神田 桂一、菊池 良 「もし文豪たちが カップ焼きそばの作り方を書いたら」読了
カップ焼そばの作り方を文豪が書いたらどんなになるかという極々単純であるけれども奥が深い著作である。
そもそも、これがカップ麺では恐らくは成立しなかったであろう。カップ麺を作る場合はお湯を注ぐという行為のみで成立するのであるけれども、カップ焼きそばにはそこに「湯切り」という工程が追加される。
たったひとつの工程の追加ではあるけれども、それによってせっかく注いだお湯を捨てなければならないという不条理、湯切りをしている最中に麺を落としてしまうかもしれないという無常さ、そしてこれはカップ麺にも通じるものではあるけれども、調理というには包丁はもとより菜箸、まな板さえも使わないという極限までそぎ落とされた形式、もしくは退廃的な手法。これはまさに純文学そのものである。
そこに目をつけた著者の慧眼、恐れ入る。これを逆手にとってこんな本を作ってしまうのはサブカルチャーの真骨頂でもある。
しかしまあ、どれほどまでに読み込めば文豪たちの文体を会得できるのか、その努力にも恐れ入る。
僕の高校2年と3年のときの担任は現代国語の先生であったが、その先生が言っていたことには、「ある作家の文体を真似したければ、その著作を1冊丸々書き写すとよい。」らしいけれどもそうなると著者は一体どれだけの書物を書き写してきたのだろうか。
著者は前書きで、この本は軽く読んではははと笑って、ページを閉じた瞬間にすべてを忘れるような本を目指して書かれた。と書いている。まさにそのとおりのようで、去年発刊されたばかりの本だが、アマゾンでは古本で109円の値段がついていた・・・。しかしこれはこれで悲しい・・。
カップ焼そばの作り方を文豪が書いたらどんなになるかという極々単純であるけれども奥が深い著作である。
そもそも、これがカップ麺では恐らくは成立しなかったであろう。カップ麺を作る場合はお湯を注ぐという行為のみで成立するのであるけれども、カップ焼きそばにはそこに「湯切り」という工程が追加される。
たったひとつの工程の追加ではあるけれども、それによってせっかく注いだお湯を捨てなければならないという不条理、湯切りをしている最中に麺を落としてしまうかもしれないという無常さ、そしてこれはカップ麺にも通じるものではあるけれども、調理というには包丁はもとより菜箸、まな板さえも使わないという極限までそぎ落とされた形式、もしくは退廃的な手法。これはまさに純文学そのものである。
そこに目をつけた著者の慧眼、恐れ入る。これを逆手にとってこんな本を作ってしまうのはサブカルチャーの真骨頂でもある。
しかしまあ、どれほどまでに読み込めば文豪たちの文体を会得できるのか、その努力にも恐れ入る。
僕の高校2年と3年のときの担任は現代国語の先生であったが、その先生が言っていたことには、「ある作家の文体を真似したければ、その著作を1冊丸々書き写すとよい。」らしいけれどもそうなると著者は一体どれだけの書物を書き写してきたのだろうか。
著者は前書きで、この本は軽く読んではははと笑って、ページを閉じた瞬間にすべてを忘れるような本を目指して書かれた。と書いている。まさにそのとおりのようで、去年発刊されたばかりの本だが、アマゾンでは古本で109円の値段がついていた・・・。しかしこれはこれで悲しい・・。