
平山美希 『「自分の意見」ってどうつくるの?』読了
ヒラヤマミキというと、「真夏の出来事」というヒット曲を思い出すが、この人とはまったく関係がない。この名前がピンときて読んでみようと思ったわけではない。
自分の意見を理路整然と、しかも自信をもって、しかも相手を傷つけず堂々と表明することはものすごく難しい。とくに日本人として生まれた僕にとっては、当たり障りなく、他の人の意見に迎合することが世の中をうまく渡っていくための必要条件なのだと思っている。
そして、これが十分条件ではない人のことがうらやましくてしかたがなかった。
会議の席でも、なんとかその場をうっちゃることができればそれでよいと思っていた。その前に、いろいろなアイデアを発表しても、よいとも悪いとも誰も何も言わないのが僕の会社の会議であった。会議に出席している全員が僕の発表内容に興味がなかったのか、何か言おうにもそれについてまったく知識がなかったのか、ある人はなんとかマウンティングだけはやっておきたいのかなんだかまったく違う話題を持ち出してその場を仕切ろうとしていた。
そんな人たちもきっと自分の意見をどうやって表現すればよいかということをまったく知らず、意見を戦わせるという術も持っていなかったに違いない。
自民党の女性議員のフランス研修のSNSへの投稿が不適切だというニュースが出ていたが、これなんかも、自分の意見を持っていたらこういう行動の中のこの時間に一息入れてこんな写真を撮ったのだと堂々と言えるのだろうが、とりあえず謝っておこうというのが自分の意見を持っていない日本人独特の行動なのであろう。もっとも、その前に、本当に物見遊山だったのなら何も反論できないのだろうけれども・・。
もう二度と何の会議にも出席することはないが、本のタイトルを見ると興味が出てきた。他人の言うことや機嫌を気にすることなく自分の思い通りに生きる方法を見出せるのではないかという思いがあった。
著者はフランスに渡り、ソルボンヌ大学で哲学を学んだ人だ。そこで出会った人たちと学んだ学問から自分の意見というものはどういう方法で表現できるのかということを考えた結果が書かれている。著者自身も日本人独特の価値観や処世術とフランス人の考え方に戸惑いを覚えながらもフランス人の合理性には納得のいくものがあると感じたようだ。
フランス人というと、いつもデモをやっていたり、古くは自国の国王や皇帝を処刑したり追放したりとお上の言うことには無条件で従うというような日本人の感覚では想像ができないような行動をとってきた。
師とサルトルが初めて会見した時もサルトルが反右翼抗議デモに参加していたときだった。フランス国歌自体も「戦え」と鼓舞しているくらいだ。
著者がフランスの哲学科で学んだなかで辛かったことのひとつが、自分の主張の正当性を示す方法の教育であった。徹底したスパルタ教育で、「人それぞれです」とか、「時と場合によります」とうような当たり障りのない言い方は全否定される。必ず問われるのは、『人それぞれかもしれないけど、あなたはどう考えるの?』という問いかけであったという。
著者は、その過程で、フランスでは、「自分が思ったことを自由に主張してよいのだ」ということを少しずつ理解して行ったのである。
フランスではバカロレア(大学入学資格を得るための試験)の試験には哲学の科目がある。そのために、小学校から高校まで哲学的な問いに答えるための“考え方”を学ぶのだという。
フランス人は会話の中でひとつのテーマについてとことん突き詰めるという。そして、相手の一言一句にまで注目して意見との違いを楽しむのだそうだ。『同じように見える意見でも、違う人間なんだからどこかに絶対違いがあるはずだ。その違いを探るのが面白い。』らしい。
相手に「わかる」というと、「どこがどうわかったの?」と突っ込まれるのがフランスだ。
大体、僕もそうだが、日本ではお互いの価値観の不一致が起こると、「この人とは合わない」と会話が途切れるどころか関係に見切りをつけてしまう。しかし、フランスでは価値観の違いで人間関係が変わることはない。人はそもそも自分とは違う存在なので、違う考え方をしてあたり前だと思っているのだそうだ。
