イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

加太沖釣行

2024年12月01日 | 2024釣り

場所:加太沖
条件:大潮6:40満潮
潮流:7:24上り3.4ノット最強 11:26転流
釣果:真鯛7匹 ハマチ2匹

「カムカムエブリバディ」の再放送が始まった。



そしてこのドラマを観ていると前半はおはぎを後半は大判焼きを食べたくなってくるというのはこのドラマを観ているすべての人の想いなのではないだろうか。だから今日はいつものスーパーから別のスーパーに迂回してわざわざおはぎを買い求めた。



この朝ドラは確かに素晴らしかった。ネット記事では、2000年以降の朝ドラ史上No.1の呼び声高いこのドラマを「おむすび」の放送期間にわざわざ当ててきたというのは橋本環奈を見限ったのではないかと書かれていた。確かに「おむすび」は秀作とは程遠いし、毎回登場する今後の注目株の俳優もいまだ現れない。唯一は磯村アメリだけれども、いかんせんまだ8歳。彼女がビールのコマーシャルに登場する頃には僕はすでにこの世にはいないと思うと観るたびに虚しさのほうが募ってくる。とはいっても、決して駄作ではないと思う。まあ、凡作という程度だろうし、「カムカムエブリバディ」が再放送されたのは来年が放送事業が始まって100年という節目であるからにすぎないはずである。
そして、2000年以降の朝ドラ史上、いや、すべての朝ドラ史上No.1は紛れもなく「あまちゃん」なのであるからそれを超えられることは決してないのだから制作しているひとたちはそこまで悲観することはない。ただ、おはぎが食べたくなるだけなのである。
それよりも僕はこの再放送を見ながらものすごいことを発見してしまった。それは、このドラマには、英語のほかにもうひとつのキーアイテムとして映画が出てくる。どうして映画なのか、それは、英語の“英”と映画の“映”を掛け合わせているのだということだった。(あくまでも私見の域を出ないのであるが・・)そういうことに気がついて、ひとりほくそ笑んでいたのである。

そして今日、そのおはぎの神様が僕に好釣果をもたらしてくれたのであった。せっかく買ったおはぎをバイクのカゴに置き忘れて船を出してしまい、それを取りに戻るため15分ほどの時間をロスしてしまった。
それがポイント選択に大きな影響をもたらしたのである。

まったく話は変わるが、夜明け前の寒さに耐えられなくなった。日が昇ると暑くて仕方がなくなると思いながらも防寒着を着ずにはいられない。




当初、潮流が最強速度を迎えまでは四国ポイントでサビキをやってみるつもりであったが時間をロスした焦りからここをやり過ごし少し先の船団の中から高仕掛けを始めることにした。



ここでは魚探の反応もアタリもなくどうしてここにたくさんの船が集まっているのかわからないが、もう少し待つと魚が回遊してくるかもしれないと思いつつもやはり最初の時間のロスの焦りと、今日は二枚潮ではないというところからここを見切って第二テッパンポイントへ移動したということが奏功したのである。



ここではアタリがすぐにあり立て続けに2匹釣り上げた。その後もこのポイントにあるふたつのシモリの間を通すとアタリが出続ける。魚も正直なもので、シモリを離れるとアタリが少なくなる。先々週にも出会ったこの船のオーナーもここがお気に入りらしいがこの人の操船技術は僕のかなり上をいっている。



このポイントをほとんど動かず釣りを続けている。こういうことができればもっと釣果が上がるのだろうがどうも僕には無理なようだ。
最初は僕とこの船の2隻だけだったが僕たちが竿を曲げているのを見られてしまったか、こんなに接近するほど船が集まってきた。



困ったものだ。それでもアタリは続き、時にはドラグが止まらないほどの魚がやってきたこともあった。この魚たちには水深以上の道糸を引き出されてしまい根掛かりの後、仕掛けと引き換えにハマチ1匹であったが、ひょっとしたらメジロクラスが引っ掛かっていたのかもしれない。

最初のアタリから2時間半あまり、今日は本当によくアタリがあったし、型はどれもまずまずであった。しかし、潮が緩んでくるとアタリがあっても鉤に乗らないことが多くなった。これを克服することができればもっと釣果があがるかもしれないと思うが、これ以上釣っても魚の処理に苦労するだけだからこのくらいでちょうどよいのかもしれないとも思うのである。
アタリも少なくなり、これだけ釣ったら十分なので午前10時に終了。

今日の恩人はもうひとりいる。その人は菊新丸さんだ。昨日、仕掛け用のパッケージを買いに行く途中、和歌山城のお堀の向こうに客待ちをしている菊新丸さんの後姿をみつけた(客待ちをしているからといって決して怪しい商売をしているわけではないというのを断っておく)。立ち話をしながら、明日行きます。カワハギと真鯛狙いですと言うと、カワハギは全然釣れていないと教えてくれた。潮は真鯛狙いに最適なのもあって、高仕掛けメインで計画を立て直したのであった。
シルバーのビニールといい、今日の釣行へのアドバイスといい、今年の秋のラウンドは菊さんに助けられている。昨日は同時に新たなテクニックも教えてくれた。今回はその必要もないほどアタリがあったが、このテクニックもいつかは役に立ってくれると思う。
僕ももう少し進化できそうである。

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「料理の日本史」読了

2024年11月29日 | 2024読書
五味文彦 「料理の日本史」読了

新着図書の書架に並んでいて、タイトルが面白そうだったので借りてみた。食にまつわる本ならとりあえず読んでみようというわけだ。

著者も書いているとおり、「食の歴史」がテーマの本というのは世の中にゴマンとある。まあ、何か差別化をしておかないと出版する意味がないというので、この本は、『どのような料理があり、どんなシチュエーションで食事が行われたのか、いかなる階層の人々の料理で、食材は何で、どう流通していたのか、料理がどう持ち運ばれたのか、いかに料理を求めたのか、食べた人の感想はどんなものか、料理がいかにつくられたのか等々、それぞれの社会との関わりに注目する。』というフレームで食の歴史に切り込んでいくわけだが、読んでみたところ、このフレームの通りに書かれていたのかというとそれはよくわからない。とりあえずはいろいろな古文書や残された絵画などから日本の食の歴史を追いかけている。

