イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「合成生物学の衝撃」読了

2019年05月09日 | 2019読書
須田桃子 「合成生物学の衝撃」読了

「合成生物学」という言葉が異様に見えた。人間が生物を合成して作り出すなんてまるでSFかホラーだ。もちろん、遺伝子組み換え技術なんていうのは最近では新聞やニュースではよく聞く言葉だから知っているけれども、「合成」という言葉はそれの上を行きそうだ。

では、「合成生物学」とはどんなものかというと、いままで遺伝子組み換えというとウイルスなんかに別の生物の遺伝子を運ばせて組み換えるという、まあ、これを聞いているだけでもとんでもなくよくわからない技術ではあるけれども、合成生物学では、まず、その遺伝子をヌクレオチド(高校生時代に暗記した、アデニン、グワニン、シトシン、チミンというDNAの基本単位。)を一個ずつつなげて新しい遺伝子を作り、それを”クリスパーキャスナイン”という技術を使って思い通りの場所に入れ込むという技術を使って新しい能力を持った生物(単細胞生物)作ってやろうという学問だそうだ。遺伝子は読む時代から書く時代に進んだのだ。とこの本には書かれている。僕にはもうわからない。僕は老眼が進んでいるので、移動ウキをセットするための2個のシモリ玉を道糸に通すのにさえ四苦八苦しているのだ。目に見えない、つまむことさえできないものをどうやってつなぐというのだ。接着剤はあるのだろうか・・。
ちなみにiPS細胞はウイルスを使って遺伝子を運ばせる方法で作られているらしい。

2016年にはジョン・クレイグ・ヴェンターという分子生物学者が、完全に人工に作られたDNAを細胞核と置き換えて遺伝子がすべて人工的に作られた単細胞生物、「ミニマム・セル」を作り出すことに成功したそうだ。生物というだけにちゃんと細胞分裂をして増殖するらしい。

この本の3分の1は、こういった研究がどこで誰のお金で行われているのかということに言及している。その中心になっているのは、DARPA(アメリカ国防高等研究計画局)というところで、その名のとおり、軍事目的の技術開発を担っている機関だ。この本の著者は毎日新聞の記者だということで、それが直接軍拡や国家間の対立を深めるのだというようなことを偏った見方では書いてはいないけれども、そういうことが秘密裏に行われていることは事実ではないのだろうかという示唆は出している。
事実、旧ソ連から亡命した科学者たちは元の国でそういった研究を秘密裏におこなってきてそれを知っているアメリカが対抗策を講じないはずがないと言っているのだ。ヴェンダーという科学者は国家に縛られることを嫌って、投資家から資金を集めて研究所を設立してヒトゲノムの解析を世界で初めて完了した科学者になったそうだが、相当な数の科学者はDARPAの資金提供を受け入れるようにもなった。豊富な資金力と人材には勝てないということだ。
インターネットやGPSというのもこういった軍事技術から民生用に派生してきた技術だからすべてが悪魔の技術というわけではない。DARPAもこういう研究は攻撃目的で行っているのではないと言っている。たしかに、合成生物学が食糧危機や感染症の予防に劇的な革命をもたらしてくれるかもしれない。けれども、科学者の性、もしくは人間の欲望は恐ろしいという。単細胞生物を創りだすことができたのなら次は多細胞生物だ。となってくる。人間を改変して最強の兵士を作り出そうとするかもしれない。臓器移植用の分身を試験管の中から作り出すかもしれない。
そういった、ある意味、神の領域を侵すような行為を誰がどうやってどこまで認めるのか。自動運転もそうだが、そんなことが決まってゆく(決める方法もないのじゃないかと思うけれども・・)前にテクノロジーのほうがどんどん先行してパンドラの箱からあふれ出してしまう。
その時はどうなるのか。「遺伝子ドライブ」という技術はそのクリスパー技術というものを使ってその性質を瞬く間に生物間に広めてしまう技術だそうだ。マラリヤを媒介する蚊や生態系のバランスを崩す外来生物の駆除に期待されているそうだが、一度放たれたものを収束させることができるのか。(タイマーのように収束させる技術まであるそうだが。)それがわからないまま便利そうだと、また事故に乗じて研究施設の外に出てしまうかもしれない。

”クリスパーキャスナイン”という技術は2012年に発表された技術で、2016年には人工の生物と言えるものが生み出された。それは凡人にはとんでもなく速いスピードに思える。令和の時代というのはきっと人類が神を超える時代になるのではないかと感嘆と驚愕を覚えるのだ。神を超えた人類はやはり神になるのか、それとも悪魔になるのか。この速さでは僕でさえその終末を見ることができてしまうのではないだろうか。


ジョン・クレイグ・ヴェンターが創りだしたミニマム・セルにはそれが人工のものであるということと誰が作ったかということが識別できるように、DNAの端っこに作成者の名前がコードされているそうだ。ヒトゲノムもその30億個の塩基対の配列はすべて解読されているがその98パーセントはどういう役割をしているかあまりわかっていなくて、ある部分はガラクタと考えられているそうだ。ひょっとしたら、そんなガラクタな場所に、どこかの遠い星の言葉で、「コノイデンシヲツクッタノハボクダヨ~ン」なんて書かれてはいないだろうかと少し期待してしまうのだ。
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タケノコを掘る!

2019年05月05日 | Weblog
Kさんから、「タケノコ堀りに来ませんか?」というメッセージをいただいた。聞くところによると、竹林の整備をする代わりにタケノコを好きなだけ掘らせてもらうというバーターの約束を山のオーナーさんとしていて、毎年ゴールデンウイークの1日を使ってそれを敢行しているそうなのだ。

これはいいではないか。おまけに場所は伊太祁曽神社の裏手ということで、まさにここは「山東のタケノコ」の産地なのだ。山東のタケノコというと和歌山ではほとんどの人が知っているブランドタケノコだ。
午前9時に総勢約20名が集合。

 

案内された竹林は確かにテレビで見るような感じではなくてちょっと荒れ気味だが、たぶん暦年の人たちがなんとか竹の猛攻をかわし続けたのであろう開けた場所があり、まずはその周辺でタケノコを掘り出す。ここのタケノコはかなり大きくなっても柔らかく、1メートルを超える大きさになって十分食べられるとのことだ。しかし、山菜はどれも小さいほどおいしいと思っている僕は土の上に少しだけ先っちょを出しているものを掘り出してみた。



これが意外と体力を使う。いつもの山ウド用の小さな鍬で土を掘り起こすのだけれども2本掘ったところですでに握力の減少を感じてしまう。本当に体力がない。情けない。

1時間と少しほどで土嚢袋1杯のタケノコを確保して次は竹林の整備だ。参加していたオーナーさんの話では、以前には柿畑もあったのだが竹林に飲み込まれてしまったそうだ。竹が密集しているところを間引くのだが、この竹が太い。孟宗竹はもともと太い竹だけれども、こんなに太い竹を間近でみたことがない。



たまに車で道路を走っていると、ここはえらく太い竹が生えているなと思うことがあるけれどもそれは通り過ぎてゆく景色の中にしか過ぎない。太いものだと直径はゆうに20センチを超えていそうだ。高さもおそらく10メートルを超えている。それを根元から1メートルくらいのところで切ってからさらに適当な長さに切って積み上げてゆく。この、1メートルを残すのがコツで、これくらいの長さを残しておくと、竹はまだ自分は生き残っていると思い込んで地下茎から新しい芽を出さないそうだ。ここも去年の台風でたくさんの竹が倒れたらしくそれを中心に切り倒してゆく。



すでにタケノコ堀りで体力を使っていてさらにこんなに太い竹と格闘するのだから体はフラフラだ。泰樹さんの開拓の苦労もかくあったのだろうかと少しだけ感慨にふけるのだ。(「なつぞら」を観ていない人には意味が分からなくてすみません・・。)
ただ、竹は太くてもそこは空洞なので、面白いくらいにのこぎりが入ってゆく。これはこれで快感なのだ。
しかし、このブログにいつもコメントを書いてくれるちからさんと午後4時過ぎまで作業をして、やっと見通しのよい地面を作れたのが、どうだろうか、5メートル×20メートルくらいのスペースくらいのものではなかっただろうか。竹の生命力には恐れ入る。生命力というと、成長力もすごい。ほぼタケノコの形のままでグーンと3メートルくらいまで伸びている。ここまでになるのに数日もかからないそうだ。そして、その竹のなんと柔らかいことか。皮をはぐとほぼ竹なのだが、それがめちゃくちゃ柔らかくて瑞々しい。ナイフで簡単に割けるので、持参した寒天をこれに入れて参加者の方々にふるまうと意外と好評であった。