この本は、フランス人はどうやってそういった思考法を身につけているのかということを通して「自分の意見」の作り方を解説している。
フランスの哲学の授業では、幸福、自由、国家、正義、真理といったテーマごとに単元として分かれている。
バカロレアではこういったテーマについて論述形式で回答する。
その教育方法を手本にして、提出されたテーマを論理的に構築し、文章でまとめる方法を五つのステップで考えをまとめてゆく。
① 問いを立てる
考えるための“目印”を見つける。
② 言葉を定義する
言葉を丁寧に扱って思考をクリアにする。
③ 物事を疑う
与えられた条件や前提をそのまま鵜呑みにするのではなく、「本当にそう?」と疑いの目を向ける。
④ 考えを深める
あるテーマについて自分の考えを段階的に深めてゆく。
⑤ 答えを出す
これはメンタルな部分で、「反論されたら・・」とか、「否定されたらいや・・」というような気持ちを押し切って白黒つけて結論を出すということ。
もう少し詳しく見てゆくと、
① の「問いを立てる」というのは、設定した問題について、さらに根本になるもの、例えば「同性婚に賛成か反対か」とい問題を考えるとき、そもそも同性婚とはどんなものか、なぜ反対されるのかというその問題が持ともっと基本的な問題について問いを建てるということである。確かに、あるものについて考えるとき、意外とその問題についての基本的な意味を知らなかったということは多々ある。それでは問題の本質を知ることはできないということだろう。
② の、「言葉を定義する」とは、その論議で使う言葉の意味をきちんと定義しておくということだ。「この言葉はこういう意味で使っています。」ということをはっきり宣言しておくということである。文章に書く時だけではなく、誰かと議論するときにも、この言葉はこういう意図で使っていますというだけで、お互いの議論の歯車がかみ合うというのである。著者は、日本人はこれが苦手だと考えている。日本人は心が優しいのか、何となく察してあげるというのが美徳だと思っているというのである。だから、どんな言葉もあやふやにして使っているというのである。逆に、フランス人は、言葉のダイヤルを合わせる、すなわち定義づけるというのは考えるときの必須作業だと考えられているそうだ。論文や論述を書く時には導入となる部分にその文章のキーワードとなる言葉の定義を記すのが当たり前になっているらしい。
③ の、「物事を疑う」は、まさしくクリティカルシンキングというやつだ。目の前のことを簡単に信じないで、一度「本当かな」と疑ってみるということが大切であるという。「疑う」ということは、哲学の世界では思考の“一時停止”の状態をいう。それはそのことについて一度立ち止まってじっくり考えて判断することを意味するのである。
これも、日本人は“共感”を重視するので、何も考えずに、「そうだよね~」と答えてしまう。う~ん、これにはものすごく共感してしまう・・。僕はもう、こればっかりで生きてきた・・。すでにこの本を読みながら、「そうだよな~」と思っている・・。
④ の、「考えを深める」は、「一部だけでなく全体に目を向ける」「表面から本質に迫る」「単純な考えから複雑な考えに移行する」というのだが、あまりピンとこない。まあ、頭の中でその問題をクルクル回してみるということかなと思うが、この本ではその方法を、弁証法プラン(テーゼとアンチテーゼを組み合わせてジンテーゼを導くというやつ)、分析プラン(物事の状況を分析し、原因をつきとめ、次にその後の結果を予想する、あるいは解決策を提示する。)、テーマ別プラン(ひとつのことをさまざまな視点から見てみるという方法。フランス人は文章を書くときやロジックを展開するときは“3”が好まれるらしく、三つくらいの視点がいいのではないかと著者は言っている。)
弁証法や分析プランというのはよくわからないが、テーマ別プランというのは僕でもやれそうな気がする。
⑤ の、「答えを出す」は、ある立場を選ぶことだと著者は言う。そのためには、「相手に配慮しすぎる必要はない。個人の勝手な意見だと開き直る。議論を“テイクアウト”する。横並びで話してみる。という四つのことが大切だという。