この本を通して分かることは、日本人はとにかくたくさんの種類の食材を食べてきたということだ。この本に出てくる主要な人というのは、上流階級の人たち(古文書に詳しく記録される人たちというのはこういう人だから仕方がない。)だから全国から多種多様な食材を集めてきて味わっていたのだから当たり前なのだろうが、下層階級の人たちは別の意味、それは食べられるものは何でも食べないと生き残れないという背に腹は代えられない事情があったはずだ。
例えば、鳥でいうと、雉、雁、鴨、くぐい(白鳥)、とう(とき・鴇)うずら、ひばり、山鳥などなど、獣では兎、鹿、猪、熊の手のひら、江豚(イルカ)、猿の木取(サルの手足)魚介類では烏賊辛螺(淡水産の巻貝のこと)、栄螺、蛤などなど。(これらは鎌倉時代の古文書からの情報である。)
食べられると知ってはいても今ではなかなかお目にかかることができないか、ひょっとしたら食べてはいけないかもしれないものも多い。
今の時代、食材といえばスーパーかデパ地下に行かないと調達することはできない。肉といえば鶏肉を合わせても3種類、魚でも5~6種類くらいしか普通は売っていないのではないのだろうか。貝といえばアサリくらいでちょっと高級なスーパーにいくとハマグリと牡蠣が置いてあるくらいじゃないのだろうか。ちなみにこれはディスカウントスーパーにしか買い物に行かない僕の感想である・・
そういうことを考えていると、今の僕たちは配合飼料だけを食べさせられて太らされている家畜とあまり変わらないのではないかと思えてくる。
古の人々に倣って山菜を採り、魚を獲ってきて食べたいと思っても、家に持って帰ってくるとダニだらけだと蔑まれ忌み嫌われている我が家は家畜以下なのかもしれない。おカネがあれば山海の珍味を食べるために外食もできるだろうが、それも無理な話でそうなってくると家畜以下のさらにもっと以下なのである。地獄か餓鬼の世界しか残っていない。

食べられないときは飢えて死ぬかもしれないほど食べられないというのが日本の食の歴史の期間のほとんどを占めていたのかもしれないが、どちらかというとそういう時代のほうが食生活としては豊かであったと言えるのではないだろうか。
衣食足りても何かが足りない・・という感じだろうか。

職場の近くのスーパーでこんな看板が出ている。



トレイにパックされていなくて氷の上に乗ったままの魚がこの下に並んでいるのだが、それを自分で捌いてみろと促している。こういう啓蒙をしても売れ残ってしまうのではないかという心配もあるがなかなかいいのではないかと思う。ちなみに、この日の夕方は並んでいる魚が無くなってしまっていたのでそれは僕の杞憂でしかなかったようだ。以前は、天然の真鯛が860円という破格値で売られているほどこのコーナーの魚介類は相当安い値段だからみんな買っていくのも当然なのかもしれない。それに加えて、ニュータウンとはいえ、僕の親世代のひとたちが最初に入居したという古い街だから二世帯で暮らす人たちなら親に教えてもらいながらでも下ごしらえもできるのかもしれない。
自分で捌けるようになればスーパーの魚以外にも興味が出てくるであろうから家畜生活を脱出できる人たちが現れるかもしれない。僕はもうあきらめきってしまっているけれども、これからの人には本当の豊かさを取り戻すために頑張ってもらいたいものである。


人は生きている限りずっと食べて続ける。高貴な人も一般庶民もそれは同じだ。日本中を網羅して縄文時代から現代まで、それを230ページにまとめるというのはやっぱりちょっと無理があったのではないだろうか・・。
著者は家政学や料理の研究者ではなく日本史の研究者だそうである。そう思うとこの本の内容にも納得してしまうのである。
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「新版 蔦屋重三郎  江戸芸術の演出者」読了

2024年11月27日 | 2024読書
松木寛 「新版 蔦屋重三郎  江戸芸術の演出者」読了

蔦屋重三郎という人は、来年の大河ドラマの主人公だそうだ。大河ドラマや朝の連ドラの主人公に選ばれると、にわかにその人に関連した本が出版される。この本も、元本は1988年に発刊されたものを2回目の文庫化として発刊したものだそうだ。
大河ドラマで蔦屋重三郎役を演じるのは横浜流星だ。この俳優、初めて見たのはBSの「二度目のOO ちょっとディープな海外旅行」という番組であった。実際に海外旅行をする方の役柄で、結構イケメンの役者さんだけど、芝居の仕事がないんだな~などと思っていたら、あれよあれよという間に人気俳優にのし上がってきた。「春に散る」という映画はかなりよかった。そして、この人もやっぱり仮面ライダーと戦隊ヒーローの両方をやっていたそうだ。

蔦屋重三郎という名前を知っていたかどうかというとかなり怪しい。歴史の授業はまったく面白くなかったのでそこで知ることはなはずだし、何か、テレビか雑誌かですれ違っていたのかもしれないが、やはりTSUTAYAの存在だったのかもしれない。この会社と蔦屋重三郎とはまったく関係がないそうだが、もし記憶の片隅に残っていたとしたのなら、その名前から、江戸時代に蔦屋重三郎という今でいうメディア王がいたということを知ったのだろうと思う。
浮世絵で有名な喜多川歌麿や東洲斎写楽をプロデュースしたのがこの人なのである。