この文章は翌日に書いているのだが、そろそろ筋肉痛が出てきた。歳をとるとすぐには痛くなってこない。目下のところ、太ももの付け根辺りが痛くて、たぶん、和式トイレではアウトの状況である。もう少しすると前腕部分の痛みが増してきて、キーボードを叩くことが困難になってくるだろう。いまでも親指の付け根が痛い。会社ではそれを隠してぼ~っと過ごしている。まあ、こんなところはサラリーマンというのは気楽でいいんじゃないかな~と悲しいかなつくづく思うのである。しかし、前日に73.3kgあった体重は70.2kgに。



ブランドタケノコをゲットして竹林もきれいになって(ほとんど力になってはいないが・・・)、体重も減ってと、ひと粒で三度美味しいのだからこのうえない。
惜しむらくは、もう少したくさん採って来るべきだった。タケノコというのは皮をはぐとかなり小さくなるということがわからなかった。来年、機会があれば倍は採って来よう。
春の楽しみがまたひとつ増えた。



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加太沖釣行

2019年05月02日 | 2019釣り
場所:加太沖
条件:中潮 4:57満潮 11:06干潮
潮流:5:23 上り2.3ノット最強 8:48転流 11:46下り2.7ノット最強
釣果:ボウズ

今日の釣行以降、当分船には乗れそうにないのでとりあえず両方の船のエンジンを回しておこうと朝一は小船、それから大きい方に乗り換えてのダブルヘッダー作戦を立ててみた。元号が変わっても結果は見事ボウズ・・・。これだけは変わらない・・。そしてパソコンのキーボードで、“釣果”と打つと予測変換のトップに“ボウズ”と出るようになってしまった。AIが搭載されているわけではないが、このパソコンとも長い付き合いなので僕のことをよく分かってくれているらしい・・。悔しい・・・。

午前4時半、小船を駆って紀ノ川河口へ。いつものポイントでワームをキャスト。今年はテレビで見たワームのセッティングを試し続けようと思う。なんだか、ミノーを引っぱっているよりも釣れそうな気がするがどうだろうか・・。



まあ、予測していたことだが、やはりアタリがなくすぐに帰港。
それから大きい方の船の準備をして加太に向かう。今日の潮は転流時刻が8時48分なのでゆっくり行っても大丈夫だろう。行きは無風快晴。気持ちよくクルージング。



下り潮に備えて最初から友ヶ島の北側でスタート。



アタリはない。今日は一度だけビニールをわずかにかじられただけで終わってしまった。全然アタリがなくてこんなに穏やかな海面なので後半は睡魔との戦いだ。よけいに釣れる気がしない。



まあ、天気がよくて心地よかったというだけでマルとでもしておこうか・・。
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「みんなの朝ドラ」読了

2019年05月01日 | 2019読書
木俣冬 「みんなの朝ドラ」読了

著者は、「おら、あまちゃんが大好きだ」の著者である。

通勤時間が短くなって朝の連ドラをリアルタイムで見ることができるようになった。見ることができるようになったといっても、いままでは録画をしてまでも見ようという意欲があったわけではない。休みの日に家にいてたまたま放送時間にテレビの前に座っていたら見るくらいのものだから、ストーリーがわからなくてウチの奥さんに解説をしてもらって観るくらいだった。しかし、朝の連続テレビ小説の記念すべき100作目をリアルタイムで見ることができているというのは何かの啓示に違いないと思うのだ。なんと幸運なことだろう。