最初のふたつはよくわかるが、残りのふたつはあまり意味がわからない。「議論を“テイクアウト”する」というのは、その場で自分の意見がまとまらなければ無理に発現する必要はないというものだが、これはちょっと現実にはそぐわない。ブログを書いている分にはいいけれども、会議の席で、「後日でもいいですか・・?」などと言ってしまうとそれは無能であるという烙印を押されてしまう。「横並びで話してみる」というのも、これはドラマの世界でしか起こらないシチュエーションだろう。フランス人なら平気でやりそうな気もするが・・。
結論としては、他人のことを気にしていたら自分の意見は絶対に言えないということなのだろう。それには意見の合わない相手に見切りをつけるということではなく、違っていて当たり前であるということを認識すべきだということも加わる。
サツマイモを作っている叔父さんと叔母さんは畑に出るとなんやかやといつも喧嘩をしているのだが、その数分後にはいつも笑って話をしている。きっとこういうスタンスが著者がいう「自分の意見」の表明の仕方なのだろう。あの人たちはムラ社会の中で生きるバリバリの日本人だと思っていたけれども意外とグローバルな人材であったのだ。
しかし、これは持って生まれたものも大きいように思う。僕にはできない芸当だ。嫌いなものは嫌いで、その人のある部分に賛同できなければすべてにおいて賛同できない。そこだけを認めるということはできない。
だから、せっかく読んだ本だが、僕の意見はブログの中では僕なりの表明ができたとしても、いざ、人と対峙した時にはまったく役には立たないだろうと思う。
幸か不幸か、人生のこれから先、他人を説得しなければならないという場面もないだろうし、気に入らない人の相手をし続けなければならないこともない。「あんた、客にこんなことを言っただろう!」と濡れ衣のようなことを言われても、あえてそれに対して無駄な反論もしようとは思わない。それで給料が変わるわけでもないし、日本人らしく、適当にあしらっていれば事は済む。
まあ、歳を取るというのはそういうことだったりもするのだろう。これでいいのだ・・。
ヒラヤマミキというと、「真夏の出来事」というヒット曲を思い出すが、この人とはまったく関係がない。この名前がピンときて読んでみようと思ったわけではない。
自分の意見を理路整然と、しかも自信をもって、しかも相手を傷つけず堂々と表明することはものすごく難しい。とくに日本人として生まれた僕にとっては、当たり障りなく、他の人の意見に迎合することが世の中をうまく渡っていくための必要条件なのだと思っている。
そして、これが十分条件ではない人のことがうらやましくてしかたがなかった。
会議の席でも、なんとかその場をうっちゃることができればそれでよいと思っていた。その前に、いろいろなアイデアを発表しても、よいとも悪いとも誰も何も言わないのが僕の会社の会議であった。会議に出席している全員が僕の発表内容に興味がなかったのか、何か言おうにもそれについてまったく知識がなかったのか、ある人はなんとかマウンティングだけはやっておきたいのかなんだかまったく違う話題を持ち出してその場を仕切ろうとしていた。
そんな人たちもきっと自分の意見をどうやって表現すればよいかということをまったく知らず、意見を戦わせるという術も持っていなかったに違いない。
自民党の女性議員のフランス研修のSNSへの投稿が不適切だというニュースが出ていたが、これなんかも、自分の意見を持っていたらこういう行動の中のこの時間に一息入れてこんな写真を撮ったのだと堂々と言えるのだろうが、とりあえず謝っておこうというのが自分の意見を持っていない日本人独特の行動なのであろう。もっとも、その前に、本当に物見遊山だったのなら何も反論できないのだろうけれども・・。
もう二度と何の会議にも出席することはないが、本のタイトルを見ると興味が出てきた。他人の言うことや機嫌を気にすることなく自分の思い通りに生きる方法を見出せるのではないかという思いがあった。
著者はフランスに渡り、ソルボンヌ大学で哲学を学んだ人だ。そこで出会った人たちと学んだ学問から自分の意見というものはどういう方法で表現できるのかということを考えた結果が書かれている。著者自身も日本人独特の価値観や処世術とフランス人の考え方に戸惑いを覚えながらもフランス人の合理性には納得のいくものがあると感じたようだ。