この本は、蔦屋重三郎は何をした人か、そして江戸時代の文化の中でどのような役割を果たしたかということを解説している。
活躍した時代は天明年間から寛政年間だそうだ。西暦でいうと1781年~1801年がこの元号の時代だ。
どんな時代であったかというのは、田沼意次の重商政策から松平定信の寛政の改革へ移行していった時代だというとよくわかる。全然関係ないが天明4年2月23日(1784年4月12日)には、金印(漢委奴国王印)が発見されている。
田沼意次の時代は、重商政策として株仲間や専売制を敷いたことで幕府と都市部の町人・商人には恩恵があったが、農村部では困窮が続き、加えて天明の大飢饉などの天災による社会不安が高まった。その反動で松平定信の寛政の改革では倹約、農村政策としての帰農政策、災害対策として米の備蓄と米価調整をやったという、まったく現在と似ている社会情勢と問題点を抱えた時代であった。
今はSNSを中心にした主力メディアの変化が総選挙や兵庫県知事選挙でも注目されていたが、蔦屋重三郎は、現代と同じようないびつな時代にメディア革命を起こした人として大河ドラマで取り上げられることになったのだろう。

簡単に書くと、蔦屋重三郎という人は江戸の吉原で育ち、大衆の文化をけん引した人ということになる。
出版物の版元として活躍した人であるが、当時の出版物というのは大きく分けて「物(もの)の本」と「地本」というものに分かれていた。「物(もの)の本」とは堅い内容で儒学書、仏教関係、歴史、医学書などであり、地本とは草双紙、絵双紙など、今でいう大衆週刊誌のようなものである。蔦屋重三郎は地本の書肆としてのし上がってゆく。
蔦屋重三郎が活躍した時代の前、元禄(1688年~1704年)のころまでは文化的には江戸という町は上方文化の植民地のようなもので版元である書物問屋も京都系資本が優勢を占めていたが、宝暦(1751年~1764年)の頃には江戸の出版物が上方を上回るようになってきた。蔦屋重三郎が活躍したのは、先に書いた通り、天明(1781年~1789年)~寛政(1789年~1801年)時代になるのであるが、その頃には「黄表紙」と呼ばれる挿絵入りの読み物である草双紙が人気を博していた。

蔦屋重三郎は寛延3年(1750年)江戸の吉原に生まれた。そして、安永2年(1773年)その吉原で鱗形屋という当時の有力版元が発行する吉原細見という吉原のガイドブックの卸と小売りを始めた。そして翌年の7月には版元として「一目千本」という遊女の評判記を発行、その翌年の安永4年には最初の吉原細見「籬(まがき)の花」を出版するに至った。このガイドブックを発刊することができれば一応、一人前の版元と認められたそうである。
その後安永10年には黄表紙本の有力版元としての一角を占めるようになる。しかし、黄表紙本というのはいまでいう週刊文春のようなものであり、封建制政治の世の中、それを当局が黙ってみているはずがない。幕府をおちょくりすぎて寛政3年3月、財産を半分没収されてしまう。
しかし、蔦屋重三郎はくじけなかった。今度は喜多川歌麿を擁して美人画の浮世絵へ進出する。これも相当当たったようで、喜多川歌麿は他の版元から引く手あまたとなりふたりの中は悪くなってゆく。
新たな流行を作るべく蔦屋重三郎は役者絵の出版へ針路をとる。この時、葛飾北斎(当時の名前は勝川春朗)にも目をつけたけれどもおめがねにはかなわず、東洲斎写楽を選ぶ。そして、寛政6年5月写楽の役者絵を出版することになる。意図的に美化しようとした概念的な画風を超えた表現力はその役者の生きざまさえも写し取り脚光をあびることになる。著者は写楽の研究者でもあるらしく、この辺のことは詳しく書いている。例えば、勝川春英という画家(この人も当代一流と言われた浮世絵画家だったそうだ)と写楽が描いた三世瀬川菊之丞という歌舞伎役者の絵を比べてみると、43歳の役者がそれまで経験した人生をそのまま写し取っているかのようである。

 

東洲斎写楽はひとりではなかったという説は有名であるが、著者の説では、歌麿同様人気が出た写楽はひとりでは仕事が回らなくなり、他人に描かせたものに自分の落款を押したり、観たこともない上方の役者の絵を想像で描いたりしてしまったことで写楽本来の画風ではないものが生まれることになったというのである。
様々な人気者を生み出した蔦屋重三郎であったが、財産を半分没収されたということは相当な痛手だったらしく、歌麿、写楽の投入でも版元としての財政状況は改善せず、過去の出版物の再販や版権の譲渡などでしのいでいた。
その間にも滝沢馬琴、十返舎一九などの新しい才能の発掘にも取り組んだけれどもその活躍を見ることなく寛政9年5月、48歳で没することになる。


作家や芸術家というのはおそらくひとりの力で大成するというひとはほとんどいない。そこには必ず編集者やパトロンという後ろ盾、もしくは仕掛け人がいる。編集者は、今売れるテーマは何か、受ける書き方は何かをつかんでそれを書かせる。パトロンはその芸術家が日の目を見るまで資金提供をしたり養ってやったりする。
蔦屋重三郎は編集者兼パトロンとして時代を読み新人を発掘してきた。それは、新参の版元であるがゆえに当代人気の作家や絵師を起用できないという理由もあったのだが、やはり時代を読む目が確かであったということが大きかったのだろう。
そして、その目は江戸の文化サロンの役目も果たしていた吉原で生まれ育ったことと、そこで培った人脈が大きかった。大田南畝、朋誠喜三二、山東京伝など、文化人、芸術家としてすでに有名であった戯作者たちから信用を勝ち得た人脈は歌麿、写楽へとつながってゆく。

