場所:水軒沖
条件:小潮 4:58干潮
釣果:ボウズ
今日も北風が強く吹いている。森に暮らすひまじんさんとの釣行は2日か今日かを考えていてのだが、今日にしなくて正解であった。
ちなみに近畿地方で木枯らし1号が吹いたということだ。
タチウオ用のイワシがまるまる残っているので単身でタチウオをもう一度と考えていたけれどもそれどころではない。加太へ行くのにも一苦労という感じだ。
港の周辺なら風を避けられるところもあるだろうと小船に乗ってアオリイカを狙いに出かけてみた。前回釣果のあった雑賀崎はおあつらえ向きに北風をよけることができる。
ほぼ同じ場所に碇を打ってエギをキャストするが、そんなに世の中は甘くない。1時間ほどで嫌になって撤退してしまった。
港には午前8時半ごろには帰ってきていたが、雑賀崎のサンマの販売店が開いていればと思い訪ねてみた。
こういうところは開店時間が早いようで、すでに営業中の旗が上がっていた。
叔父さんの家の分と一緒に購入して今日は終了。
これではブログの尺が短いのでこのポイントについての薀蓄を少し。
この磯は通称「鷹ノ巣」と呼ばれている。この地名は全国に存在するようで、大体が鷹の巣を作らせ、その雛を鷹狩り用の鷹に育てて幕府に献上していた場所だったところが多いようだ。和歌山は徳川御三家の一角だから紀州藩主に鷹を献上していたのだろうか?トンビしか見かけないけれども・・。それとも、トンビを鷹に見立ててつけられた地名なのだろうか。そして、水際には大きな洞窟がある。「鷹ノ巣洞」と呼ばれているが、のちに東本願寺の法主となる教如という僧が信長との石山合戦の後に逃れて匿われたと言われている。
浄土真宗の本山が西と東にあるのは、この人が東本願寺を作って分離独立したからだそうだ。そこには強大な教団の力を恐れた徳川家康の思惑も絡んでいるかもしれなというから歴史というのは面白い。石山合戦でも徹底抗戦を主張した武闘派だったそうだ。だからこの場所に匿われることになる。そういう意味では雑賀衆とも馬が合ったのだろう・・。
この地域は、戦国時代、鉄砲隊で有名な雑賀衆が支配しており、ご存じのとおり、雑賀衆は熱心な門徒であり、石山合戦では信長とも対峙した。これがのちに秀吉の紀州攻めにつながるのだがそれはもう少し後のことだ。小学生のころはこの辺りが遊び場だったので何回かはこの洞窟に入ったことがある。今は崩れて通行止めになっているけれども、崖沿いに歩道が通っていた。中には小さな祠があって、相当不気味な場所だったという記憶がある。
そして、断崖絶壁は一面緑色をした石でできている。和歌山では「青石」と呼ばれ、地質学的には「緑色片岩」と呼ばれるらしいがそれについての知識はまったくない。ただ、水軒の海でも和歌浦の海でも、海岸線はどこもこの石がゴロゴロしていて和歌山市内では塀や壁がこの石でできている家が昔は多かった。ウチの庭にも父親がどこかから貰ってきた石がたくさん使われている。
そして、もう20年以上前ではあるのだろうけれども、「探偵!ナイトスクープ」でここが小枝探偵のパラダイスシリーズのひとつとして紹介され、灯台横の売店のおやじがテレビに出ていた。たしかに変わった人だった。売店の鍵を閉めて中で昼寝をしている姿を何度か見かけた。
そして、釣りの世界でいうと、まさにこの場所が紀州釣りの発祥の地なのである。足元からドン深のこの磯はチヌが昔からたくさんいたそうだ。これは僕の祖父の若いころの話だが、当時はテグス(本物の絹糸のテグスのことだ)が貴重品でかつ強度もなかったので大物が掛かると切れてしまう。それがもったいないので大きな魚の影が見えるとみんな仕掛けを回収して魚が通り過ぎるのを待っていたそうだ。なんともうらやましい時代だ。この頃に今の道具があればどれほどのチヌが釣れることだろう。
そして当時はリールがなかったので、のべ竿に竿の長さの数倍の道糸をくくりつけて足元に手繰りながら釣りをしていた。魚が掛かるとかけ竿というものを使う。この竿は穂先に逆U字型の針金がくくり付けられていて、それに道糸を絡めて手繰り寄せる仕組みになっている。それを数本使って足元まで魚を寄せてくるというような釣り方だ。なかなか文章では表現しづらいが、ヌカダンゴを使うということに加えて独特な方法の釣り方だったのだ。移動ウキを使わなかった父親もこのかけ竿を1本だけ使い、ウキまではリールで巻き取るが、そこから下はかけ竿で魚を取り込んでいたものだ。
去年はここにTOKIOがやってきて話題を振りまいてくれたが、それでもここを訪れる人は少ない。このサンマも美味しいし、歴史もあって景色もきれい(なんといってもここは「日本のアマルフィ」と呼ばれているのだ。)なのだから観光開発をすればもっと街が盛り上がらないのかしらといつも思うのである。
条件:小潮 4:58干潮
釣果:ボウズ