フランス人というと、いつもデモをやっていたり、古くは自国の国王や皇帝を処刑したり追放したりとお上の言うことには無条件で従うというような日本人の感覚では想像ができないような行動をとってきた。
師とサルトルが初めて会見した時もサルトルが反右翼抗議デモに参加していたときだった。フランス国歌自体も「戦え」と鼓舞しているくらいだ。
著者がフランスの哲学科で学んだなかで辛かったことのひとつが、自分の主張の正当性を示す方法の教育であった。徹底したスパルタ教育で、「人それぞれです」とか、「時と場合によります」とうような当たり障りのない言い方は全否定される。必ず問われるのは、『人それぞれかもしれないけど、あなたはどう考えるの?』という問いかけであったという。
著者は、その過程で、フランスでは、「自分が思ったことを自由に主張してよいのだ」ということを少しずつ理解して行ったのである。
フランスではバカロレア(大学入学資格を得るための試験)の試験には哲学の科目がある。そのために、小学校から高校まで哲学的な問いに答えるための“考え方”を学ぶのだという。
フランス人は会話の中でひとつのテーマについてとことん突き詰めるという。そして、相手の一言一句にまで注目して意見との違いを楽しむのだそうだ。『同じように見える意見でも、違う人間なんだからどこかに絶対違いがあるはずだ。その違いを探るのが面白い。』らしい。
相手に「わかる」というと、「どこがどうわかったの?」と突っ込まれるのがフランスだ。
大体、僕もそうだが、日本ではお互いの価値観の不一致が起こると、「この人とは合わない」と会話が途切れるどころか関係に見切りをつけてしまう。しかし、フランスでは価値観の違いで人間関係が変わることはない。人はそもそも自分とは違う存在なので、違う考え方をしてあたり前だと思っているのだそうだ。
この本は、フランス人はどうやってそういった思考法を身につけているのかということを通して「自分の意見」の作り方を解説している。
フランスの哲学の授業では、幸福、自由、国家、正義、真理といったテーマごとに単元として分かれている。
バカロレアではこういったテーマについて論述形式で回答する。
その教育方法を手本にして、提出されたテーマを論理的に構築し、文章でまとめる方法を五つのステップで考えをまとめてゆく。
① 問いを立てる
考えるための“目印”を見つける。
② 言葉を定義する
言葉を丁寧に扱って思考をクリアにする。
③ 物事を疑う
与えられた条件や前提をそのまま鵜呑みにするのではなく、「本当にそう?」と疑いの目を向ける。
④ 考えを深める
あるテーマについて自分の考えを段階的に深めてゆく。
⑤ 答えを出す
これはメンタルな部分で、「反論されたら・・」とか、「否定されたらいや・・」というような気持ちを押し切って白黒つけて結論を出すということ。
もう少し詳しく見てゆくと、
① の「問いを立てる」というのは、設定した問題について、さらに根本になるもの、例えば「同性婚に賛成か反対か」とい問題を考えるとき、そもそも同性婚とはどんなものか、なぜ反対されるのかというその問題が持ともっと基本的な問題について問いを建てるということである。確かに、あるものについて考えるとき、意外とその問題についての基本的な意味を知らなかったということは多々ある。それでは問題の本質を知ることはできないということだろう。
② の、「言葉を定義する」とは、その論議で使う言葉の意味をきちんと定義しておくということだ。「この言葉はこういう意味で使っています。」ということをはっきり宣言しておくということである。文章に書く時だけではなく、誰かと議論するときにも、この言葉はこういう意図で使っていますというだけで、お互いの議論の歯車がかみ合うというのである。著者は、日本人はこれが苦手だと考えている。日本人は心が優しいのか、何となく察してあげるというのが美徳だと思っているというのである。だから、どんな言葉もあやふやにして使っているというのである。逆に、フランス人は、言葉のダイヤルを合わせる、すなわち定義づけるというのは考えるときの必須作業だと考えられているそうだ。論文や論述を書く時には導入となる部分にその文章のキーワードとなる言葉の定義を記すのが当たり前になっているらしい。