蔦屋重三郎の版元として活躍した期間はわずか13年であった。今の時代になぞらえるとバブル崩壊前後の期間に似ていたのだろうか。いけいけどんどんの時代から一転して先の見えない不安が蔓延した時代をどう乗りこなしていったか。そういったことが大河ドラマでは描かれるのだろう。横浜流星がどんな演技を見せるのかということを観てみたい気持ちもあるが1年間見続ける根気はないだろう。しかし、この本を読んでいたら、年末に放送されるであろう総集編だけでも十分楽しめそうである。




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凍れる音楽を聴きに行く

2024年11月23日 | Weblog
ずっと行きたいと思っていた薬師寺に行ってきた。和辻哲郎が「凍れる音楽」と評したこの寺院は死ぬ前に必ず行っておきたい場所であった。来年度には拝観料が値上げされるらしくチャンスは今年しかない。
先週の連休中に行ければと思っていたが元々が半径15キロから出られない性格なのとすこぶる天気がよかったので釣りに行ってしまった。
そして次の週末の今日、加太は快調らしいというけれども風が吹いている。これはきっと神様(この場合は仏様か・・)が薬師寺に行けとおっしゃっているのだろうと思い地元の駅の始発電車に乗って奈良に向かった。しかし、神様(この場合は仏様)が誘ってくれたわりにはいきなりのトラブル続きであった。
最初のトラブルは電車が止まったということだ。日根野駅の手前にやってきた頃、その先の踏み切りで遮断機が折られておまけに前を走っている車両の緊急停車した場所が送電線の境目だったので動けないという。



これで天王寺駅に到着したのが20分遅れになってしまい乗り換え予定の電車に乗りそこなってしまった。その次のトラブルはJR郡山駅から薬師寺に向かって歩く方向を間違ってしまった。方向音痴は昔からのことだが、地図を印刷して持っていったもののいざ駅に降り立つとどっちの方に行っていいのかがまったくわからない。北に向かわねばならないはずなのだが、向かった先に太陽が見えたのでこれは絶対に間違っていると駅に戻って駅員さんにルートを聞くとどうも車で行くルートを教えてくれたようで相当遠回りになってしまった。



これでは自分で印刷した地図はまったく意味がなかったじゃないかと悔しい思いをしたのだが、途中でもう一度その地図を見直してルートを修正。予定よりも35分遅れの午前9時35分に西塔の相輪が見えてきた。もう、この時にはホッとして力が抜けてしまった・・。



その後は普通に拝観。東塔だけが1300年前の創建当時から残っている建造物だが、その圧倒的な存在感と美しさは今まで訪ねた寺院の建造物と桁が違う印象を受けた。



近づけば近づくほど自分に迫ってくる迫力がある。西塔は1981年に再建されたもので同じデザインだけれどもそういった迫力が感じられない。僕には凍れる音楽というよりも壮大なシンフォニーに感じられた。



う~ん、これが1300年の重みなのだろうかと改めて感じ入る。築43年というと民家でいうなら相当古いという評価になるけれども、1300年に比べるとまだまだ若造なのである。
我が家の築年数ももうすぐ50年になり、今の会社が無料でやってくれた耐震診断ではそうとう危険という評価であったが、まだまだ若いといっていいのかもしれない。



つぶれると言われてもこう考えたら大丈夫だ・・(かもしれない・・)

今回、事前の下調べで、薬師寺は法相宗の総本山のひとつだということを知った。(もうひとつは同じく奈良の興福寺である)南都六宗のひとつである法相宗の開祖(鼻祖とも言うそうだ)はかの玄奘三蔵である。人間の存在は実体ではなく唯識とか阿頼耶識という観念であるというような概念の宗教だ。同じものを見るにしてもその捉え方は人ごとに異なるという考えはまさにその通りだと思う。僕はそういうことを60年かかってやっとほんの少しだけ理解したつもりだが、すでに1400年前にその悟りを開いている人がいて、それからわずか100年と少しで日本に導入されていたというのは驚きである。
唐招提寺を拝観してもう一度薬師寺を拝観しようと戻ってみると無料で講和を聞けるという時間になっていた。早く帰りたいと思ったがせっかくなので拝聴することにした。
講師の坊さんも玄奘三蔵についてのお話をされていた。仏教では人間の煩悩を「三毒」というもので表していて、それは「貪欲(とんよく)」「瞋恚(しんに)」「愚痴(ぐち)」であり、西遊記に登場する玄奘三蔵の家来である、猪八戒、孫悟空、沙悟浄はそれぞれの毒の象徴であり、玄奘三蔵も人間であるかぎりそういった煩悩を抱えているが、それらを従え、制御することで大願を成就したのだというのが西遊記に込められている真実であるというような説明をされていた。
結局、最後は2000円で写経をしてくださいという勧進のためにこの講和をやっているのだということで終わったのだが、この坊さんは落語家かと思えるほど上手で面白い講和であった。



薬師寺というのは檀家を持たない寺院のひとつだそうで、東塔以外の建造物もすべて一般人の写経で得られた寄進で再建されたということなので僕も少しは貢献したいと思ったのだが、今日は交通費を含めて4000円以内で収めねば来週を乗り切れないので泣く泣く講和を拝聴するだけにしておいた。
その後も偶然だったが金堂内で団体客向けか、別の坊さんが金堂に安置されている仏像の解説をしていたので便乗して聞くことができた。薬師寺の本尊はその名の通り薬師如来なのであるが、創建当初から現存しているこの仏像には経典に書かれているすべての特徴が備えられているそうだ。しかし、ただ一つだけわざと外している部分があるのだと語っていた。その部分とはおでこにある白毫だそうで、この白毫を見ることができるのは如来様同士だけらしい。



普通の人間にはそこから発せられる輝きは見えるけれどもそれ自体を見ることができないので人間からの見た目としてこの薬師如来にも白毫がないのだということであった。トリビアだね~。ついでに脇侍の菩薩様についても説明があって、向かって左が月光(がっこう)菩薩、右が日光菩薩というのは昼夜問わず衆生の健康を見守っているという意味があるということだ。(坊さん曰く、夜勤と日勤の看護師さんという位置づけだそうだ。)如来様ごとに脇侍の菩薩様は決まっているけれども、記憶力のない僕はそれを覚えることができない。けれども、今日の説明で薬師如来の脇侍だけはきっちり覚えることができたのである。