歴代のヒロインたち、松島菜々子、小林綾子、松嶋菜々子、北林早苗(この人は小さかった頃のなつにサツマイモをあげるだけのチョイ役だったが・・)、小林綾子、岩崎ひろみ、もうすぐ山口智子や比嘉愛未、貫地谷しほりも出演予定だそうだ。もうこうなっては、朝ドラのアベンジャーズと言っても過言ではないのだから観ないわけにはいかない。(と、この文章を書いている間に比嘉愛未が登場してしまった。)
それがリアルタイムで観ることができるのだ。僕はひょっとしてBSと地上波でストーリーが異なることがあるのではないかと気が気でならず、それを見守るために朝から両方観ているのだ。

僕はこのブログのなかでもたびたび「あまちゃん」のことを話題にしているけれども、世間が再び朝ドラに注目しはじめたので僕もついでににわかファンになったのではないというとことは主張しておきたい。
朝ドラとの出会いは「鳩子の海」からだった。この本のデータによると、1974年放送で、平均視聴率は47.2%。僕のおばあちゃんが朝ドラが大好きで、泊りに行くといつも午前8時15分になると必ず見ていた。そこからが朝ドラとの出会いのスタートだったのだ。ヒロインの藤田三保子が「Gメン75」に出演していたときは、ああ、「鳩子の海」の人だ!と思ったくらいだ。それからずっと見ていたかというとそうでもなかったのだが、再び熱中してしまったのが「澪つくし」だった。柴田恭平が戦死する回は、大学からこれを見るために朝一の授業だけ受けて舞い戻り、時間に間に合うよう和歌山駅から原チャリをブッ飛ばしてしていたら白バイに一時停止無視で捕まり、結局大切な回を見損なってしまったという悲しい思い出がある。あの頃、我が家にはビデオデッキというものがなかったのだ。
あとはちょろちょろ見たり見なかったりで結局、「あまちゃん」で火が点いたということは僕も単なるミーハーでしかないということか・・・。

この本は、朝の連続テレビ小説を、草創期から「ひよっこ」までをそれぞれの時代の世相、女性の価値観の変化に照らし合わせて解説している。とくに2010年以降のドラマについての解説が詳しい。
人気の朝ドラではあるけれども、「鳩子の海」の時代は40%以上というのが当たり前であったのが、「てるてる家族」以降は下降線をたどり始める。それが上昇に転じたのはその2010年の「ゲゲゲの女房」からになる。放送時間が少し早くなって見やすくなったということもあるのだろうが、そこにはやはり時代を映すSNSの登場がある。リアルタイムで発せられる視聴者の反応がさらに話題を呼ぶようになる。僕が三たび朝ドラに関心を持ち始めたのもきっとこのころであったように思う。

朝ドラを制作するうえでの三原則というものがあるそうだ。それは、「明るく、元気に、さわやかに。」であり多かれ少なかれ、ほぼどのドラマにも組み込まれている。そのうえで、それぞれの時代の女性の典型的な生き方、もしくは脚本家がいち早く捕えた女性の生き方の変化を題材に物語は描かれる。
それは、夫の成功のためにひたすら尽くす女性像であったり、職業を持ちそこで成功をおさめる女性の一代記であったりする。時代が進むとシングルマザーも現れ、生涯独身を貫くヒロインも現れる。震災以降はただ、平凡に生きただけのヒロインも。朝の時間帯にはそぐわない不倫のエピソードもはさまれるようになってきた。舞台になる時代はそれぞれ異なるけれども、そこにはその時代時代が求める、もしくは認めたい女性像ある。


そして究極の朝ドラが、「あまちゃん」だ。これはもう、誰もが認めるものだろう。この本の解説では、ドラマの出演者のなかの”影武者”たちにスポットを当てている。若き頃の春子さんを筆頭に、安部ちゃん、ユイちゃんでさえも東京に出ることがなかったという点ではやはり物語の中では”影”を演じていると言えなくもないというのである。その影たちもおっとどっこい、自分たちも力の限りに生きているのだという強力な生命力があのドラマの大きな魅力のひとつであったと考えると合点がいく。

