福岡伸一 「動的平衡ダイアローグ 世界観のパラダイムシフト」読了
“動的平衡”というのは、生物の体を構成している物質は新陳代謝を繰り返し常に入れ替わっている。しかし、生物としての形がまったく変わってしまうものではない。物質は常に流動的であるが、生物としては平衡状態を保っているといことで、“動的平衡”という。
この本はその“動的平衡”をキーワードに著者と各界の著名人が対談をするという形式だ。
全体を通してこの対談がどう動的平衡に関係しているかということは正直あまりわからなかった。少しづつ自分なりに拾ってみると、流動的というところから、人は変わっていかなければならないということと、何度でもやり直しができるというようなことを強調したいのかというところだろうか。
しかし、これは各界で成功した人たちだから言えることであって、変わって別の世界に羽ばたけるひとがどれだけいるだろうか。やり直すエネルギーがどれだけ必要だろうか。
アドラーは個人はそれ以上分割できないものとして扱うべきであるという。しかし、この対談では、人はいろいろな場面でいろいろな側面を見せることができると言っている。これが動的だと言っている。
はたして人はそんなにいろいろな側面を見せることができるのだろうか。あなたのここは嫌いだがここは好き。好きな部分だけ見てあなたを評価することができる。
そんなことをいう人がいるが、そんな動的な見方というのは本当にできるものだろうか。ぼくはすでに硬直化してしまっているだけなのだろうか。
とりあえずはこの本の元本になっている、「動的平衡」という本を読まなければならない。
“動的平衡”というのは、生物の体を構成している物質は新陳代謝を繰り返し常に入れ替わっている。しかし、生物としての形がまったく変わってしまうものではない。物質は常に流動的であるが、生物としては平衡状態を保っているといことで、“動的平衡”という。
この本はその“動的平衡”をキーワードに著者と各界の著名人が対談をするという形式だ。
全体を通してこの対談がどう動的平衡に関係しているかということは正直あまりわからなかった。少しづつ自分なりに拾ってみると、流動的というところから、人は変わっていかなければならないということと、何度でもやり直しができるというようなことを強調したいのかというところだろうか。
しかし、これは各界で成功した人たちだから言えることであって、変わって別の世界に羽ばたけるひとがどれだけいるだろうか。やり直すエネルギーがどれだけ必要だろうか。
アドラーは個人はそれ以上分割できないものとして扱うべきであるという。しかし、この対談では、人はいろいろな場面でいろいろな側面を見せることができると言っている。これが動的だと言っている。
はたして人はそんなにいろいろな側面を見せることができるのだろうか。あなたのここは嫌いだがここは好き。好きな部分だけ見てあなたを評価することができる。
そんなことをいう人がいるが、そんな動的な見方というのは本当にできるものだろうか。ぼくはすでに硬直化してしまっているだけなのだろうか。
とりあえずはこの本の元本になっている、「動的平衡」という本を読まなければならない。