最初のトラブルがなければ二つの講和を聞くことはなかったと思うとやはり今日は神様(この場合は仏様)に導かれた遠出であったように思うのである。

唐招提寺は薬師寺から歩いて5分ほどのところにある。もちろんこれは拝観せねばと訪ねてみた。ここも来年度は拝観料が値上がりするらしく今日が最後のチャンスだったのである。
薬師寺に対してここはひたすらシブいという印象だ。質実剛健という感じの佇まいである。それに教科書に載っていたとおりの金堂の姿には、オ~!!という思いが湧いてくる。



けっして華美ではないがその落ち着きがなんともよい。ただ、開祖が中国からお来しになった鑑真和上だからなのか、中国人が多い。所どころでポーズをとって写真を撮っている姿はあまりよろしくない。もっと静かにお参りをしたかった・・。

間違えたルートからは若草山が見えたけれども、この両寺院のある場所は平城京の一角だったところだそうだ。



土地勘はまったくないものの、平城京の広さを実感できたのもトラブルのおかげであった。

やはり今日は神様(この場合は仏様)に導かれた遠出であったのだ。

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 「覚悟の磨き方 超訳 吉田松陰」読了

2024年11月18日 | 2024読書
池田貴将/編訳 「覚悟の磨き方 超訳 吉田松陰」読了

何かの本を探しているときに見つけた本でタイトルが面白そうだったので借りてみた。
「覚悟の磨き方」というタイトルだけを見ていたので、外国人が書いた本かと思ったら吉田松陰の言葉を今風に書き換えたものであった。
2013年に初版が出版されているが、借りた本がそうとうくたびれているのを見ると、かなり人気のあった本ように見える。

そもそも吉田松陰という人がどんな人であったかということも実はよく知らない。日本史という教科が大嫌いであったこと、人の名前を覚えるのが大の苦手であったこと、それに加えて、高校の日本史の授業というのは幕末から近代の頃になると学年末になっていて授業の進め方も適当になる。だからまったくこの人の偉業というものを知らない。この本を読んで初めて吉田松陰は安政の大獄の時に処刑されたということを知ったほどだ。

まずは吉田松陰という人はどんなひとであったかということを勉強してみた。
「吉田松陰は、1830年、長州藩の下級武士の家に生まれました。幼くして叔父の養子となるが、叔父が病死し。僅か5歳で吉田家の当主となる。
9歳のときには、長州藩の藩校明倫館(めいりんかん)で教師の見習いとなるなど、その秀才ぶりは藩主毛利敬親(もうりたかちか)をも驚かせた。
15歳のころ、アヘン戦争で清国がイギリスに負けたことなどを知り、日本も危ないのでは、と危機感を募らせ、日本の状況を確かめるべく、20歳の頃には長崎や平戸を旅する。
長崎では停泊中のオランダ船に乗り込み、西洋文明の質の高さを知ることになる。
その後も、水戸や会津、佐渡を経てロシア船が出没した津軽半島を巡り、『東北遊日記』などを書いた。
1854年、24歳のとき、ペリー艦隊が2度目に日本に来たのを機会に、進んだ海外の文化に触れようと、下田に停泊中の軍艦に小舟で乗りつけ、海外に連れて行ってほしいと懇願。しかし、この密航の申し出はペリーに受け入れられず、陸に戻った松陰らは牢に入ることになった。
江戸の牢屋から長州藩の「野山獄(のやまごく)」という牢屋に移された松陰は、1年間に約600冊もの本を読み、また黒船への密航を振り返った『幽囚録』をこの時に書いた。
翌年免獄となり実家杉家に幽閉の身となった。その間松下村塾を開き、高杉晋作、伊藤博文ら約80人の門人を集め、幕末から明治にかけて活躍した人材を育成した。
松陰は諸国を遍歴して見たことや、歴史書などを読んで得た知識などから、50冊以上の著作を書き残した。1859年、29歳のときに安政の大獄により、江戸で処刑された。処刑前日に書いたのが『留魂録』である。
松下村塾はたった2年10ヶ月しか開かれていなかった。
松陰に教えを受けた人びとは、その後の明治維新や日本の近代化で活躍することになるのである。」

本の内容に戻るが、「超訳」と書かれているように、本当に松陰が語ったり書いたりしたものというにはかかり怪しいように見える。各章の最初に書かれているのだけが本物で、それ以外は編者が残された書物を元に、松陰なら多分こんなことを言うんじゃないかという想像のみで書いたものではないだろうか。ひとつひとつは100文字前後でまとめられていて、日めくり名言集のような構成だ。例えば、こんな感じである。
『人である意味
 人は「なんのために生きているか」で決まるのです。
 心に決めた目標のない人間は、もはや「人間」とは呼びません。
もし思い出せないなら、今すぐ思い出す時間を作るべきです。』

もう、どれも前向きな言葉ばかりである。吉田松陰の覚悟とは、国家のためにもしくは他人のためにどう生きるか、どう働くのかということと、その自分の意志を後世に伝えねばならないのだという二つのことに集約されているのだと思う。
自分のことだけしか考えず、とにかく人生をどうやって逃げ切るかということ、そして人知れずこの世からフェードアウトしようとしか思っていない僕にとってはあまりにも眩しすぎる。眩しすぎて何も見えないのである。

吉田松陰はもともと処刑されるはずではなかったという。松陰は老中の間部詮勝の暗殺を企図した自分を投獄して外界との接触を断った長州藩に失望しており、自らの死と引き換えに幕府要路に訴えて姦人を排除しようと、幕府の詮議の際に自ら進んで自白したことが原因となったという説が有力であるそうだ。
それが門下生たちの発奮と決起を促し明治維新につながっていったというのである。
自分の命と引き換えに自分の意志を貫くという行為はまさしく「覚悟」の極みといえる。その覚悟のすさまじさのとおりに明治維新という革命を起こしそれが現代までずっと続き、総理大臣経験者のなかで山口県出身者が多いのはこの人の存在があったというほどの影響力を及ぼしているというのはさらにすごいことである。

やっぱりこの本は眩しすぎるのである・・。
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加太沖釣行

2024年11月16日 | 2024釣り

場所:加太沖
条件:大潮6:27満潮
潮流:7:05上り3.2ノット最強 11:00転流
釣果:真鯛2匹 マアジ3匹 イサキ1匹

菊新丸さんの話では銀色シートが有効なのは1年のうちで3週間ほどらしいのでそろそろ有効期限切れになるのだが今日も銀色シートの効果が炸裂した。

9連休最後の釣行は加太だ。天気はかなり怪しく、午前11時には降りだしてくるということだ。まあ、それだけの時間があれば一勝負できるので十分だ。
しかし、雲は厚く垂れ込めているので夜が明けてこない。



松田聖子の名曲の歌詞に、『夜明けの来ない 夜は無いさ あなたがぽつり言う・・』というのがあるが、実は夜明けの来ない夜というのはあるのではないかと思えてくるほどであった。午前5時半に出港すれば紀ノ川河口に差し掛かる頃には明るくなってくるだろうと思っていたら田倉崎に差し掛かる頃でもこの暗さだ。



こんなに暗くては釣りにならないんじゃないかと思えるほどなのでとりあえず四国ポイントでサビキをしながら明るくなるのを待とうと考えていたが、そこは確かに夜明けの来ない夜は無い。スパンカーのセットをしているあいだにかなり明るくなってきたので当初の予定通りテッパンポイントに行くことにした。

今日もビニールは鈴鹿ピンクと銀色シートで始める。銀色シートは貴重なので1日に使う枚数は5枚に限定しようと思っている。菊新丸のご厚意で追加をいただいたとはいえ、もう世の中には存在しないとなるともったいなくて使えなくなる。基本が貧乏性なので高価で貴重なものを使うことができない。バス釣りをしていた頃にも、3000円くらいするルアーを買ったのはいいが結局使わずに中古の釣具屋にタダ同然で売っぱらってしまったということもあった。そういう意味では道具は使わねばもったいないのではあるが貧乏性というのはそれができないのである。

最初のアタリははやり銀色シートに来た。40センチほどの真鯛だ。



次も銀色シートにマアジが掛かった。



まだタチウオパターンは健在のようである。
普通なら1匹釣ったら取り替えるビニールであるが、これまたもったいないので少し指でしごいて使い続ける。それでもマアジが掛かってくる。とにかく1日5枚の限定品なのである。

しかし、サゴシが喰ってきたか、浅いところにさまよい込んだタチウオか、幹糸から仕掛けを切られてしまった。貴重な銀色シートを1枚を残して失ってしまった。う~ん、残念。疑似餌というのはそれが釣れると信じることができるかどうかというのが釣果に直結すると思っているのでどうしたことかと考え込んでいると、道具箱の中に白いビニールが入っていることを思い出した。もう、10年くらい前に、和歌山市のゴミ袋が入っているパッケージを切り出して作ったものだ。白色はオレンジやピンクよりも銀色に近いのではないかと思い疑似餌の疑似餌として使ってみることにした。
そしてこれも当たった。最初はイサキ、次には今日の最大、50センチ少し超えの真鯛だ。



これもタチウオの稚魚に見えるのだろうか。

今日は鉤には乗らないけれどもけっこうアタリが続いたのだが、転流時刻のはるか前、午前9時を過ぎた頃にはなぜかほとんど潮が動かなくなりアタリも途絶えてしまった。そこそこ魚も釣れたので午前9時半に終了。
せっかくの連休なのにちょっと帰るのが早すぎかなと思ったが、港に入ってくる頃には小雨を通り越して本降りの一歩手前という感じであった。ちょうどよい帰投時刻という感じであったのだ。




結局、ピンクのビニールに喰ってきたのはマアジが1匹だけであった。喰いちぎられたり先っちょだけ齧られていたのも銀色シートだった。これは間違いなく選択的に銀色を喰っていると考えても間違いではないだろう。
ビニールの長さが関係しているのかとも考えたが、白色は10センチのものを使っていたのでいつものやつに比べて1センチしか違わない。大きさが関係しているというものでもないと考えていいだろう。

魚釣りも保守的であり続けるというのはよくないのかもしれないと考えさせられる釣行であったのだ。
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ベーコンを作る

2024年11月15日 | Weblog
久々にベーコンを作ってみた。
ずっと材料を買っていたスーパーではベーコン作りによさそうな豚のバラ肉が手に入らなくなってしまってこの2年間はまったく作るのをやめていたのだが、職場の近くにできたスーパーマーケットで絶好の材料を見つけた。



このスーパーマーケットは前身が精肉店だったそうで、確かに肉は安くて品質も良さそうだ。この肉もメキシコ産とはいえ、100グラム139円という安さだ。俄然制作意欲がわいてきてスーツ姿で肉を買いに向かった。
しかし、このスーパーマーケット、生のスジコといい、僕好みの食材がいっぱいある。なんとか和歌山市にも進出してはくれないものだろうか・・。

ネット見つけた新しい手順と自分なりの新しい工夫を試してみたところかなり楽にうまいこと出来上がったので備忘録として工程を書いておく。

今回はソミュール液を使わなかった。レシピでは2%の食塩をじかにすりこむとあったが僕は3%の食塩と少しの砂糖を混ぜてみた。ついでにコショウをふりかけローズマリーをはり付けてラップで包んで1週間冷蔵庫で寝かせる。
ラップを外して2日間冷蔵庫で乾燥。

