佐藤洋一郎 「食べるとはどういうことか」読了
なかなか微妙な本だ。タイトルはなんとも哲学的なものだがそのいくらかの内容は過去に読んだ本にも書かれていたようなものだった。端的にいうと、「現代の食の危機」というものに言及している本だ。食の多様性が薄れ、画一化された食。生産と消費の距離があまりにもかけ離れた世界。著者はそこに危機感を訴える。ただ、それだけではなく、味覚についてや観光と食文化、食料の保存の歴史など学術的なことも書かれている。そうかと思うと、人文科学は自然科学に比べて世間ではないがしろにされているというような愚痴も書かれていて論旨があちこちに行っている気がするので微妙なのだ。もちろん、こういったすべてのことが「現代の食の危機」につながってゆくのだといわれればそうかもしれないが・・。そんな本だが、次の予約がはいっており、来週には返却しなければならないので先に読んでいた本を途中でやめて急いで読み始めた。
世界で生産される穀類は4億トンほどだそうだ。世界の人口を70億人(すでに80億人にまでなっているそうだが。)とすると、一人当たり330キログラム程の配分がある。カロリーに換算すると1日2900キロカロリーだそうだ。成人ひとり当たりの1日の必須カロリーは2000~2400キロカロリーと言われているので今のところはこの地球上の人口を十分養っていくことができる計算だ。しかし、世界では8億人の人が飢餓の危機に瀕しているという。
これは、「食の分業化」が原因だ。食材を作る人、加工する人、食べる人が分かれてしまうことだが、これが進むことでおカネを持っている先進国に食材が集まり、食べきれないものは廃棄されてゆく。また、大量に同規格の食材を流通させるために規格外の食材も廃棄される。
そして、この本は2022年の春までに書かれたものなので取り上げられてはいないが、ひとたび世界のどこかで戦争が起こると世界中の食糧事情が危機に陥る。ウクライナの戦争では、世界はこんなに脆弱なのかと驚いた。
今の世の中で、自分で食べるものを自分で取ってきて自分で料理をして自分で食べる人という、食のすべてを自分で賄うという人はほぼ皆無だ。調理は自分でやったとしても食材はお店で買うしかない。それも流通しやすいように食材の種類は絞られ、選ぶ余地は少ない。品種改良は生産力を伸ばしたが、一方で品種の多様性を損なった。そしてそのことが土地ごとの食の多様性多様性や食文化を薄れてさせてゆく。
そういったことに著者は危機感を抱くわけだが、特定の場所に人口が集中し、都市化が進んだ現代ではどうすることもできない。
僕も何度か書いてみたことがあるが、その最たるものがコンビニの総菜だろう。「こんなに丁寧に家庭の味を再現しました。」みたいなコピーでサバの塩焼きなんかを売っているが、それのどこが家庭の味なのか。家庭で作らなかったら家庭の味ではないのではないか、それを家庭の味だと勘違いしている日本国民はどこかおかしいのではないかといつも思うのである。
もちろん、やむを得ず外食をすることもあるだろう。外食の起源は旅先での食事だと言われているそうだ。それも文化のひとつである。中国や東南アジアでの屋台などは一度は食べてみたいと思うのであるが、日常の生活でそれしか選択肢を持たなくなってしまっては本末転倒だ。
せめて自分の食べることは自分でよく考えて食べなさいというのが著者の思いのようだ。
そういったことを、食の歴史、加工、保存、味覚、嗅覚など様々な方面から書いているのだが、やっぱりちょっと微妙だ。しかし、著者が一番主張したいことは、冒頭の、「はじめに」の部分に集約されているように思う。
宇宙ステーションのクルーがハンバーガーを食べているシーンを見て、『ハイテクの塊のような空間である宇宙ステーションで活動する宇宙飛行士たちでさえ、生命維持のためには食べ続けなければならないことを雄弁に物語っている。』と書いている。どこにいても人間は食べることからは逃れられないのであり、それが世界中で様々な食文化を生んできた。
「食べることは生きること」というサブタイトルがついていたのは何年か前の朝の連続テレビ小説だったが、まさにそれである。それを大切にしなさいということだ。
著者は植物遺伝学の科学者だそうだ。食の未来を見据える科学者は人類の機械化についても言及している。まったくSF的ではあるが、人体のサイボーグ化についてだ。それはいろいろな部分で進みつつある。それに食がどう関係するかというと、食物の人工物化である。1万年ほど前は完全な自然物であった食材は、農耕、遊牧を経て半人工物と言えるものとなった。そして現在では食品添加物、冷凍食品など高度に加工されたものになっている。その行きつく先は、ロボットと化した身体をもつ人間が、水のほかは栄養剤のようなピル状のものだけを食べるような世界なのだろうかと懸念する。これは大げさだとは思うが、著者は、そのような社会は嫌だと考える人が減ってきたと感じている。それの象徴のひとつがコンビニで夕食を買う人々だろうと僕も思う。食べる楽しみ、美味しく食べる、味わって食べるといった食の価値を、改めて問い直す時期が来ているのではないかというのである。
確かに、食べることにまったくこだわりがなく、あったとしても自分で作ることをせず、外食、もしくは中食で満足しているひとはかなり多いのかもれないが、いくらかの食材を自分で確保し、またはそれを取った人、育てた人の顔がわかるものを自分で料理して食べることを少しでもやっている僕はそういった食にこだわりのない人たちよりも幸せなのかもしれないと思う本であった。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *
このブログを書いている今日は台風14号が日本を縦断している。朝から和歌山市内をウロウロしてきたのだが、その時点では中心はいまだ九州だがものすごい風が吹いている。車高が2メートル近くある僕の車はときおりハンドルを取られ、ビニール傘は秒殺でボロボロになってしまった。

