イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「プリンセス・トヨトミ」読了

2012年06月06日 | Weblog
万城目学 「プリンセス・トヨトミ」読了

以前に映画版をテレビで放送していたのを観たので、家に置いてあったこの本を読んでみた。個人的な感想だが、映画のほうが出来がよかった。こんな現象も珍しい。大概、映画のほうが面白くないという場合のほうが多いと思うのだが・・・。

映画では、父と子のコミュニケーションの難しさを長い回廊を使って表現されていて、そこを強調して描かれていたが、小説の中ではこのテーマ以外にもさまざまなテーマが提示されているようで、どうもまとまりに欠けているようなきがする。ただの奇想天外小説に終わってしまっているような気がした。
50歳を手前にしたオジサンには、映画が提示するテーマのほうが心に響く。
父親と息子というのはその通り、話したくても話せない。
僕はまだ父親と遅くまで行動をともにしたほうだと思うが、田辺や周参見までの道中、結局他愛もない話で終始して、父親も何か人生訓みたいなものをその与太話に乗せて語りたかったのかもしれないがそれはよくわからないことであった。今に至っては趣味と嗜好がまったく違うわが息子に何を話してやればよいものやら、まったくわからない。
洗面台で顔を洗うとき、水を出す量はもう少し少なくしないと節約にならないよ。と言ってやるくらいが関の山だ。

また、“ジンクス”という言葉の使い方も気になる。この言葉は、「それが起こると悪いことが起こる。」というような意味だと思うのだが、この小説では晴れ渡った富士山を見ると会計監査で大きな不正を見つけることができるのがジンクスだと語られているのはどうもしっくりいかない。この人たちは不正を暴くのが仕事だとしたら、これはジンクスではなくて吉兆だと表現すべきではないのかと、出だしから批判的な面持ちで読んでしまった。今の人にはこれのほうがしっくりくるのだろうか?

あとがき代わりのエッセイで、小説の舞台になった大阪市の谷町界隈は織田作之助や近松門左衛門が生活した場所だと紹介されていたが、開高健もこの辺りの出身で、梶井基次郎はさておきそれを紹介していないというのは、やはり、この作家の嗜好と僕の好みは大分違うのだと納得した。
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田ノ浦釣行

2012年06月06日 | Weblog
場所:田ノ浦
条件:大潮 6:43満潮
釣果:ボウズ

台風3号が接近中なのでうねりの中船を出すのも気が引けるので残っているヌカを消化すべく、近場で紀州釣りを考えた。大して釣果が望めるべくもなく、釣りというよりビールを飲みながらボ~っとするのが目的だ。酔っ払って足元がおぼつかなくなっても大丈夫な場所、短い竿が使える場所ということで田ノ浦の浮き桟橋に場所を定めた。



今日のメニューはレンコンの海鮮はさみ揚げとコロッケ。



車止めのブロックがちょうどいいテーブル代わりになっている。

さて、釣りはというとさすがに奥まった湾内だけあって潮の動きはまったくなく、朝のうちは風もなかったのでヘラブナ釣りをしているような感覚で、さすがにこんな状態では魚はアタッてこないだろう。

 

タナは意外と深くてこの潮で4ヒロ近くある。期待は持てそうだが、同じ場所ではサビキで子サバがうるさいほど釣れているが底のほうにはまったくいないようだ。ヘドロが多くて酸素が少ないので魚はいないのだろうか。

1時間半くらいたったとき、ヌカが落ちきらずに割れたかと思ったらアタリがでてボラがかかってきた。それもかなり大きい。こんな場所にもボラがいるのだ。



小学生の頃、父親に連れられてこの辺一帯でボラの吸い込み釣りをやったのを思い出した。

その後もアタリがあってもボラばかりで午前10時にヌカが底をついたので終了。

あと半分ヌカが残っているので、釣り座の横のビールが生ぬるくならない頃までにもう1回どこかで怠惰な時間を過ごしたいものだ。


帰り道、船を係留している港に寄るべく雑賀崎漁港を通っていると、山にへばりついて密集している民家の姿が真夏に近い日差しをあびて何か異国の雰囲気をかもし出していた。
日本のアンダルシアのようだ。

コメント (6)
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