豆炭を9個使って、チップが炭化してしまっても豆炭が燃え尽きるまで熱を加える。これをオーブンでの加熱の代わりにしてみた。温度は終始80℃。この温度は必須であると考えている。
出来上りの感じはソミュール液を使ったものより硬く締まった感じで出来上がり、塩加減も絶妙であった。使う塩の量はかなり少なく済むし水で塩抜きする工程も省けるので全体の所要時間も少なく済む。



加えて、新たな食材としてフライドポテトを燻してみた。これもかなりいい味がする。ゆで卵を作るのを忘れていたので他に何か使えるものはないかとスーパーマーケットの中をウロウロして考えてみたのだが怪我の功名、いいものを見つけた。



同じ工程で再びうまくできるかどうかの検証をすぐにやってみたいと考えている。
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住金一文字釣行

2024年11月14日 | 2024釣り
場所:住金一文字
条件:大潮10:43干潮
釣果:グレ4匹 アイゴ1匹 カワハギ3匹

今日も悔いの残る釣行になってしまった。カワハギはもっと釣れるはずであった。まあ、一度やってみないとわからないということはあるのだが、万全の態勢作りとしてエサと仕掛けにはきちんとおカネをかけなければならないという教訓は今も昔も同じである・・。

Nさんたちが海保から警告を受けたというのを以前に書いたが、それでもNさんは住金一文字に行きたくて仕方がないらしい。最初はほとぼりが冷めてからでなければ行くことはできないとこぼしていたが、よく考えたら、警告されて免許証の提示を求められたのはanotherNさんの方で、ワシは面が割れていないから行っても大丈夫だというなんとも大人げない理由で今週の木曜日に行くでという招集がかかった。
僕もこういう大人げない論理は大好きだ。しかし、前日の水曜日、お昼を過ぎても連絡がなく、やっぱりNさんも大人だったのだと思って加太に行く準備をしたあとでスマホの充電をするときに画面を見てみたら午後5時過ぎにLINEにメッセージが入っていた。
当分は住金一文字へ行けないだろうと竿とリールにオイルを塗って物置に片付けてしまっていたのをもう一度引っ張り出して午前7時に港へ集合。

まずはフカセ釣りだがいつもの感じと違っている。エサを撒いてもフグが集まってこない。潮の動きもない。



魚の姿が見えないのでウキ下を2ヒロ半まで深くしてみてやっと小さなグレを釣ってからはまったく魚影が見えない。遠く加太の方を見てみるとたくさんの船が浮かんでいる。



分身の術を使って加太にも行っておけばよかったと唇をかみしめる。
やっと魚の影が見え始めたのは1時間以上過ぎてからだった。立て続けにグレとアイゴが掛かってきたがそれも長くは続かない。まったく魚影のない時間とグレらしい影を含めてたくさんの魚が集まってくる時間が交互にやってくる感じだ。水温にムラがあるのか魚の気まぐれなのかさっぱりわからない。今まではこんなことがなく、anotherNさんを裏切ってやってきた呪いなのだろうかなどと色々考えてしまう。
タモを使わねばならないほどの大きさのものも出ることはなかった。
最後には再びか三度めかでまったく魚が見えなくなってしまい、今日はまだカワハギ釣りが残っているとあっさりフカセ釣りを終了してしまった。

カワハギ釣りは出だしだけは順調であった。立て続けに2匹釣り上げた。これは楽勝じゃないかと思ったがそんなに甘くはなかった。エサの量と鉤の選択が悪かった。加太とは違いエサ取りの量が半端ではない。クサフグとササノハベラの猛攻であっという間にアサリが無くなってしまった。それに加えて鉤が悪かった。乗りも悪いしせっかく掛かったカワハギも3度もバラしてしまった。そしてバラしてしまうとその場所では釣れなくなってしまう。
加太で使っていたテンビン仕掛けの鉤をもったいないからと思って使ってみたのだがそれが仇となったかっこうだ。カワハギを釣る場所はスリットの内側なのだが、ここの水深は5メートルほどしかない。



その分、掛かったカワハギは底には潜らずに前後左右に泳ぎ回る。きっとそういう動きもバラしにつながるのだろう。アサリが無くなってしまってからはフカセ釣りに使っていたオキアミを使うが一瞬で無くなってしまうので効率が悪い。なんとか1匹釣り上げたがその後はまったくダメだ。最後の最後にものすごい大物が掛かったがこれは3.5号の枝素を喰いちぎって言ってしまった。
一体あれは何だったのだろうかという疑問ともっと釣れるはずであったという悔いを残して防波堤を下りることになってしまった。

今日は結局、警告を受けるどころか海保の見回りさえもなかった。Nさんたちが警告を受けた翌週には自衛隊と海保が津波の共同訓練をやっていたが、事前の過剰な警戒に引っ掛かっただけだったのではないだろうか。
ここで釣りをしたからといって誰に迷惑をかけているわけでもなく、ましてや僕たちの税金で建設されたものに出入りするのを咎められる筋合いはない。安全保障上問題があるというのなら致し方がないかもしれないが、ここは日本国領土の真っただ中だ。そんなこともあるまい。
人に迷惑をかけなければ何をやってもいのではないかというのが僕の考えなのでこれからも大人げなくここに来ることができればうれしいと思っているのである。


悪いことばかりではなかった。防波堤での釣りが多くなってから竿掛けが欲しいと思っていた。いろいろ考えを巡らせてこんなデザインを考えた。



まだまだ改良の余地はありそうだがなんとか使えそうである。
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紀ノ川河口~水軒沖釣行