それでも海に出ている人はいる。大きな波を狙ってサーファーが大挙していた。ちょうど祝日と台風の日が重なったからだろうが、こんな日に海に入っていくのは怖くはないのだろうか。女性のサーファーもいた。

雑賀崎灯台、いつもの観測スポットと廻ってきたが、カメラを構える腕は風に翻弄され、まともにシャッターを切れない。

いつもの観測スポットは防波堤が嵩上げされ、こっちに乗り越えてくるような大きな波は見えなかった。これはこれで安全なのかもしれないが、オーディエンスとしてはちょっと物足りないのである。

船のほうは今のところ無事である。

しかし、干潮時刻にしては潮位が高い。家に帰って調べてみると、予測潮位より50センチほど高く推移している。夕刻が満潮になるのでちょっと心配だ。

ひととおりパトロールを終え、「わかやま〇しぇ」へ。今日は一般向けに販売会をしているらしい。平日は客がいなくて店番のおじさんたちとよもやま話などをするのだが、荒れ模様の日ではあるが今日は忙しくレジで客さばきをしている。

今日の買い物はコロッケ各種と5キロ入りのパスタだ。
300円と書いていたので思わず買ってみたが、これを食べきるのに一体何年かかるのだろうと買ってみてから気がついたのである。

そうこうしているうちに風はますます強くなってきた。いつもなら気にはしながらも心底は心配をしないのだが、今回の台風はちょっとまずいかもしれないとおびえているのである。別の意味でちむどんどんしている・・。
なかなか微妙な本だ。タイトルはなんとも哲学的なものだがそのいくらかの内容は過去に読んだ本にも書かれていたようなものだった。端的にいうと、「現代の食の危機」というものに言及している本だ。食の多様性が薄れ、画一化された食。生産と消費の距離があまりにもかけ離れた世界。著者はそこに危機感を訴える。ただ、それだけではなく、味覚についてや観光と食文化、食料の保存の歴史など学術的なことも書かれている。そうかと思うと、人文科学は自然科学に比べて世間ではないがしろにされているというような愚痴も書かれていて論旨があちこちに行っている気がするので微妙なのだ。もちろん、こういったすべてのことが「現代の食の危機」につながってゆくのだといわれればそうかもしれないが・・。そんな本だが、次の予約がはいっており、来週には返却しなければならないので先に読んでいた本を途中でやめて急いで読み始めた。
世界で生産される穀類は4億トンほどだそうだ。世界の人口を70億人(すでに80億人にまでなっているそうだが。)とすると、一人当たり330キログラム程の配分がある。カロリーに換算すると1日2900キロカロリーだそうだ。成人ひとり当たりの1日の必須カロリーは2000~2400キロカロリーと言われているので今のところはこの地球上の人口を十分養っていくことができる計算だ。しかし、世界では8億人の人が飢餓の危機に瀕しているという。
これは、「食の分業化」が原因だ。食材を作る人、加工する人、食べる人が分かれてしまうことだが、これが進むことでおカネを持っている先進国に食材が集まり、食べきれないものは廃棄されてゆく。また、大量に同規格の食材を流通させるために規格外の食材も廃棄される。
そして、この本は2022年の春までに書かれたものなので取り上げられてはいないが、ひとたび世界のどこかで戦争が起こると世界中の食糧事情が危機に陥る。ウクライナの戦争では、世界はこんなに脆弱なのかと驚いた。
今の世の中で、自分で食べるものを自分で取ってきて自分で料理をして自分で食べる人という、食のすべてを自分で賄うという人はほぼ皆無だ。調理は自分でやったとしても食材はお店で買うしかない。それも流通しやすいように食材の種類は絞られ、選ぶ余地は少ない。品種改良は生産力を伸ばしたが、一方で品種の多様性を損なった。そしてそのことが土地ごとの食の多様性多様性や食文化を薄れてさせてゆく。
そういったことに著者は危機感を抱くわけだが、特定の場所に人口が集中し、都市化が進んだ現代ではどうすることもできない。
僕も何度か書いてみたことがあるが、その最たるものがコンビニの総菜だろう。「こんなに丁寧に家庭の味を再現しました。」みたいなコピーでサバの塩焼きなんかを売っているが、それのどこが家庭の味なのか。家庭で作らなかったら家庭の味ではないのではないか、それを家庭の味だと勘違いしている日本国民はどこかおかしいのではないかといつも思うのである。
