リチャード・ドーキンス/著 中嶋康裕/〔ほか〕訳 「ブラインド・ウォッチメイカー 自然淘汰は偶然か? 上」読了
タイトルは日本語に直すと「盲目の時計職人」になる。
生物の自然淘汰=進化は予定されていたものか、それともそれとも目指す目的を持たずに盲目的に変化しながらも精密機械のようなデザインが出来上がったのかを論じている本である。
ダーウインの進化論を信じない人たちは、生物は神様が作りたもうたものに違いない。そうでもないと、「目」のようなレンズと網膜のようなものが一体となって出来上がるはずがないと主張するらしい。それに反論するのがこの本の趣旨のひとつである。
かなり哲学的で読んでいてもよくわからないが、人間のようにはっきり見えなくても、おぼろげでも光を感じたり景色が見えるほうが生存に役に立つのだから、それの繰り返しが自然淘汰であり、進化であると結論付けている。
それより読み応えがあるのが、後半の、「どのようにして生物が生まれたのか。」ということについての部分だ。
著者は、日本でも有名になった、「利己的な遺伝子」の著者でもあるので、生物は単に遺伝子(DNA)の運び役でしかないという考えの持ち主なので、そのDNAはどのようにして生まれたかを自然淘汰の結果として論じている。
DNAの最大の特徴は「自己複製」であるが、これは有機物だけが持っている物ではなく、無機物、たとえば塩も結晶化すると同じ立方体の形を複製し続ける。著書の中では、ある種の「泥」も同じような過程で結晶を複製し続けていたかもしれない。何らかの方法で同じような他の結晶体と競争しながら自然淘汰され、その中でより複製に有利な有機物にとって変わられ、DNAが生まれたのではないかと推理している。
さらに、DNAが遺伝情報の運搬物だとしたら、もっと運搬に有利なのはこれからはコンピューターではないか、と推論する。「泥」の組成は大半が珪素だが、自己複製に有利と考えられていた有機物が再び珪素=シリコン=半導体にとって変わられるのでないかと、ここまで来るとかなりSFじみているが、本物の生物学者が書いていると本当の話に思えてくる。
さて、下巻はどんな展開になっていくのだろう。
タイトルは日本語に直すと「盲目の時計職人」になる。
生物の自然淘汰=進化は予定されていたものか、それともそれとも目指す目的を持たずに盲目的に変化しながらも精密機械のようなデザインが出来上がったのかを論じている本である。
ダーウインの進化論を信じない人たちは、生物は神様が作りたもうたものに違いない。そうでもないと、「目」のようなレンズと網膜のようなものが一体となって出来上がるはずがないと主張するらしい。それに反論するのがこの本の趣旨のひとつである。
かなり哲学的で読んでいてもよくわからないが、人間のようにはっきり見えなくても、おぼろげでも光を感じたり景色が見えるほうが生存に役に立つのだから、それの繰り返しが自然淘汰であり、進化であると結論付けている。
それより読み応えがあるのが、後半の、「どのようにして生物が生まれたのか。」ということについての部分だ。
著者は、日本でも有名になった、「利己的な遺伝子」の著者でもあるので、生物は単に遺伝子(DNA)の運び役でしかないという考えの持ち主なので、そのDNAはどのようにして生まれたかを自然淘汰の結果として論じている。
DNAの最大の特徴は「自己複製」であるが、これは有機物だけが持っている物ではなく、無機物、たとえば塩も結晶化すると同じ立方体の形を複製し続ける。著書の中では、ある種の「泥」も同じような過程で結晶を複製し続けていたかもしれない。何らかの方法で同じような他の結晶体と競争しながら自然淘汰され、その中でより複製に有利な有機物にとって変わられ、DNAが生まれたのではないかと推理している。
さらに、DNAが遺伝情報の運搬物だとしたら、もっと運搬に有利なのはこれからはコンピューターではないか、と推論する。「泥」の組成は大半が珪素だが、自己複製に有利と考えられていた有機物が再び珪素=シリコン=半導体にとって変わられるのでないかと、ここまで来るとかなりSFじみているが、本物の生物学者が書いていると本当の話に思えてくる。
さて、下巻はどんな展開になっていくのだろう。