、大毎オリオンズのテストを受けさせてくれと言い、プロは無理と言って諦めさせるのに骨を折った)
・巣鴨商:屯所2、谷地8、