2024年11月12日 | 2024釣り
場所:紀ノ川河口~水軒沖釣行
条件:中潮9:08干潮
釣果:ボウズ

今日はいい天気なのだが母親を病院へ連れていかねばならない。




幸いにして予約時間は午後12時なので釣りに行く時間はある。とりあえず近場でやってみようと考えた。
近場で一番有力なのはやっぱりタチウオだ。土曜日に大物が釣れたので期待をしている。おまけに昨日はタチウオの日だったそうだ。これは釣れるだろう・・。11月11日でタチウオが立って泳ぐ姿にちなんでいるいというがなんともベタな選定理由だ。

しかし、1日ずれていたことが悪かったかまったくアタリがない。エソさえも来なかった。

この後はコウイカ調査だ。



例年ならそろそろ釣れそうな時期なのだと思ったがこれもまったくアタリはない。(去年は確かに釣果があった。
毎度のことだが、釣りに関しては形而上は目に見えるが形而下がまったく予想ができないという哲学とはまったく逆の現象が起こる。潮の流れは釣れそうな雰囲気だが形而下である水面下にはコウイカはいないようだ。アシストフックに引っ掛かってきた小さなエソだけが生体反応だった。
しかし、エソの後には間違いなく魚である大きなアタリがあった。きっとマゴチであったのだろう。運がよかったらヒラメだったのかもしれない。この魚を的確に釣り上げる方法はないものだろうか。小アジを確保することができればそれにこしたことはないが疑似餌か生エサで釣る方法はないものかと歯ぎしりをしてしまう。

海水に手を突っ込んでみると、気温との差もあるのだろうが、生ぬるい。これではコウイカはまだまだ接岸していないだろうと午前8時前に終了・・。


タチウオの日の11月11日には小船の検査を受けていた。
検査員には当たりはずれがあるというのは船を持っている人たちの中では知られた話だが、今回はハズレを引いてしまった。
当たった検査員は背の低いひげ面の男で、界隈ではそれなりに知られた検査員らしい。航海灯の電球の規格が合っていないとか、浮き輪と水汲みバケツに紐を繋いでいないとか、エンジンのアイドリングの回転数が高すぎるとか、とにかく細かい。厳密にいうとそれはマズいことなのかもしれないが、エンジンは動けばよいし、航海灯の電球がどうのと言っても暗い中ではきちんと見えるだろう。事故が起こったときに不利になると言われたが、2年前にすでの事故に遭っているのでもう2度とは巻き込まれないと思っている。かといって、デッキの排水口のネジは差し込んだだけで固定していないというのは見抜いてはくれなかった。
結局、なんとなく自己満足だけで仕事を進めていて公平でも厳密でもない検査員だったと僕は思う。そして、僕も含めて、世間の人の大半はこんな仕事のやり方をしているのだと少しは自分を正当化もできるものだなとひげ面の男に感謝をしたのである・・。


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「図だけでわかる!天気と気象 ( 超効率30分間の教養講座 3 )」読了

2024年11月11日 | 2024読書
荒木健太郎/監修 「図だけでわかる!天気と気象 ( 超効率30分間の教養講座 3 )」読了

「30分」と書いてはいるけれどもとても30分では読み切れなかった。あしかけ3日もかかってしまった。ルビがたくさん振られているので小学生や中学生が読むような本なのかもしれないが内容はかなり濃かった。
様々な天気のメカニズムを図解で説明してくれているのだが、天気のメカニズムというのは複雑である。極地的な天気も大陸レベルの気候もすべては風の流れがキモであるというのだけは理解ができた。やはりここでも記憶力のなさが災いしてその場で理解ができてもいざ空を眺めると何にもわからない。
しかし、ここ数年の天気予報というのは100%以上じゃないかというほど的中率がすごい。そして情報量も多くなって、天気のメカニズムなんか知らなくても予報サイトをいくつか眺めるだけで今日は風が吹きそうとか波が高そうだとかいうのはすぐにわかってしまう。日常生活はもちろん、釣りに行くにしても十分信頼できるので何の支障もない。
インターネットがなかった30年以上前は和歌山と田辺の気象台に電話をして風はどうですか?波はどうですか?と釣りに行く前の日に問い合わせをするくらいしかなかった。それでも通り一遍の回答しかしてもらえず、新聞の天気図を見ても何が何だかわからなくてすさみに行ってみたら渡船屋が休業していたなんていうこともあった。その頃、見老津の渡船屋の船頭から、日本海に等圧線が3本出てたら磯には渡れないということを聞き、それを基準にするようになった。これが唯一の僕の自己予報の判断となった。
それが今では地名を打ち込むだけでピンポイントの1時間ごとの風と波の予報を見ることができて、これがよく当たる。午前9時から風が強くなるとなっていたら本当に風が吹いてくる。雨雲レーダーを見ていると出勤時刻に駅まで雨に遭うか遭わないかということが確実にわかってしまう。

こんなに精度が上がったというのはスーパーコンピューターを駆使した気象モデルの演算の賜物らしい。
どんなことをやっているのかということもこの本には書かれていた。それは、コンピューター上に仮想の地球と大気を設定し、その大気を格子に区切り、その格子に現実の温度や湿度といった大気の状態をあらわす値を割り当ててから予報のプログラムを用いて少し先までの大気の状態を繰り返し求めていくということをしているそうだ。
一番基本になるのは「全球モデル」というもので、格子の水平間隔は約13km、鉛直層数は128層でその格子数は約1億7000万個もあるそうだ。これをもとに地域を絞り格子の大きさも小さくしながら「メソモデル」、「局地モデル」と詳細な予報をやっていくらしい。

う~ん、すごいことをやっている。ここまでやってくれたら自分で天気図を見る必要もなければそれをハッタリと勘で分析する必要もない。車の運転と同じで自動運転任せだといざという時に適切な動きと予想ができないということもあるのだろうが、僕が生きているあいだにはそんないざということが起こるはずもないので予報サイトだけに頼る生活を続けるのが一番楽ちんで確かなのである。

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