今日も北風が強く吹いている。森に暮らすひまじんさんとの釣行は2日か今日かを考えていてのだが、今日にしなくて正解であった。
ちなみに近畿地方で木枯らし1号が吹いたということだ。
タチウオ用のイワシがまるまる残っているので単身でタチウオをもう一度と考えていたけれどもそれどころではない。加太へ行くのにも一苦労という感じだ。
港の周辺なら風を避けられるところもあるだろうと小船に乗ってアオリイカを狙いに出かけてみた。前回釣果のあった雑賀崎はおあつらえ向きに北風をよけることができる。
ほぼ同じ場所に碇を打ってエギをキャストするが、そんなに世の中は甘くない。1時間ほどで嫌になって撤退してしまった。
港には午前8時半ごろには帰ってきていたが、雑賀崎のサンマの販売店が開いていればと思い訪ねてみた。
こういうところは開店時間が早いようで、すでに営業中の旗が上がっていた。
叔父さんの家の分と一緒に購入して今日は終了。
これではブログの尺が短いのでこのポイントについての薀蓄を少し。
この磯は通称「鷹ノ巣」と呼ばれている。この地名は全国に存在するようで、大体が鷹の巣を作らせ、その雛を鷹狩り用の鷹に育てて幕府に献上していた場所だったところが多いようだ。和歌山は徳川御三家の一角だから紀州藩主に鷹を献上していたのだろうか?トンビしか見かけないけれども・・。それとも、トンビを鷹に見立ててつけられた地名なのだろうか。そして、水際には大きな洞窟がある。「鷹ノ巣洞」と呼ばれているが、のちに東本願寺の法主となる教如という僧が信長との石山合戦の後に逃れて匿われたと言われている。
浄土真宗の本山が西と東にあるのは、この人が東本願寺を作って分離独立したからだそうだ。そこには強大な教団の力を恐れた徳川家康の思惑も絡んでいるかもしれなというから歴史というのは面白い。石山合戦でも徹底抗戦を主張した武闘派だったそうだ。だからこの場所に匿われることになる。そういう意味では雑賀衆とも馬が合ったのだろう・・。
この地域は、戦国時代、鉄砲隊で有名な雑賀衆が支配しており、ご存じのとおり、雑賀衆は熱心な門徒であり、石山合戦では信長とも対峙した。これがのちに秀吉の紀州攻めにつながるのだがそれはもう少し後のことだ。小学生のころはこの辺りが遊び場だったので何回かはこの洞窟に入ったことがある。今は崩れて通行止めになっているけれども、崖沿いに歩道が通っていた。中には小さな祠があって、相当不気味な場所だったという記憶がある。
そして、断崖絶壁は一面緑色をした石でできている。和歌山では「青石」と呼ばれ、地質学的には「緑色片岩」と呼ばれるらしいがそれについての知識はまったくない。ただ、水軒の海でも和歌浦の海でも、海岸線はどこもこの石がゴロゴロしていて和歌山市内では塀や壁がこの石でできている家が昔は多かった。ウチの庭にも父親がどこかから貰ってきた石がたくさん使われている。
そして、もう20年以上前ではあるのだろうけれども、「探偵!ナイトスクープ」でここが小枝探偵のパラダイスシリーズのひとつとして紹介され、灯台横の売店のおやじがテレビに出ていた。たしかに変わった人だった。売店の鍵を閉めて中で昼寝をしている姿を何度か見かけた。
そして、釣りの世界でいうと、まさにこの場所が紀州釣りの発祥の地なのである。足元からドン深のこの磯はチヌが昔からたくさんいたそうだ。これは僕の祖父の若いころの話だが、当時はテグス(本物の絹糸のテグスのことだ)が貴重品でかつ強度もなかったので大物が掛かると切れてしまう。それがもったいないので大きな魚の影が見えるとみんな仕掛けを回収して魚が通り過ぎるのを待っていたそうだ。なんともうらやましい時代だ。この頃に今の道具があればどれほどのチヌが釣れることだろう。
そして当時はリールがなかったので、のべ竿に竿の長さの数倍の道糸をくくりつけて足元に手繰りながら釣りをしていた。魚が掛かるとかけ竿というものを使う。この竿は穂先に逆U字型の針金がくくり付けられていて、それに道糸を絡めて手繰り寄せる仕組みになっている。それを数本使って足元まで魚を寄せてくるというような釣り方だ。なかなか文章では表現しづらいが、ヌカダンゴを使うということに加えて独特な方法の釣り方だったのだ。移動ウキを使わなかった父親もこのかけ竿を1本だけ使い、ウキまではリールで巻き取るが、そこから下はかけ竿で魚を取り込んでいたものだ。
去年はここにTOKIOがやってきて話題を振りまいてくれたが、それでもここを訪れる人は少ない。このサンマも美味しいし、歴史もあって景色もきれい(なんといってもここは「日本のアマルフィ」と呼ばれているのだ。)なのだから観光開発をすればもっと街が盛り上がらないのかしらといつも思うのである。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます