ニコラス・G・カー/著 篠儀直子/訳 「オートメーション・バカ -先端技術がわたしたちにしていること」読了
若い頃からなのだが記憶力がまったくといっていいほどない。もっと記憶力がよければもっといい大学を出てもっといい会社に入ってもっと豊かな生活ができたのではないかといまでもつくづく思う。このブログを書き始めたのもいつ、どこで、どんな魚を釣ったかも覚えられないからなのであって、また、読んだ本のタイトルも忘れてしまうからなのだ。そして、最近は特にその症状が激しくなったように思う。歳のせいだとも思うが、コンピューターに頼りすぎているところも無きにしもあらずなのではないだろうかとうすうす思っていた。知りたいもの、欲しいものがあったとしてもすべてを記憶していなくても、断片的なキーワードを入力すれば目的のものにたどり着く。そんなことを繰り返し続けるうちにきちんと記憶する能力がどんどん退化しているに違いない。
実際、この本を読むと、人間とはそういうものらしい。機械に頼ってい続けるとさまざまな能力は退化してゆくというのだ。
産業革命以来、技術の発展はさまざまなものをオートメーション化してきた。まだ、コンピューターができる前、ベルトコンベアでの流れ作業によるオートメーションによってもの作りの作業工程は細分化されてすべてを作り上げる職人技が失われた。
自動操縦というのは飛行機の操縦から発展したらしいが、この技術に慣れてくるとパイロットというのは緊急時に操縦桿を引いていいのか押していいのかさえもわからなくなるそうだ。また、医者たちは診断の際に画像解析装置を使い続けるとそれだけに頼りきり経験に基づいた診断にミスが現れてくるというのだ。
効率を求める実業家や為政者はそれでもオートメーションやAIの導入に躊躇しない。証券取引の世界ではAIによる売買の速度が1秒間に10万回おこなわれ、それは人間の神経の反応速度をはるかに超えてしまっている。そうなってくるとオートメーションは人間のためのものなのかそれとも人間はオートメーションのための補助装置なのかがわからなくなってくる。
それでもどんどん発達してくるAIの能力はオートメーション化が劣ってきた人間の能力を十分に補完することができるようになってくるのであるが、そこに“倫理”という問題が大きく立ちはだかってくる。
この本は車の自動運転を例にとって書いているが、例えば、自動運転している車の前にボールを追いかけてきた子供が飛び出てきたとする。右にハンドルを切れば車は対向車か壁に激突し乗員が被害に遭う。それを回避するためにハンドルを切らなかったら飛び出てきた子供が被害者になる。どちらの行動をとるか、人間ならば“倫理”といわれるものによる判断があるが確率論で動くAIには世間に認めてもらえるような説得力はない。ここにオートメーションの限界があるのだと結論付けている。
たしかに、魚探の力を借りて魚の群れを見つけられるのはうれしいが、そこから勝手にリールのクラッチが切られて仕掛けが降りてゆき、魚が自動的に船べりまで上がってくるとこっちは興ざめするというものだ。
しかし、この判断や、倫理についてだが、フェイスブックの創始者、マーク・ザッカーバーグの、「アイデンティティはひとつだ。」ということばが紹介されていた。仕事仲間や同僚に対してとほかの知り合いに対してとで違うイメージを見せる時代はきっとあっという間に終わりになる。ここで人のアイデンティティは完全に固定される。偽りの人格は無くなるというのだ。
それほど遠くない将来、SNSやインターネットに掲示されている個人の書き込みをAIに学習させることによって人工的にそのひとの人格を作り上げることができるようになるそうだ。
そんなことができるようになってその人格を自分自身が運転する自動運転車に植え付けられるようになれば、この事故はあなたが運転していたとしてもそうなる事故でしたということになってしまう。そうなるとひょっとしたら倫理の問題も解決してしまうのではないだろうか。ということはこれほど異常と思えるほど普及してしまったSNSの世界というのはこうやってひとの人格をコンピューターに移植するための前準備とでもいうのだろうか。
しかし、そこまで自動化された世界に住むという価値はどれほどあるというのだろうか。
著者の言うとおり、人の力を手助けする技術は歓迎されるべきだが、それを超えて判断する技術、そういうものは果たして必要なのか。いやいや、多分そんなものは必要ないのだ。「行動せよ、知覚せよ。」この言葉に尽きるのだと思う。
僕は地下鉄の通路をスマホの画面を見ながら無表情にゾンビのように歩く人間にはなりたくない。車は自分の意のままに操りたい。ただ、船も車もGPSは許してもらいたい。そこは山たてができないのは退化と言われても無理。退化というまえに教育をされていない・・・。