③ の、「物事を疑う」は、まさしくクリティカルシンキングというやつだ。目の前のことを簡単に信じないで、一度「本当かな」と疑ってみるということが大切であるという。「疑う」ということは、哲学の世界では思考の“一時停止”の状態をいう。それはそのことについて一度立ち止まってじっくり考えて判断することを意味するのである。
これも、日本人は“共感”を重視するので、何も考えずに、「そうだよね~」と答えてしまう。う~ん、これにはものすごく共感してしまう・・。僕はもう、こればっかりで生きてきた・・。すでにこの本を読みながら、「そうだよな~」と思っている・・。
④ の、「考えを深める」は、「一部だけでなく全体に目を向ける」「表面から本質に迫る」「単純な考えから複雑な考えに移行する」というのだが、あまりピンとこない。まあ、頭の中でその問題をクルクル回してみるということかなと思うが、この本ではその方法を、弁証法プラン(テーゼとアンチテーゼを組み合わせてジンテーゼを導くというやつ)、分析プラン(物事の状況を分析し、原因をつきとめ、次にその後の結果を予想する、あるいは解決策を提示する。)、テーマ別プラン(ひとつのことをさまざまな視点から見てみるという方法。フランス人は文章を書くときやロジックを展開するときは“3”が好まれるらしく、三つくらいの視点がいいのではないかと著者は言っている。)
弁証法や分析プランというのはよくわからないが、テーマ別プランというのは僕でもやれそうな気がする。
⑤ の、「答えを出す」は、ある立場を選ぶことだと著者は言う。そのためには、「相手に配慮しすぎる必要はない。個人の勝手な意見だと開き直る。議論を“テイクアウト”する。横並びで話してみる。という四つのことが大切だという。
最初のふたつはよくわかるが、残りのふたつはあまり意味がわからない。「議論を“テイクアウト”する」というのは、その場で自分の意見がまとまらなければ無理に発現する必要はないというものだが、これはちょっと現実にはそぐわない。ブログを書いている分にはいいけれども、会議の席で、「後日でもいいですか・・?」などと言ってしまうとそれは無能であるという烙印を押されてしまう。「横並びで話してみる」というのも、これはドラマの世界でしか起こらないシチュエーションだろう。フランス人なら平気でやりそうな気もするが・・。
結論としては、他人のことを気にしていたら自分の意見は絶対に言えないということなのだろう。それには意見の合わない相手に見切りをつけるということではなく、違っていて当たり前であるということを認識すべきだということも加わる。
サツマイモを作っている叔父さんと叔母さんは畑に出るとなんやかやといつも喧嘩をしているのだが、その数分後にはいつも笑って話をしている。きっとこういうスタンスが著者がいう「自分の意見」の表明の仕方なのだろう。あの人たちはムラ社会の中で生きるバリバリの日本人だと思っていたけれども意外とグローバルな人材であったのだ。
しかし、これは持って生まれたものも大きいように思う。僕にはできない芸当だ。嫌いなものは嫌いで、その人のある部分に賛同できなければすべてにおいて賛同できない。そこだけを認めるということはできない。
だから、せっかく読んだ本だが、僕の意見はブログの中では僕なりの表明ができたとしても、いざ、人と対峙した時にはまったく役には立たないだろうと思う。
幸か不幸か、人生のこれから先、他人を説得しなければならないという場面もないだろうし、気に入らない人の相手をし続けなければならないこともない。「あんた、客にこんなことを言っただろう!」と濡れ衣のようなことを言われても、あえてそれに対して無駄な反論もしようとは思わない。それで給料が変わるわけでもないし、日本人らしく、適当にあしらっていれば事は済む。
まあ、歳を取るというのはそういうことだったりもするのだろう。これでいいのだ・・。
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