もちろん、やむを得ず外食をすることもあるだろう。外食の起源は旅先での食事だと言われているそうだ。それも文化のひとつである。中国や東南アジアでの屋台などは一度は食べてみたいと思うのであるが、日常の生活でそれしか選択肢を持たなくなってしまっては本末転倒だ。
せめて自分の食べることは自分でよく考えて食べなさいというのが著者の思いのようだ。
そういったことを、食の歴史、加工、保存、味覚、嗅覚など様々な方面から書いているのだが、やっぱりちょっと微妙だ。しかし、著者が一番主張したいことは、冒頭の、「はじめに」の部分に集約されているように思う。
宇宙ステーションのクルーがハンバーガーを食べているシーンを見て、『ハイテクの塊のような空間である宇宙ステーションで活動する宇宙飛行士たちでさえ、生命維持のためには食べ続けなければならないことを雄弁に物語っている。』と書いている。どこにいても人間は食べることからは逃れられないのであり、それが世界中で様々な食文化を生んできた。
「食べることは生きること」というサブタイトルがついていたのは何年か前の朝の連続テレビ小説だったが、まさにそれである。それを大切にしなさいということだ。
著者は植物遺伝学の科学者だそうだ。食の未来を見据える科学者は人類の機械化についても言及している。まったくSF的ではあるが、人体のサイボーグ化についてだ。それはいろいろな部分で進みつつある。それに食がどう関係するかというと、食物の人工物化である。1万年ほど前は完全な自然物であった食材は、農耕、遊牧を経て半人工物と言えるものとなった。そして現在では食品添加物、冷凍食品など高度に加工されたものになっている。その行きつく先は、ロボットと化した身体をもつ人間が、水のほかは栄養剤のようなピル状のものだけを食べるような世界なのだろうかと懸念する。これは大げさだとは思うが、著者は、そのような社会は嫌だと考える人が減ってきたと感じている。それの象徴のひとつがコンビニで夕食を買う人々だろうと僕も思う。食べる楽しみ、美味しく食べる、味わって食べるといった食の価値を、改めて問い直す時期が来ているのではないかというのである。
確かに、食べることにまったくこだわりがなく、あったとしても自分で作ることをせず、外食、もしくは中食で満足しているひとはかなり多いのかもれないが、いくらかの食材を自分で確保し、またはそれを取った人、育てた人の顔がわかるものを自分で料理して食べることを少しでもやっている僕はそういった食にこだわりのない人たちよりも幸せなのかもしれないと思う本であった。
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このブログを書いている今日は台風14号が日本を縦断している。朝から和歌山市内をウロウロしてきたのだが、その時点では中心はいまだ九州だがものすごい風が吹いている。車高が2メートル近くある僕の車はときおりハンドルを取られ、ビニール傘は秒殺でボロボロになってしまった。

それでも海に出ている人はいる。大きな波を狙ってサーファーが大挙していた。ちょうど祝日と台風の日が重なったからだろうが、こんな日に海に入っていくのは怖くはないのだろうか。女性のサーファーもいた。

雑賀崎灯台、いつもの観測スポットと廻ってきたが、カメラを構える腕は風に翻弄され、まともにシャッターを切れない。

いつもの観測スポットは防波堤が嵩上げされ、こっちに乗り越えてくるような大きな波は見えなかった。これはこれで安全なのかもしれないが、オーディエンスとしてはちょっと物足りないのである。

船のほうは今のところ無事である。

しかし、干潮時刻にしては潮位が高い。家に帰って調べてみると、予測潮位より50センチほど高く推移している。夕刻が満潮になるのでちょっと心配だ。

ひととおりパトロールを終え、「わかやま〇しぇ」へ。今日は一般向けに販売会をしているらしい。平日は客がいなくて店番のおじさんたちとよもやま話などをするのだが、荒れ模様の日ではあるが今日は忙しくレジで客さばきをしている。

今日の買い物はコロッケ各種と5キロ入りのパスタだ。
300円と書いていたので思わず買ってみたが、これを食べきるのに一体何年かかるのだろうと買ってみてから気がついたのである。

そうこうしているうちに風はますます強くなってきた。いつもなら気にはしながらも心底は心配をしないのだが、今回の台風はちょっとまずいかもしれないとおびえているのである。別の意味でちむどんどんしている・・。