遅れていると言われても最後までそうありたいと思うのだ。
若い頃からなのだが記憶力がまったくといっていいほどない。もっと記憶力がよければもっといい大学を出てもっといい会社に入ってもっと豊かな生活ができたのではないかといまでもつくづく思う。このブログを書き始めたのもいつ、どこで、どんな魚を釣ったかも覚えられないからなのであって、また、読んだ本のタイトルも忘れてしまうからなのだ。そして、最近は特にその症状が激しくなったように思う。歳のせいだとも思うが、コンピューターに頼りすぎているところも無きにしもあらずなのではないだろうかとうすうす思っていた。知りたいもの、欲しいものがあったとしてもすべてを記憶していなくても、断片的なキーワードを入力すれば目的のものにたどり着く。そんなことを繰り返し続けるうちにきちんと記憶する能力がどんどん退化しているに違いない。
実際、この本を読むと、人間とはそういうものらしい。機械に頼ってい続けるとさまざまな能力は退化してゆくというのだ。
産業革命以来、技術の発展はさまざまなものをオートメーション化してきた。まだ、コンピューターができる前、ベルトコンベアでの流れ作業によるオートメーションによってもの作りの作業工程は細分化されてすべてを作り上げる職人技が失われた。
自動操縦というのは飛行機の操縦から発展したらしいが、この技術に慣れてくるとパイロットというのは緊急時に操縦桿を引いていいのか押していいのかさえもわからなくなるそうだ。また、医者たちは診断の際に画像解析装置を使い続けるとそれだけに頼りきり経験に基づいた診断にミスが現れてくるというのだ。
効率を求める実業家や為政者はそれでもオートメーションやAIの導入に躊躇しない。証券取引の世界ではAIによる売買の速度が1秒間に10万回おこなわれ、それは人間の神経の反応速度をはるかに超えてしまっている。そうなってくるとオートメーションは人間のためのものなのかそれとも人間はオートメーションのための補助装置なのかがわからなくなってくる。
それでもどんどん発達してくるAIの能力はオートメーション化が劣ってきた人間の能力を十分に補完することができるようになってくるのであるが、そこに“倫理”という問題が大きく立ちはだかってくる。
この本は車の自動運転を例にとって書いているが、例えば、自動運転している車の前にボールを追いかけてきた子供が飛び出てきたとする。右にハンドルを切れば車は対向車か壁に激突し乗員が被害に遭う。それを回避するためにハンドルを切らなかったら飛び出てきた子供が被害者になる。どちらの行動をとるか、人間ならば“倫理”といわれるものによる判断があるが確率論で動くAIには世間に認めてもらえるような説得力はない。ここにオートメーションの限界があるのだと結論付けている。
たしかに、魚探の力を借りて魚の群れを見つけられるのはうれしいが、そこから勝手にリールのクラッチが切られて仕掛けが降りてゆき、魚が自動的に船べりまで上がってくるとこっちは興ざめするというものだ。
しかし、この判断や、倫理についてだが、フェイスブックの創始者、マーク・ザッカーバーグの、「アイデンティティはひとつだ。」ということばが紹介されていた。仕事仲間や同僚に対してとほかの知り合いに対してとで違うイメージを見せる時代はきっとあっという間に終わりになる。ここで人のアイデンティティは完全に固定される。偽りの人格は無くなるというのだ。
それほど遠くない将来、SNSやインターネットに掲示されている個人の書き込みをAIに学習させることによって人工的にそのひとの人格を作り上げることができるようになるそうだ。
そんなことができるようになってその人格を自分自身が運転する自動運転車に植え付けられるようになれば、この事故はあなたが運転していたとしてもそうなる事故でしたということになってしまう。そうなるとひょっとしたら倫理の問題も解決してしまうのではないだろうか。ということはこれほど異常と思えるほど普及してしまったSNSの世界というのはこうやってひとの人格をコンピューターに移植するための前準備とでもいうのだろうか。
しかし、そこまで自動化された世界に住むという価値はどれほどあるというのだろうか。
著者の言うとおり、人の力を手助けする技術は歓迎されるべきだが、それを超えて判断する技術、そういうものは果たして必要なのか。いやいや、多分そんなものは必要ないのだ。「行動せよ、知覚せよ。」この言葉に尽きるのだと思う。
僕は地下鉄の通路をスマホの画面を見ながら無表情にゾンビのように歩く人間にはなりたくない。車は自分の意のままに操りたい。ただ、船も車もGPSは許してもらいたい。そこは山たてができないのは退化と言われても無理。退化というまえに教育をされていない・・・。
遅れていると言われても最後までそうありたいと思うのだ。