どちらにしても、「あまちゃん」は日本のドラマの価値観を変えてしまったという意味ではキリストの誕生にも匹敵するのではないかと僕は考えるのだ。「あまちゃん」の前に「あまちゃん」は無く、「あまちゃん」の後ろにも「あまちゃん」はない。日本のドラマは「あまちゃん」を境にして語られ、「あまちゃん」の放送された2013年はドラマ紀元0年と言ってもよいのである。
当然、ここでは、能年玲奈はキリストであり、「あまちゃん」全体は聖書である。そうすると、キリストが死をもっておこなったように、能年玲奈は自らの名前を失うことによって人民の心の中に永遠に生き続けるのである。あの騒動は必然であったともいえるのだ。


現在放送中の「なつぞら」ははたしてどうだろうか。先に書いた通り、100作目ということでNHKも万全の態勢で臨んでいるということはよくわかる。ただ、脚本は、「てるてる家族」の大森寿美男だ。視聴率が低下し始めた時期の最初の脚本家であるというところが気になる。「てるてる家族」はあれはあれで面白かったといえば面白かったけれども・・。
しかし、そんな低視聴率の脚本家でも最初の2週は感動ものだった。朝ドラヒットの法則通り戦争時代を生き抜く幼いヒロインを見事に描き切っていた。なつの子役の粟野咲莉とそれにも増して草刈正雄の演技が光っている。そのセリフにも強烈な重みを感じるのだ。

「我慢せず言いたいことを言う。言わないと生きてゆけなかった。言える相手があるということは恵まれている。」
同じく、「それはお前が搾った牛乳から生まれたものだ。よく味わえ。ちゃんと働けば、必ずいつか報われる日が来る。報われなければ、働き方が悪いか、働かせる者が悪いんだ。そんなとこはとっとと逃げ出しゃいいんだ。だが一番悪いのは、人がなんとかしてくれると思って生きることじゃ。人は、人を当てにする者を助けたりはせん。逆に自分の力を信じて働いていれば、きっと誰かが助けてくれるものじゃ。」
というセリフなどは連ドラ史に残る名セリフだと思うのだ。いっそのこと、この2週でドラマを打ち切っていれば稀有の名作という誉れを手にすることができたのかもしれない。

それゆえに3週目以降が残念だ。なつが東京に向かうための必然をあまりにも見え見えに作り出しているように見えて仕方がない。そして、コメディなのか、シリアスなドラマなのか、どうも中途半端な気がしてならない。そこを草刈正雄がなんとかうまくまとめているという印象が強いのだ。

なつが絵を描くことが好きだという設定はよいにしても、演劇部に唐突に入部するというのはどうなんだろうか?そこはアキちゃんが突然北三陸高校の潜水土木科へ突然転入するというエピソードへのオマージュかもしれないが、将来、クリエーターを目指すのだということを露骨に示しすぎている。見る側もそこまできっちり明示してくれなくてじんわりわかっていきたいと思っているのではないだろうか。
「あまちゃん」へのオマージュというと、FFJのクラブ歌を熱唱するシーンは南部ダイバーの歌、なつが自転車に乗りながら叫ぶシーンも同じくアキちゃんが失恋したシーンへのオマージュに違いないと思うのはぼくが「あまちゃん」にあまりにも傾倒しすぎているからだろうか。

どちらにしても今の流れは物語全体がなつをむりやり東京へ向かわせようという伏線が見え見えになっている。そうなるのは番宣でわかってはいるのだが、そこはうまく描き切ってもらいたい。脚本が少々悪くても、広瀬すずちゃんと草刈正雄の魅力で十分に乗り切ってくれるだろう。朝ドラには三原則のほかに、”幼なじみと結婚する”、”対照的な性格のライバルが出現する”という法則があるそうだ。なつにはあまりにもたくさんの幼なじみがいる。いったい誰と結婚することになるのだろうか?門倉君でないことは確かだろうが・・。そしてライバルは・・・。今は夕見子がそのライバルのようだが、東京編で新しいライバルが出現するのか、今週もなんだかドタバタな展開でスタートしたけれども、「まれ」のような行き当たりばったりのドタバタで終わってほしくはない。これからの展開に期待するのだ。
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