辻原登 「闇の奥」読了
この小説は、戦後まもなくボルネオで消息を絶った昆虫学者で民族学者でもある三上隆の消息を求めて主人公が現実とも幻想ともわからない世界を旅する物語である。
物語の始まりは熊野に伝わる小人族伝説である。キリシマミドリシジミという蝶を求めて山奥深く分け入った高校生の三上隆は友人ふたりとともに大塔山系の山中で小さな岩穴の奥に小人=矮人の姿を見つける。
成人した三上は同じ矮人族伝説が残っているボルネオに向かい消息を絶つ。
その後、三上の友人であった彼の行方を求めて何度かの捜索隊をボルネオに向けて編成するが、まだ生きているのか、すでに死亡しているのかそれさえもわからなかった。
しかし、その友人のひとり村上三六の息子のが三六宛に届いていた隆の友人からの手紙をもとに再度三上の捜索に向かう・・・。
というようなあらすじである。
小説全般を通して、フィクションなのか、ノンフィクションなのかそれさえも解らないようなしつらえで物語は進む。それは三上と大塔山系に分け入った友人の一人は丸正百貨店地階の果物店の店主であり、毒入りカレー事件の巻き添えを食って死亡する。というような現実の世界のエピソードが時折挟み込まれていたり、「空白の5マイル」で描かれた、実在するツァンポー渓谷への道のりが詳しく書き込まれていたりする。
僕はおもわず、三上隆という人物が実在の学者なのだろうかとグーグルで調べてしまった。
そして物語は熊野、ボルネオ、チベットを時空を超えて進んでゆく。著者は印南町の出身。おそらく、三上隆のモチーフは南方熊楠であるように思う。熊楠がイギリス、北米、南米を渡り歩き、そして熊野の地に戻ってきたように、三上もまた熊野からボルネオ、チベットとその足跡を残してゆく。
そういう風に物語を読んでゆくと、この小説は、人と自然のつながりとは何なのか、そういうものを考えさせられるようにできているのではないかと思い始めてくる。
作家は主人公をいつしか“息子”という言葉で著すようになっていく。それは特定の個人の息子ということではなく、あたかも大地の息子というような意味合いを持たせているように感じる。
ありきたりの結論ではあるのだろうが、人は自然とのつながり、そして過去、現在、未来のつながりの中で生きてゆかなければならないと説いているように思う。
そしてその核ともいえる場所がこの熊野の地ではないのかと思えるのである。かの地を訪れるひとはすべてそんな感覚を覚えるのだろうが、自分も目に見えない何かとつながっているのではないか、そして何ものかと一体になることができるのではないかと・・。
フィクションの物語をあたかも現実のように感じさせるのは作家の力なのか、それとも熊野の力なのだろうか。
この小説は、戦後まもなくボルネオで消息を絶った昆虫学者で民族学者でもある三上隆の消息を求めて主人公が現実とも幻想ともわからない世界を旅する物語である。
物語の始まりは熊野に伝わる小人族伝説である。キリシマミドリシジミという蝶を求めて山奥深く分け入った高校生の三上隆は友人ふたりとともに大塔山系の山中で小さな岩穴の奥に小人=矮人の姿を見つける。
成人した三上は同じ矮人族伝説が残っているボルネオに向かい消息を絶つ。
その後、三上の友人であった彼の行方を求めて何度かの捜索隊をボルネオに向けて編成するが、まだ生きているのか、すでに死亡しているのかそれさえもわからなかった。
しかし、その友人のひとり村上三六の息子のが三六宛に届いていた隆の友人からの手紙をもとに再度三上の捜索に向かう・・・。
というようなあらすじである。
小説全般を通して、フィクションなのか、ノンフィクションなのかそれさえも解らないようなしつらえで物語は進む。それは三上と大塔山系に分け入った友人の一人は丸正百貨店地階の果物店の店主であり、毒入りカレー事件の巻き添えを食って死亡する。というような現実の世界のエピソードが時折挟み込まれていたり、「空白の5マイル」で描かれた、実在するツァンポー渓谷への道のりが詳しく書き込まれていたりする。
僕はおもわず、三上隆という人物が実在の学者なのだろうかとグーグルで調べてしまった。
そして物語は熊野、ボルネオ、チベットを時空を超えて進んでゆく。著者は印南町の出身。おそらく、三上隆のモチーフは南方熊楠であるように思う。熊楠がイギリス、北米、南米を渡り歩き、そして熊野の地に戻ってきたように、三上もまた熊野からボルネオ、チベットとその足跡を残してゆく。
そういう風に物語を読んでゆくと、この小説は、人と自然のつながりとは何なのか、そういうものを考えさせられるようにできているのではないかと思い始めてくる。
作家は主人公をいつしか“息子”という言葉で著すようになっていく。それは特定の個人の息子ということではなく、あたかも大地の息子というような意味合いを持たせているように感じる。
ありきたりの結論ではあるのだろうが、人は自然とのつながり、そして過去、現在、未来のつながりの中で生きてゆかなければならないと説いているように思う。
そしてその核ともいえる場所がこの熊野の地ではないのかと思えるのである。かの地を訪れるひとはすべてそんな感覚を覚えるのだろうが、自分も目に見えない何かとつながっているのではないか、そして何ものかと一体になることができるのではないかと・・。
フィクションの物語をあたかも現実のように感じさせるのは作家の力なのか、それとも熊野の力なのだろうか。